第16話  アカウント

屋上で みぃ のスタンガンで軽く気絶したときにカスミには非日常の歓びが生まれた。

これまでの日常にはなにもなかった。

心身不調の父親と看病疲れの母親。

儲け主義でセクハラ気味の事務所。

やっかみとイジメの温床の学校。

頭が抜群に良くて美少女という恵まれた資質なのに、どこにも安住の場所はなかった。

そんな状況に転機が訪れた。

スクワッターのレコメンドに従ってやってきた見知らぬ高校の屋上。

目が覚めると、きれいな女性が心配そうにのぞき込んでいた。

なんども、赤面しながら、ごめんねを繰り返す みぃ をカスミは可愛いと思った。

年齢的には みぃ の方が年上なのに、なぜかそう思ったのだ。

「スタンガン弱めにしといたから平気やと思うよ~ トモッキーはやばそうやったけど」

非日常の環境では知的な友人もできた。

カメの たろう だ。

みぃ と トモキ のおかれた話を的確に説明してくれたのは たろう だった。

空中を音もなく浮遊して妙な関西弁を話す たろう は全くの非日常的な存在だったが、その知性は彼女が今までで触れてきた誰よりも高いものだった。

おそらくAIで制御されているのだろうが、古典的な哲学書の質問に対しても、ふざけながらも現代人のストレスを交えて的確に答えてくれる。

古典バロックから現代ジャズまで、どんな曲でもその良さを語り合える。

10歳までに図書館の専門書をほとんど読み尽くしたカスミにとってそういう話ができる存在は たろう が初めてだった。

音声で制御できる高度な知能ロボット。

たろう にアクセスするためのアカウントは簡単に発行された。

女子トイレで床に伸びていたトモキがアドミニストレーターらしい。

特権アカウントをもつユーザの許可を得て、利用者権限をもらう。

「トモッキー カスミちゃん に権限あたえるで。ええよねぇ?」

「・・・あ、う、うん。・・・」

トモキの承認行為は直ちに実行された。

みぃ と カスミは トモキを脇から支える。

カスミの横を浮遊する たろう と囁くように会話をする。

会話は特殊なマイクとスピーカーで行われているため カスミにしか聞こえないようだ。


映像データは使える?

(使えますよ~)

じゃあ、私のジェスチャーで情報をインプットできる?

(はい。おっけー。例えば瞬き2回でイエス、1回ならNOとか。下唇を動かすと前に戻る、とかでどうやろかー。ええと思うけどねぇ。)

いいよ。それでお願い。

(ほな、通常は面倒なんで、会話でインプットしますね。モード切り替えの時は、キーワードいってもらうとかがいいかもねぇ)

じゃあ、これでどう?<標準語にして>

(わはは。おもろいわー。やっぱカスミちゃん頭ええねえ。それって使える場面も多そうやしねぇ。グッドですわ。最後にこれ決めとこか。通常の会話モードには自動的にもどるけどタイミングはこっちで勝手にきめるんでよろしく~)

ためしにやってみてくれる?

「標準語にして」

たろう が 黙り込む。

頭の中に声が聞こえる。

とりあえず、3人で行動しますか?

瞬き2回。

タクシーを呼びますか?

