二日目

 川瀬が劇団に加わった翌日。

第二劇場で衝撃的な光景を目にした川瀬だったが、彼女の持つ使命感が恐怖心を覆した。今日も朝早くから顔を出し、他の四人の役者より早く練習を始めている。

 彼女がいるのは共同稽古場である。

昨日は第二劇場で練習していた彼女だったが、佐々木から練習時には共同稽古場を使うように伝えられたのだ。

 その共同稽古場というのは、劇場ロビーの階段から上がった二階に位置する広いホールのこと。本格的な練習をする際に使われる場所だ。

満島がここに来なかったのは、練習より先にすべきことがあると佐々木らに判断された為である。

 その点、川瀬は問題ではないだろう。

彼女の演劇に対する熱意は並大抵のものではなく、演劇に力を注いでいる佐々木ですら後れを取っているほどだ。

 一通りの基礎練習と軽い運動を済ませた後、川瀬はある違和感を覚えていた。

時計を見ると時刻は午前八時七分。しかしこの場には川瀬ただ一人。

なぜ誰も練習に来ないのだろう。と、川瀬は強い疑問を抱いているのだ。

 彼女にとっては、劇場に着いたらすぐ練習を始めるのが当たり前のことだという認識がある。

しかしそれが、誰もが共通して持つ認識でないことを彼女は知らない。

その上、自分の認識が正しいという思い込みが激しく、周囲をそれに合わせて正そうとするきらいがある。

 薄く浮かんだ汗を拭い、川瀬は共同稽古場を出た。

向かう先は控え室。浅山や満島が使っていた部屋ではなく、その他の役者らが男女別で使っている部屋のことだ。

 階段を降りてロビーを抜け、廊下を進んでいく。

その足取りは力強く、川瀬の抱いた怒りを感じさせるようだった。

 彼女がまず向かったのは女性陣が使う方の控え室だ。

自分も使っている場所ではあるが、念の為ノックをしてから入室する。

「失礼します」

 控え室には佐々木と小野がおり、台本を開きながらお茶を飲んでいた。

配役変更により、元々小野が演じていた侍女役の台詞に関して、佐々木があれこれ質問しているようだ。

 入ってきた川瀬に気づいたのか、佐々木と小野が口々に挨拶を投げ掛ける。

「あら、川瀬さん。おはよう」

「おはようございます……!」

川瀬はいくら怒っているからとは言え、挨拶を無下にはしないらしい。

「おはようございます」

そして、彼女らに向けて怒涛の文句を語り出した。

「今何時かお分かりですか?お二人が何時にここへ来たのか知りませんけど、私は朝七時から来て練習を始めていたんです。それなのに八時になっても誰も来ない、どうしてですか?練習する気はあるんですか?」

