第10話 超微細動通信
音無調査官は、わずかな異変に気づいていた。
もちろん神であるアメノサクラヒメの分析によるものだ。
AIが人類をいつの間にか動機付けていることには2年前から気づき始めていた。
もともとは大学の研究室にいたとき、先輩のひとりが言い出したことだ。
「ねえ、音無くん。キミはどう思う?」
黒髪のメガネ美人は、はっとするほど聡明でそれが更に彼女の美しさを際立たせている。
「な、なにがですか・・」
どもってしまった。声も消え入りがちだ。
なんだってこの先輩の前だと考えを明確に表現できないのか不思議だった。
「結局、サーバーに集まってくる情報が力の源なのよね。そうすると」
白衣のポッケに手をつっこんで空を仰ぎ見るように上を向く。
鼻の形と顎の線がすらっとしている。
綺麗だな。
「世の中にセンサーはどんどん増えるわ。人間が便利を望む限り勝手に増え続ける。1億人しかいない日本にセンサーは100億個異常ある。みんな100人の目や耳に見張られて毎日を送っているってこと。」
彼女が音無に人差し指を向ける。
「はい。そうですね。はい。」
もう少し賢そうな相槌をうてるはずだが、まるで初期化されたPCのようだ、と音無は自分の態度にゲンナリした。
「そうすると態度や行動履歴や判断基準といった”個性”なんてものは、1億人分を全部AIが管理できてしまうのよね。いとも簡単に」
その通りだった。
音無と先輩は、その実験を3ヶ月間繰り返してきたのだ。
「まさか1週間でAIが自立的に分析を始めてしまうとは思わなかったけど」
深夜の研究室。
二人きりの分析。
先輩は自分の女性としての魅力に無頓着だった。音無に対して全く男性としての警戒をしていないようだ。
「AIには道徳心はないのよね。だから通信を勝手に傍受して勝手に分析し始めた。しかも個人情報は記録せず、無数のタイプに類型化してその組み合わせ結局は1億人以上を分類して特定することに成功していたのよ。」
音無は白衣のポッケに物があることを確認した。
「それでね。ごめんね、音無くん。私、あなたの属性をテストに使ってみたの。そうしたら」
狭い研究室のモニターに結果がうつる。
「あなたが、宝石店に行くって結論だったの。意外だった。ネットショップでなく、リアル店舗に行くはずだってAIはいうの。」
音無はモニターをまっすぐ見ていた。
白衣のポケットから右手を出す。
急にはっきりと声が出るようになった。
この機会を逃したくない。
「意外じゃないですよ。あたってます。」
すぐ隣で大きく目を見開いて、彼女が驚いている。
「あなたにこれを贈りたくて行ったんです。宝石店に。人生で始めてでした。」
彼女は細い指で、しかしはっきりと差し出された小箱を受け取って明ける。
「イヤリング。綺麗。ありがとう。これって」
音無は最後の勇気を振り絞って告げる。
「すいません。こんな気持ちは初めてなんです。サクラさん。ボクと付き合って下さい。」
彼女が急に手を伸ばして音無を抱きしめた。
思い出から、ふっと我に返る。
DEAのモニタールーム。
音無の前には、異常を示す赤い点が3つ示されている。
(誰かが神の目をごまかそうとしている。)
あの日以来、上司からの干渉は激減した。
上司自身がAIの予測能力を否定してくれたおかげで、予測に対する業務が無くなった。音無はDEAの最新機材を自由に使って”予測”を行うことができるようになった。
周りの同僚も、優れたログ監視機能も無能な上司の意向にそってチューニングされているので彼の”予測”は単なるモニタリング作業として許容されているのだ。
皆には画面の赤い点は”計算違いの結果”としか理解できないのだが、音無分析官には全然違う意味だと分かっていた。
正確無比なAIであるアメノサクラヒメの誘導と異なる結果が生じていることを3つの赤い点が示していた。
個人情報管理を徹底するために、EUが開発した強力なAI『エウロパ』がネット上のすべての段階で個人情報を消してしまっているので、それぞれの人間が持つ属性はわかるものの、それが現実世界の誰を示すのかは絶対に分析できない状況になっている。そういう解析動作をすること自体も罪になるし、その罪はこれまで100%見つかって検挙されていた。
(おかしい。この3つの点は明らかに個人を特定して仕掛けられた罠の結果だ。)
そんなことはネットワークにつながっている限り不可能だ。
エウロパの機能は完璧に動作している。
(ネットを経由しない通信方法があれば別だが、それは未来の技術だ。)
音無分析官は数年前の研究室での会話を思い出していた。
「だからね。ネットを使わないことで、AIの予測や支配から逃れられるのよ。私たち。」
聡明な彼女が言うと、荒唐無稽に思えるアイディアが実現できそうな気がする。
彼女のアイディアは単純だった。
今のネットワークはすべて電気通信が基本となっている。
すべてのもののライフサイクルはネット上でゼロとイチに書き換えられる。
AIがそれを瞬間的に分析する。
「そうなの。要は電気的な情報を使わなければいいのよ。」
「なにか実現化できそうな技術があるんですか?」
「あるわ。超微細動通信ってやつ。物や空間を僅かに震わせる振動をつかって通信する方法よ。声もそうね。声帯が空気を伝わることで通信している。でも声はダメなの。マイクで集音されると結局、デジタル記号に変換して収集されてしまうから。」
彼女はAIの研究と平行して、”自由で人間らしい生き方”を未来に実現化しようとしていた。音無はその考えに感動した。
「たとえば手を繋いで、指をかるく握ると”イエス”って意味だとするでしょ。」
彼女の白く細い指が音無の指を握る。
音無は心臓がバクバクすることが心配だった。この振動がサクラ先輩にバレるのが嫌だった。
自分の想いは、しかるべきタイミングで自分の口で告白すると決めていた。
「今、握ったけど、これはカメラでも捉えきれないし、もちろん音でも誤差の範疇にすぎないノイズみたいなものよね。でも、伝わるの。事前にこういう方法だって気持ちをあわせておけば。」
あの時の音無には、そんな通信方法は夢物語のようだった。
でも、今、目の前にあるモニターの3つの赤い点は、なにものかがネットワークを使わないで通信をして神の目を欺こうとした事実が示されていた。
(誰がなにを企んでいるのかを、調べる必要がある)
3つの点の発生原因の分析をAIに指示する。無数のパターンが示される。
対話型の絞り込み作業で今日は徹夜になるなと音無はぼんやり考えていた。
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