瞬き2回。

タクシーを呼びました。

唇。

トモキが重くてごめんなさい。

唇。

みぃ ちゃんのことを知りたいですか

瞬き2回。

短時間で無駄のない会話。

AIと直接つながる2人きりの世界。

AIのレコメンドは完璧だった。

興味のないことには触れず、こちらの表情や態度をカメラで分析しているのだろう。

こちらの心の中を見透かされているかのような不思議な対話が無駄なく続く。

ものすごい量の会話と知識充足が出来る。

いままでのどのメディアとも違う奇妙な体験だが決して不快ではない。

むしろ心地よさを感じる。

タクシーを降りてレイに会うまでに、カスミの決意は固まっていた。

知識欲を満たしてさらに友人が欲しい。

スクワッターのレコメンドはある意味間違っていなかった。

みぃ は理想のタイプだった。

可愛くて綺麗なおねえさん。

しかもどこかドジだけど天然で憎めない。

さらに表情でわかるのだが、むこうもこちらを好いている気配を感じる。

嬉しかった。

まったく日常では出会うはずではなかった人に、こうして会えたことが嬉しい。

レイのマンションでは、たろう とは会話ができないと分かっていた。

おそらくマルチタスクAIである たろう は同時にいくつもの処理が出来るはずだ。

例えばレイとの会話を行いながら、トモキと話ができるはずなのだが、ここで問題が生じるのではないかと思われた。

出力装置である音声は単純にいうと空気振動による糸電話のようなものだ。

振動は誰の耳にも届くし、誰もが聞こえる。

逆にいうとレイの声もトモキの声も、たろうには聞こえる。

それを一気に処理するとなるとAI側は大丈夫でも人間側では、複数の人間が勝手に違う話をするような状況になり、違和感を感じざるをえない。

だから結局は人間の会話以上のことはできないのだろうと思った。

ところがカスミの想いは良い意味で裏切られた。

みぃ と手を繋いでレイの話を聞いていた時に、ちょっと気になる点があった。

途端に頭の中に直接選択肢が聞こえてきた。

<レイの兄についてしらべますか?>

無意識に瞬きを2回してしまう。

<レイには兄はいません。>

唇を軽く噛む。

<頼れる人を探しますか?>

瞬き2回。

<今きた、ポートスキャンの情報です>

16進数の8つの英数字。

おそらくIPアドレスに変換できる。

<そこにアクセスしてください>

カスミはしっかりとその英数字を覚える。

たろう の秘密の声が聞こえななくなる。

そうしているあいだに慌ただしくレイのお茶会は終わった。

自宅マンションは戻りたくなかった。

昨日の恐怖を思い出して気分が悪くなる。

途中でタクシーを降り、カフェに入る。

あまり客もいないのはありがたかった。

とりあえずは、さきほどの英数字をIPアドレスに変換する。

ここからこのアドレスにアクセスしてみてもいいが、多分、タイミングがちがうのだろうと思った。

たろうは アクセスして下さい と言っていた。そのタイミングがくるのは たろう しか分からないはずだ。

念入りに小さな紙片にアドレスをメモする。

紙片をに丁寧に小さく小さく折り畳む。

いつでも取り出せるようにこっそりと隠し持った。

たろう を誘導して呼び出すことを考える。

急にスクワッターのレコメンドが表示される。

<ハイテク機器の即売会で人生を豊かに>

なんで場所が近くの街の公園なのか。

なにがハイテク機器なのか。

いかにもわざとらしいが、乗るしかない。

みぃ に会って話がしたい。

たろうを 呼び出すにはトモキを誘導するしかない。

まずはトモキだ。

スマホで作業を継続する。

公園の地図にトモキの名前だけを上書きする。

彼は自宅できっと私を検索するだろう。

検索でひっかかるようにキーワードをつける。

トモキも単純な男子だ。

扇情的な肢体の映像も見てしまったし

美少女という属性に弱いはず。

