しのおと

森山 満穂

しのおと

 クチャクチャクチャクチャ。神経を刺激する不快な音が部屋中に充満していました。妖怪飴舐めブルドックは飴を舐め続けます。


「また飴舐めてるの?」


 母は言いました。


「今しか舐めとらんよ」


 妖怪飴舐めブルドックこと祖母は何食わぬ顔で言いました。


 嘘です。朝もあの不快な音を聞きました。


 祖母は自分のやったことでもすぐ忘れます。やっかいなのはやはり食べたことを忘れるということです。祖母は腎臓病を患っており、食事制限がされています。食べてはいけないものが多いのです。でもやたらと食にわがままです。味が薄いと平気で醤油を掛けまくります。医者から塩分は控えてくださいと言われているのに平気で食べます。これくらいはまだ良い方です。


 祖母は物忘れするうえに頑固なのです。だから忘れたことを認めません。一ヶ月前、祖母の部屋につながるベランダに野良猫が迷い込んで来ました。祖母はその野良猫に餌をやるようになりました。しかし、やってはいけないことでした。母は猫アレルギーなのです。猫に触った人間に近づかれるだけでも軽い症状を起こします。祖母は家族に餌をあげないと約束しました。次の日、祖母は野良猫に餌をあげていました。それにも関わらず祖母は何食わぬ顔で言いました。


「あげとらんよ」


 あげてました。私はこの目でしっかりと見たのです。なのに祖母はなんの疑いもなく自分は正しいと思い込んでいるのです。母は自覚させようと必死になって説明します。ですが、まったく学習してくれません。母は父に助けを求めますが、見てみぬふりでだんまりを決め込んでいます。いつもそうなのです。やっと口を開いた父の説得により、それ以後祖母は猫に餌をあげていませんが、次いつやるかわかりません。


 祖母は夕刊を持ってリビングから去っていきました。飴を舐める音の不快さを残して。


 一週間後、母は体調を崩すようになりました。頭が痛いと言って薬を飲んで昼寝をしています。前は月に二、三回でしたが、現在はそれが日課になっています。介護疲れという名のストレスのせいです。祖母のせいで母が苦しめられている。耐え難い屈辱でした。


 そんな日々が続く中、母は老人ホームに祖母を入れようと提案しました。父は十八番のだんまり攻撃を決め込みました。そんな父に母は言いました。


「私とお義母さんとどっちが大事なの?」


 父はだんまりを決め込んだままでした。母は悲しそうな顔をした後、言いました。


「別れましょう」


 母と父が離婚すれば当然私は母と共に家を出なければいけません。母か父どちらかをとるとしたら母に決まっています。しかし、私は家を出るのが嫌でした。誰しも生まれ育った家を離れたくないものです。それに私はもう高校三年生なので転校するのが面倒です。学校には友達がいませんがそれでもいいと思っています。とにかく家を離れたくないのです。祖母が家族を壊そうとしている。


 祖母を殺さなければ。そう思うようになったのです。


 祖母をどのようにして殺害しようか。悩んでいました。転落死、刺殺、絞殺…。どれも私が実行したとすぐにばれそうです。ばれたら一生牢屋の中です。当然そんなことは嫌なのでどうにか私が行なったとばれない方法はないだろうか。すると、祖母がリビングにやって来ました。


「お腹すいた」


 と何度も言っています。仕舞いにはお腹すいたの歌を歌い始めました。私も母も無視して夕食の用意をします。ご飯がすぐに出してもらえないことがわかったのか、祖母は自分の部屋に戻って行きます。祖母の部屋は一階の突き当たりにあります。祖母の生活スペースです。二階のリビングで夕食の用意をしていると祖母はいるだけで邪魔です。部屋に戻ってせいせいしたと思っていると、数分後、祖母はいつもの不快な音を連れてリビングに戻ってきます。邪魔者の祖母は食卓に置いてあった蒟蒻畑の袋を取り、珍しそうに見ました。勝手に物に触るのにはイライラしますが、何かしたらいろいろと面倒なので無視します。祖母が袋を置いたらサッサと回収し、目の届かないところに持っていきます。私はふと思いました。これを使えないか?たしか蒟蒻畑を老人が喉に詰まらせて亡くなったという事件があったはずです。これなら食べさせるように仕向ければ私の実行だとわかりません。全ての筋書きは決まりました。


 ついにこの日がやって来ました。現在午後七時。思った通り祖母はお腹すいたの歌を引き連れてリビングにやって来ました。母はいつものように無視して夕食の用意を続けます。私はトイレに行くふりをして祖母の部屋に向かいます。祖母の部屋はベッドとテレビ、小さなテーブルがあります。ゴテゴテした模様のカーペットとカーテンが妙に威圧的です。あらかじめ下調べしていたので飴の居場所はわかっています。テーブルの上に案の定ありました。飴を回収し、例の物をテーブルの上に置きました。準備完了です。あとは自分から罠にかかってくれれば全ては成功します。


 午後七時五分。リビングに戻ると、祖母はまだお腹すいたと言い続けています。のんきなことです、その食への欲で死ぬことになるのに。祖母はようやく自分の部屋に戻っていきました。待ち望んでいた時が来ました。


 午後七時三〇分。ついに我が家の邪魔者はいなくなります。私は食卓の椅子に座ってその時を待っていました。興奮しているのか鼓動がよく聞こえます。揚げ物の音が部屋中に響きました。鼓動と混ざって不協和音を奏で始めました。その時、抑え付けられていた恐怖がドッと溢れ出してきたのです。


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い…。


 震えが止まらない。身体がジリジリと熱くなっている。どうしよう、どうしよう、本当に死んだら。死なないかもしれない。もしかしたら食べないかもしれない。食べたとしても詰まらなかったかも。食べた人全員がそうなるわけじゃないんだから!


 カタカタカタ。棚の上にある埃被った時計が小刻みに揺れ始めました。


 午後七時四六分。


「花、おばあちゃん呼んで来て」


 母が私に言いました。私はゆっくりと椅子から立ち、祖母の部屋に重い足取りで向かいました。大丈夫。きっと死んでない、死んでない。思いとは反対に鼓動が警鐘のように聞こえました。祖母の部屋の扉を開けました。


 祖母は、死んでいました。


 祖母は事故死と判断されました。状況的にも蒟蒻畑を食べて窒息死したとしか見ることができません。飴が下駄箱から発見されましたが、前にも失くしたものがそこから出てきたことがあるので誰も怪しみません。


 父と母の離婚もとりあえず延期になりました。全て成功したのです。けれども、私の中には喜びという感情が湧いてきません。何もかも筋書き通りに進んだのに何も感じません。残ったのはフラッシュバックという恐怖だけでした。


 母から遺品の整理を頼まれ、あの時の恐怖を思い出しながら祖母の部屋に行きました。


 ダンボールを開いたその時です。

 ガリリリッ。


 何かを引っかく音がしました。外からするようです。私は意を決してカーテンを開きました。猫がいました。ガラス戸を懸命に引っ掻いていました。あの時の野良猫でした。今わかりました。私の憎しみは全て間違いから始まっていたのです。


 私は祖母を罠に掛けようとしたあの時少し小細工をしたのです。蒟蒻畑と一緒にメモを置きました。メモにはこう書いておきました。


『人生を終わらせたいなら、これを食べてください』


 ほんの少し選択権をあげようとしたのです。祖母はそれを受けて食べたのか、空腹のあまり食べたのか今となってはわかりません。どちらにしても私の罪は殺人です。


 クチャクチャクチャクチャ。飴を舐める不快な音が耳の奥にいつまでも鳴り響き始めました。

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