ここまで一息に喋ったせいか、あるいは怒っているせいか。言い終えた後の呼吸は少し乱れていた。

 彼女の気迫に圧され、小野は縮こまって謝罪を口にする。

「すみませんでした……」

小野が座ったまま頭を下げるのに対し、佐々木が言う。

「謝ることはないわ、川瀬さんの我が儘なんだから」

佐々木の言葉が逆鱗に触れたのか、川瀬は鋭い目をして反論する。

「我が儘、と言いましたか?では、あなた方のその態度は何と言うんですか?私にはあなた方の方が我が儘なように見えますが」

「自分の意見を他人に押し付けるなんて、これ以上ない理由でしょう。私たちの何が気にいらないか知らないけど、勝手な言い掛かりは止めてくれるかしら」

そう言いながら立ち上がり、佐々木は川瀬の前に立ちはだかった。

 それから腕を組み、さらに強い物言いで話を続ける。

「練習に強い拘りがあるようだけど、私たちはそれぞれ生活の合間を縫って役者をしているの。あなたの思う通りにばかり進められない、お分かり?」

「それはただの言い訳です。良い舞台を作ろうとしているならば、少しでも練習に時間を割く筈ですから!」

 川瀬の強い語気に、佐々木は薄っすら感じていたものを確信に変えた。

彼女は自分の意思が強く、周囲に何と言われようと曲げない。寧ろ自分に合わせて周囲を曲げようとまでしてくる人物だと。

 何を言おうと彼女は自分と異なる意見には理解すらしようとしない。

そんな思考の相手には、いくら間違っていると伝えても逆効果となる。しかし何か言わなければ一方的に押し付けられるだろう。

 佐々木が言葉を選んでいると、控え室の扉が数回ノックされ、返事を待たずに開けられる。

入ってきたのは高柳だった。

「声が向かいの控え室まで聞こえてきたけど、どうしたの?」

彼を仲間に引き入れようと、佐々木や小野が意見するより早く川瀬が口を開く。

「佐々木さんと小野さんの怠慢を注意したら、私の我が儘だと言われました」

「ふむふむ、本当に二人は怠けていたのかい?」

高柳は川瀬の話を聞きつつ、佐々木へ視線を向ける。

「いいえ。小野ちゃんに侍女の台詞について質問していたわ」

と、佐々木は事実をそのまま答えた。椅子で固まっていた小野も小さく何度も頷いている。

「それは怠けていたとは言わないね。二人がそうしていたと君は知っていたのかい?」

再び川瀬へ視線を向ける高柳。

 彼の問い掛けに川瀬は不満気に答える。

「……知りませんでした。ですが―――!」

「ですがじゃないよ、ただの君の早とちりだ」

高柳の言葉に納得できないのか、川瀬はこのように切り返した。

「それではあなたは今まで何をしていたんですか?あなたも来ていませんでしたよね?」

強い語気で問われるも、高柳は大して動じることなく返答する。

「小道具のことで相談を受けてたよ。僕と高柳くんは殺陣たてがあるから、剣の重さや扱える長さの調整をしていたんだ」

彼にも共同稽古場へ来ていなかった正当な理由があった。川瀬が文句を言う隙も無い。

「そうでしたか……」

 特に反論がないと判断したのか、高柳は三人全員に向けて声を掛ける。

「あとそう、高柳くんが少し遅れてくるらしいから、全体練習するなら午後からをオススメするよ」

そう言って、返事を待つことなく部屋を出て行った。

 居心地の悪さを感じたのか、川瀬は不満さを隠しきれない様子で呟く。

「すみませんでした。失礼します」

控え室に乗り込んできた時とは大きな違いだ。

川瀬は小さくなった背中ですごすごと控え室を出て行った。


 午後一時半を回った頃、共同稽古場に五人の役者が揃う。

互いの間に一mほど距離を取り、全員で円を作るように向き合っている。

昨日の午後に予定していたが、川瀬が倒れて早退した為にできなかった台本読みの練習だ。

 配役の変更によって台詞が変わった者もいたが、難なく一通りの台詞をさらうことができた。ここまで早く進められたのも、一人しか登場しない場面を飛ばした為だろう。

 全員が揃って練習を始めてしばらく経った頃、名瀬がハッとした表情になり周囲に向けて問い掛ける。

「ちょっと待ってください、今何時ですか?」

名瀬の問いに高柳がすぐに腕時計を見て答えた。

「今は午後三時十七分ってところかな、大丈夫かい?」

高柳の言葉を聞き、名瀬は自分の荷物をまとめ始める。

 その様子を見た川瀬は見るからに不服な表情で文句を言う。

「もう終わるんですか?まだ全然進んでませんよ」

「すみませんが、今日は妹のお見舞いがあるのです。早めに失礼します」

一礼した後、名瀬は荷物を持って足早に出て行った。

 扉が閉まるのが早いか、川瀬は不機嫌そうに呟く。

「早く帰るならその分早く来て練習しなさいよ……」

彼女の呟きが聞こえたのか、小野が恐る恐る声を掛ける。

「えっと、名瀬さんのことですよね?彼、仕事を掛け持ちしながら役者をしていて……今の状態が精一杯なんですよ」

「だからと言って練習を疎かにしては意味がありません」

小野の言葉をぴしゃりと断じて、川瀬は否定的な意見を示した。

意志の強い言動で否定され、小野の表情は暗く陰る。気の弱い彼女にとって、川瀬のような人は多少なりとも苦手意識を持ってしまうのだろう。

 それを感じ取ってか、佐々木が助け舟を出す。

「そんなことで文句を言う暇があるなら、早く練習に戻った方が良いんじゃない?」

午前中、川瀬が文句を言った時の言葉を少し変えて突き付けられた。

 これには納得せざるを得なかったのか、川瀬は眉間に皺を寄せながら言う。

「……そうですね。練習再開しましょう」