絶対に私に興味が出ているだろう。

自分だけが知っている属性を付加して、ダークウェブで検索するに違いない。

スクワッターを起動してダークウェブに入る。そうしてさきほど作成したトモキ宛のファイルをアップロードする。

これでいい。

時間がすこしだけある。

少し整理してみよう。

レイの話には破綻があると感じていた。

なぜ私たち3人を集めたのか。

無理矢理イベントを起こしたのか。

違和感はある。

でも今は、先に進むしかない。

今ここで降りてしまったら、なにも私には残らない。

今までの自分では嫌だ、と思う。

そう、進むしかない。

そのためには、信頼できる人をみつけることが最優先だ。


案の定、公園では 待ち伏せしていた ユウ につかまった。ユウ がカラスの一員であることも驚かない。

ある意味折り込み済みだ。

ユウの興味は美少女ではなく、ハイテク機器だけに向けられた。

「もってきたか?」

とっさに嘘がでる。

「友人がもってくるの。すごい機械。」

ごめんね。トモキくん。たろう。

ユウの言葉から彼が別の名目でここに来たことが分かる。ユウもまた誘導されている。

またもやスクワッターのレコメンドだ。

「網でとれる最高の品 だってさ。なんのことか分からないね。アンタわかるかい?」

ユウの目は軽い口調とは違って、真剣そのものだった。

「スクワッターに間違いはない。何度も奇跡的な体験をしたぜ。あんたもだろ?」

そうか。

カスミは たろう との会話と 今のユウの会話をあわせてなんとなく気づいてきた。

誰もが運命には逆らえない。

レイという男だって、自分がイベントを起こしたとかいっていたけれど、本当は違うのかもしれない。

みんな、進まなければいけないのだ。

なにが起こるか知っていようといまいと。


トモキとカスミとたろうが監禁されたビル=カラスの巣には1階に10名ほどの黒づくめの男たちが居た。

2階以上には多分だれもいないのだろう。

ありふれた80年代の古いビル。

コンクリのうちっぱなしがオシャレだったらしいが、今はまさに廃墟のようだ。

地下にはユウだけがついてきた。

ほかのメンバーには入られたくない場所のようだ。

トモキくんビビっているなあ。

なんで私はこんなに冷静なのかな。

カメを銀色の網で捕獲したユウはご機嫌そうにカメをじろじろと見つめている。

地下室でカスミはユウに話しかける。

「これで私を入団させてくれるの?」

カラスにいったんは紹介された経歴が残っているに違いない。

いまはそれを演じよう。

ビルを不法に占拠している男たちのなかで、どうみてもユウがリーダーだった。

ユウ は妙にすごみのある笑いを浮かべる。

カスミとそんなに年齢は変わらないはずなのにどこか苦労した大人の気配がある。

「入団なんてないよ。ここに居たいかどうかだね。」

たしかにここに来るまで、すれ違った男たちは皆、普通の社会人のような雰囲気だった。

悪ぶって、黒いフードをかぶっているが、平日の昼間はどこかで働いているような感じがする。

なんのために集まっているのかはよく分からないが、どこかサークル団体のようでもあり、強制されている感じはしない。

「みんな生きていることを実感したいんだよ。キミみたいにさ。」


アイドルデビューをして、ある程度ファンも増えてきていた、そんな時に急にマネージャーが”カラス”なる組織を紹介してくれたのだ。

ほら、いろいろストレスも溜まるしね。

こういうトコ知っておくと便利なのよ。

大丈夫。絶対情報もれないから。

最初は絶対に危ない場所だと思っていた。

いわゆるアングラ的な団体。

いかがわしい存在。

冷静かつ、きっちりと断ろうとしたときに、急にスマホに情報が入ってきた。

<社会の敵を許しておけるか考えよう>

数日前にマネージャーが勝手に管理ツールと称してインストールしたスクワッターというアプリのレコメンドイベントが表示された。

社会の敵?

