第2話 白と黒


 清掃の行き届いた個室。千世ちせはその白い手で本のページをめくっている。色素の薄いショートの髪が時折垂れ下がる。夢中で読み進める彼女の代わりに僕はそれを耳に掛けた。


「この本、面白いよ。出てくる女の子の髪が飴細工なの」

「夏は溶けちゃうんじゃないですか」

「特別な飴でできているから大丈夫みたい。ご都合主義ね」


 意味が少し違うような気がするが、千世が言うなら違わないようにも思えた。




 はなぶさ千世ちせ。僕より三つ歳上の幼馴染であり、交際して二年になる恋人だ。今は病に侵されて山間の病院に入院している。


「今日もありがとう」


 読んでいた本に押し花の栞を挟んで、傍の棚上に置く。表紙は絵本のようなタッチで描かれた、愛らしい中型犬。なんとなく、彼女に似ている。


「大学の卒業論文は提出できそう?」

「年内には。あとは全体の校正さえ済ませれば終わりそうです」

「ひと安心ね」


 千世は微笑んで、それから窓辺に飾られた花瓶を見つめる。


「この前持ってきてくれた花だけど、看護師さんが持って行っちゃった」


 確かにあそこには僕の持ってきた紫のパンジーが生けてあったが、なくなっていた。千世が春に咲く花を見たいと言っていたので、春以外でも咲くパンジーを花屋で買ってきたのだった。


「パンジーって縁起が悪いんでしょうか」

「花言葉は、思慮深い、って図鑑には載っていたわ」


 得意げに言う千世。


「鉢植えでもなかったし、縁起が悪いということはないと思うのだけれど」

「枯れそうだったのかもしれませんね」

「いいえ、そんなことはないわ。だってわたし、ずっと眺めていたもの」


 それだけあの花を気に入っていたのだろう。わざわざ探したかいがあったと思う一方で、花を持ち去ってしまった看護師を問い詰めたくなった。




 千世には肉親がいない。二歳の時に孤児院に預けられ、両親の顔や名前を知らないままに育てられてきた。


 僕もまたその孤児院で育った。生まれてすぐに孤児になったそうで、千世よりも一年遅れて孤児院に引き取られた。他にも事情は様々だけれど、実の親を知らない子どもたちである僕らは共同生活をしていた。


 そんな生い立ちもあって、僕たち『院の子ども』は血が繋がっていなくても家族だった。自立したあとも互いに助け合ってなんとか社会に取り残されないように生きていられる。


 裏を返せば、家族以外の他人に対して僕は冷ややかな態度を取らざるを得なかった。


 それが看護師であっても、自分に興味を抱いているらしい少女であっても。




遥斗はると?」


 千世が僕の名を呼ぶ。僕は軽く頷いた。


「大丈夫です。また買ってきますから」

「ありがとう、でも気持ちだけでいいよ。看護師さんもきっと理由があってそうしたのだろうし、また持って行かれたりしたら寂しいもの」


 千世はもう既に寂しそうな顔をして、窓の向こうの山を見つめていた。雪の降らないこの地域の山々は、あまりにも殺風景だった。


「退屈ね」

「きっとすぐに良くなりますよ」

「そうしたら今みたいには遥斗と会えなくなるわ」

「毎日電話しましょう」

「それはちょっと面倒臭いかな。ふふ」


 千世の手を握る。温もりは感じられなかった。僕が、彼女に温もりを届けなければいけないと思った。本当の意味で、彼女が退屈してしまわないように。


 僕には千世の病状について詳しいことはわからない。ただ、停滞しているのだと医者は言った。悪くはならないが、良くもならない。先の見えないトンネルのようだと。恐ろしい話だ。その中で歩みを止めてしまったらどうなってしまうのだろう。




 握っていないもう一方の手で、右眼を覆う髪を除ける。


 見えるのは、真っ白な箱のような部屋。周囲と区別のつかない白いベッドの上で、千世は横たわっている。


 洗い立てのシーツみたいな世界の中で、唯一黒いものがあった。それは人影だった。絵の具で塗り潰されたような、何もかもが黒くて、ひとのかたちをした美しいもの。


 こんな存在に看取られる未来が数年後のことなのか、それとも明日のことなのか。今際の際を覗く僕でさえも知ることはできない。




 そっと目を伏せる。僕はまた、何もできないままだ。

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