そうして重い空気のまま、練習は再開された。


 あれからしばらく経った頃。空に赤みが混ざって夕暮れに変わりつつある。

壁掛け時計が午後六時を知らせた後、佐々木が軽く伸びをしてこう言った。

「それじゃあ、私たちはもう終わるから。お疲れさま」

「お先に失礼します……お疲れ様でした!」

と、小野も言葉を続けて、二人揃って共同稽古場を出る。

「お疲れさまー」

そう言って高柳は軽く手を振る。

「お疲れ様でした」

彼女らに対し、一瞥もくれず素っ気なく返す川瀬。

 川瀬の態度を見て思うところがあるのか、高柳が問い掛ける。

「川瀬さんはさ、僕らにどうしてほしいの?」

不意な質問ではあったが、川瀬の中では決まりきったことを答えた。

「変わってほしいです。もっと演劇に打ち込んで、全身全霊で役を演じて、誰もが称賛する舞台を作り上げたいんです!」

力強く答える川瀬に対し、高柳は冷静に言葉を並べる。

「悪いけど、君のやり方には僕たち向いていないみたいだ」

「そう言って諦めるには早いです。まだこれから―――!」

と、自分のやり方を推し進めようとする川瀬。

「はっきり言わせてもらうよ。確かに練習は大切さ、疎かにしちゃいけない。だけどみんなそれぞれに事情があるんだ」

一呼吸置き、高柳は続けて語る。

「朝から晩まで役者ができる人ばかりじゃないから、僕たちは個人練習が多いんだ。それを君が自分の理想に近づける為だけに、みんなの時間を奪わないでほしい。わかるね?」

と、優しい口調で言葉を結ぶ。

ここまで真っ向から意見を言われ、川瀬は何の反応も示さない。ただ項垂れるだけだ。

 高柳は腕時計をちらりと見やり、川瀬に一声掛ける。

「僕ももう帰るよ。お疲れさま」

「……お疲れ様でした」

川瀬の力ない返事を背に、高柳はふらっと軽い足取りで出て行った。

 一人きりになった共同稽古場はやけに広く、川瀬は酷い孤独を感じていた。

これまでも所属していた劇団員らに溶け込めず、対立するばかりで誰からも賛同されない。熱意の違いから除け者にされたことが幾度かあった。

 それがこの劇団に来ても同じようになってしまいそうで、焦りを感じているのだ。

しかしそれでも自分が悪いとは思えない、原因が自分にあるとは考えない。


「どうして誰も分かってくれないの」


彼女の頭の中で浮かぶのは、この言葉ばかり。

自分以外の努力不足で何故自分が怒られるのか、それが理解出来ないでいるのだ。

 ふと窓の外へ意識を向ければ、カラスの泣き声がどこかしらから聞こえてくる。

「私ももう、帰ってしまおう」

こんな気持ちでは練習に集中できない、とでも言うようだ。

 そうと決まれば行動が早いもので、手に持っていた台本や使ったタオルなどを鞄に入れ始める。

ちらりと見た壁掛け時計は午後六時二十一分を差していた。

川瀬は荷物を詰めた鞄を持ち、共同稽古場を出て静かに扉を閉める。

 夕方になり、気づけば劇場内で聞こえる音もすっかり少なくなっていた。

まるで朝にこの劇場へ来た時と同じくらいの人気のなさ、静けさの中にいる。

自分だけがここに存在しているような気分になってしまうほどの静寂だ。

 そんなことをぼんやりと考えている内に、一階のロビーに向けて伸びる階段に差し掛かる。

 階段に一歩踏み出した瞬間、川瀬は背中を押された。

あまりにも突然のことで、声を上げる間もなく視界が大きく揺れる。

咄嗟に手すりを握れたおかげで二、三段よろめきながら降りただけで済んだ。階段の一番下まで転がり落ちることもなく、怪我もない。

 川瀬はすぐさま後ろを振り向くも、そこには誰もいなかった。

手すりにしがみつきながら、震える足でゆっくり立ち上がる。その顔は青白く怯えていた。

 昨日のを思い出したのだ。

浅山が自分の目の前で喉を掻き切る。あの恐ろしい瞬間を。

鮮明な記憶に恐怖を覚えつつも、川瀬は先ほどのことを結びつけてしまう。


さっき自分を押したのは、あの浅山千幸なのではないか。と。


 そう考えてしまってからは嫌な予感が止まらないのだろう。

顔色をより一層悪くさせ、覚束ない足取りで階段を下りていく。

 あの時は刃物で自分を切り裂いていたが、今度はあの刃が自分へ向けられるのかもしれない。そう考え込んでしまうのだ。

 それでもどうにか無事に一階まで下りれたところで、偶然にも一人の男性と目が合う。

男性は頭にバンダナを巻き、作業着を着ている。見るからに裏方といった風貌だ。

 そんな彼が暗い面持ちの川瀬に向けて、爽やかな笑顔で声を掛ける。

「あぁ、お疲れさんです」

「お疲れ様です」

それに対して川瀬は無表情で定型文のような返事を投げ、それ以上の言葉を交わそうとはしなかった。

 川瀬は疲れた雰囲気を漂わせながらも、すたすたと劇場を出て行く。

その背を見ながら、男性はぼんやりと呟く。

「あれじゃあ千幸の後任にはなれそうにないなぁ」

と、息を吐く。

すると、少し離れた廊下から男性を呼ぶ声がする。

こうさーん!ちょっとこっち手伝ってくれないか!」

「おーう!今行くから待ってなー!」

大きな声で返事をし、呼び掛けられた方へ駆け足で向かう。


 そうしてロビーからは人影が消え、うっすらと夜の暗闇が広がり始めた。

様々な思いが錯綜するこの劇場で、明日もまた波乱が巻き起こるだろう。

それが善いものか、あるいは悪いものか。

今はまだ誰にも分からない。が、あの名探偵ならば勘付いているかもしれない。

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