カスミにとって社会とは父親のことだった。

家では優しくなんでも答えてくれる理想的な父親が、会社でどんな目にあわされて、またどれだけ屈辱的に見下されて扱われたのか。

それが社会だとしたら、そんなものは必要ないとカスミは考えていた。

自分が美少女と言うことは分かっていたが、父親の影響のよって、中学校で、あれほどのひどいイジメに合うともは想像していなかった。

ありきたりのイジメだった。

いわゆる男子の憧れ的な存在だったカスミは女子からは疎まれていた。

それがなにかのきっかけで爆発しただけのことだ。

未練はなかった。

不登校から芸能オーディションに受かって転校し、くだらない環境から脱出できたと思った。

それが中学生にとっての社会だとしたらあまりに悲しいものだった。

社会の敵を考えようというイベントには結局行かなかった。

そんなことには興味がないフリをしていた。

レコメンドが次々にやってきた。

<友だちをつくろう ダンスイベント>

<おいしいものを食べてよく寝よう>

<最新の買い物情報 割引クーポン>

全部、カスミが興味があるものだった。

だからこそ、あえて無視した。

そういったことには全部なにかの意図があって、誰かのために動かされているような気がした。

そういうことが一番嫌だった。

日常は忙しかった。

なんでも輝いていた。

最初は小規模だった会場も、どんどん大きくなり、集客人員が増えて人気が拡大している。

よくわからないコンセプトのアイドルグループなのだが、どういうわけか、そんな存在のほうが人気がでるようだった。

その中でもカスミはその美貌と憂いを含んだ仕草によって抜群の人気だった。

ネットが極度に発達した現代社会において、不幸はおこりやすい。

特に有名人はその餌食になりやすい。

事務所が借りてくれたマンションは防犯対策は完璧な筈だった。

エレベーターで急に人が乗ってきた。

一方的にファンであることを告げる男には憐憫しか感じなかったが、急に停車したエレベーターに数名の男たちが飛び込んできた。

ファンと名乗っていた男が目の前で暴力によりぐったりと沈黙したのを見てカスミは恐怖した。

悪いファンを排除してくれた正義の男たちがエレベーターのドアが閉まる前に笑顔でこう言ったからだ。

「大丈夫だよ。カスミちゃんは僕たちがずっと守るから。おやすみなさい」

住所が知られていたこと。

スケジュールが漏れていたこと。

どのエレベータに乗っているのか。

どこの階で降りるのか。

途中で何か発生したのか。

何が悪者なのかを決めつけていること。

暴力で解決したこと。

なにもかもが怖かった。

そういうことをネットで検索してみたが、どこにもエレベーターでの一件を匂わせるような情報は記載されていなかった。

無償の善意ほど怖いものはない。

その裁きが自分に向けられることをカスミは恐れた。

母親は父親の看病でつかれていたし、新しい学校の同級生にも話せない。

芸能人が多い同級生には、自慢としか聞こえないだろうことはよく分かっていた。

事務所やマネージャーも信用できなかった。

彼らの勧めで入居したマンションで起こった出来事なのだ。

最低限のものを持って、カスミはあてもなく街に出た。

ファーストフードショップで落ち着いて考えようとしたのだが、何人かがこちらをチラチラ見ているような気がする。

不安が増して、さらに人気のない場所を探した。

普段は通らない静かな住宅街の公園で途方に暮れていると、急にスマホにレコメンドが表示された。

<目を覚ましてくれる人に会いましょう>

いつものように読み捨てようとしたのだが、どうにもその文言が頭にこびりついて離れなかった。

イベントの会場も近かった。

高校の屋上で天体観測をやっているらしい。

無料でエスニック料理も食べられる。

ぜんぶちょっとずつだけど、興味があるものばかりだった。

(なんでもいい。もう疲れた。)

参加するには黒いフードの上着が必要らしい。ちょうどマンションを飛び出したときに黒系のセーラー服スタイルの衣装を着ていたのでそういう格好に見えなくもない。

屋上はおもったより閑散としていた。

きれいな女性がひとりいた。

まだイベント前なのかな、と思って近づくと急に目の前が真っ黒になった。

みぃ が心配そうにのぞき込んでいた。

徹夜で歩き続けていたカスミは結局はAIによって、なにかをえることができたのだ。


「標準語で」

カスミがユウに気づかれないように たろう のモードを切り替えた。

頭の中にさっそくたろうのコメントが聞こえてくる。

トモキをそっとみる。

彼はこういう会話を たろう と出来ることを知らないのだと確信する。


人命優先でレコメンドします。

あなたはすぐに脱出しますか?

瞬き1回。

なにか偽装工作を表示します。いいですか

瞬き2回。


もともと意味のない読めない文字が表示されて ユウ は苛立ったようだ。


脅迫行為がありそうです。銃声に注意。

唇をかむ。


トモキは蒼白。カスミは無表情。


信頼できる人を探しますか?

瞬き2回。

さきほどのアドレスを彼に渡して下さい。

瞬き2回。


トモキに大胆なキスをする。

くちの中で舌で紙片をトモキに押し込む。

一瞬トモキはぼうーっとしたようだが、目をみればこちらの意図が伝わったことが分かった。


アドレスを渡しましたか?

瞬き2回。

では待ちましょう。なにかお話でも?

瞬き2回。

豊かでウィットに富んだ会話。

こちらの興味にあわせて広がる話題。

こんなに楽しい知的な時間は初めてだった。


「1時間で殺すっていったらあわてて飛び出してったぜ。あんたの彼氏。」

ユウ がニヤニヤして話しかける。

「もちろん殺したりはしない。これは単純なハイテク機器の取引だからな。」

ユウ が急にまじめな顔になり、カスミに近づく。

背の高い彼が身をかがめて、じっとカスミの顔をみつめる。

「なるほど、よくみればスゲえ美人だね。あんた。おれと付き合う?」

カスミは静かに首をふる。

「ははは。そういうと思った。しかし度胸いいね。怖くないの?」

怖くはなかった。

昨日までの無意識の社会からの攻撃の方がよほど怖かった。

面と向かって悪意をむき出しにしている人間はある意味わかりやすくて好きだ。

間接的に人間の尊厳を奪うことの方がよほど怖かった。

「まあ、待とうぜ。そっちに冷蔵庫がある。トイレはこちらだ。トイレ以外は全部カメラが撮影しているから変なことはしないのがオススメだ。ソファーで寝てもいい。あと外部との通信は通信妨害をしているから無駄だよ。スマホは持ってていいけどね」

ユウは出口のサークルゲートに入り、生体認証を行っているようだ。

「出口はここしかないからね。穴を掘ってもいいけど無駄だよ。じゃあ、1時間でどこまでいけるかな。待つしかない。じゃあ。」

ゲートがしまった。


1時間でトモキがなにかを成し遂げて帰ってくるよりは、なにか新たなイベントが発生することの可能性が高い。

とくに ここには たろう がいる。

彼にはなにか秘めた能力がまだありそうだ。

うまく たろう と連携することが一番必要なアクションだと思う。

まずこちらから発信する場合を想定して、方法をきめる。それでいい。

もしトモキが連絡をくれれば、その方法で周囲の監視カメラに気づかれず答えることができる。

次は、たろう の機能を探ってみる。

2択をつかって、たろう の情報を取り出そうとするが、難しい。

質問の意図をくんでくれるため、聞きたいことは明確に提示してくれるのだが、瞬き2回でイエスと答えても、ユーザのアカウントのレベルが低いため、すぐに”あなたの権限ではアクセス不可です”なるメッセージになってしまう。

質問の方向性をかえる。

こちらの知りたいことではなく、このカメの真の所有者が、外部に発信したいこと。知って欲しいこと、ならば今のアカウントレベルでも聞けるはずだ。

聞けた内容は2つだけ。

時間と座標。

なにがそこにあるのだろうか。


ユウ がサークルゲートから出て地下室に戻ってきた。

1時間経ったらしい。

「彼氏、逃げちゃったのかな。」

拳銃を弄びながら、話しかけてくる。

「さっきの状況を思い出してみたんだよね。冷静にね。」

目をキラキラさせながらユウがつぶやく。

「あんたが、あのカメのユーザなのは間違いない。言うことを聞いているしね。だけどこの1時間、同じ部屋にいるのにあんたは、カメに話しかけもしないし、操作をするそぶりもない。」

監視カメラでいくら撮影しても、そこに映っているのは、まったく動かない たろう とじっと水槽をみつめているだけのカスミだけだ。

ふたりの間で交わされた豊かな会話は誰にも見えないし聞こえない。

「ていうことは答えはひとつ。逃げた彼氏が実はもっと高いレベルのアカウントをもっていたんじゃないかっていうこと。」

ユウ の目は全然わらっていない。

「マヌケ面に騙された。あいつに連絡をとりたいんだ。といっても」

その片手にトモキのスマホを持っている。

「スマホはここにあるし、中をみても大した情報もなかった。スクワッターが入っていたけどそれだけだ。」

たろう が無音でレコメンドをし始めた。

通信できるチャンスです。罠をしかけますか?

瞬き2回。

「あんたなら別の連絡先を知っているかと思ってさ。言わないと本当に殺しちゃうけど。言ってくれるでしょ。」

ここは たろう との作戦通りに答える。

「わかった。言う。メモとれる?」

ユウ は通信妨害を解除したようだ。

自分のスマホでアクセスを開始する。


急に声が頭のなかに聞こえる。

「カスミちゃん!生きてる?無事なの?」

たろうが中継しているのだろうか。

こちらのメッセージを発信しますか?

もちろん瞬き2回。

さきほど決めた映画のセリフ選択方式だ。

<もちろんさベイベー>

たろう の情報の豊富さには感心するが映画の趣味はどうなんだろうか。

真の主はおそらく天才なんだろうけど、映画の趣味はあんまり良くない気がする。

向こうで躊躇している様がわかる。

映像を出して状況を補足しますか?

瞬き2回。


音無のマンションでターミナルに映像がうつる。どこかの地下室のようだ。

斜め前からカスミが映し出されている。

隠しカメラの映像だろう。

「あ、ここだ!この地下室」

トモキが叫ぶ。

じろっとトモキを見て みぃ が音無にお願いする。

「なにか情報ないの?助けられるような」

<もちろんさベイベー>なんてメッセージを送るしか出来ない状況なんだと分かって、胸が苦しくなる。

「ハニーポットにユウという男がアクセスしている。その間に逆探知で場所を突き止めるしかない。それにしてもこの映像はどこから送信しているんだ・・・わからない。」

音無も混乱している。

ハニーポットにアクセスしてくることは予想していた。

トモキの話によるとカスミは相当しっかりしていて頭がいい。

当然、つかえる連絡先としてハニーポットを利用することは想定済みだったので、ログを収集できるよう短時間で設定を変えて待っていたのだ。

そこまでは読みどおりだったのだが、なぜ向こうの映像が見られるかは理解できなかった。

さらにその映像がエウロパで処理されたアバターでないことも違和感がある。

みぃ が叫ぶ。

「カスミちゃん!どこにいけばいい?」

リアルな映像に思わず近くにいるような錯覚を覚える。

<時間と場所はこちらが指定する。>

カメラをみていると カスミは実際には何の操作もしていないようだ。

(どうやって通信しているんだ?)

カスミが送ってきたメッセージの時間と場所を記録する。

東京都内の座標と明日の日付と時間。

<どうだい。俺はまってるぜぃ>

急に映像も音声も消えた。

「変なセリフ!もう、なんなの!!」

みぃ は思わず泣き崩れてしまった。


たろう の罠はうまく作動したようだ。

どうやったのか知らないが、ハニーポットのアドレスにアクセスしたところ、返信がきたようだ。

ユウはそのメッセージを見ている。

「さっそく彼氏から連絡があった。帰っていいよ。もうあんたは必要ない。殺す意味もない。」

スマホを切って通信妨害のスイッチを入れる。

さっきまで頭の中に聞こえていた みぃ の懐かしい声が聞こえなくなる。

ユウは 水槽に近づき、カメの甲羅を何回かリズミカルにコツコツと叩いた。

(ダミーのアクセスコードだ)

背面のモニタに電源が入る。

Welcomeというメッセージがでている。

音声で語りかける。

その回答にユウは満足したようだ。

「もう、これでこのカメは俺のものだ。あんたは帰って、全部忘れるんだな。万が一、公表したら、またこいつでお邪魔するぜ。」

拳銃をちらりと見せて出口を指す。

サークルゲートが開き、カスミがおとなしくそこに入ると、エレベータ機能が作動して別の階に運ばれていった。

さいごに頭に聞こえたセリフに吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。

持ち主が変わったフリ上手でしたか?

瞬き2回。

なぜか涙が出てくる。

それが、なぜなのかカスミ自身も分からなかった。












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