川瀬百合子の場合

一日目

 満島しおりが語るも悍ましい死を遂げた翌日。

こんな日でも劇場では変わりなく、目前に迫る公演に向けて忙しなく動きまわる人々が散見された。

 というのも満島の死は公にされておらず、一部の関係者と警察のみが知っている為だ。

劇団員やその他の者たちには、単なる行方知れずとして知らされた。

 彼女の死体が発見された控え室は人体に悪影響を及ぼす可能性があるとして、しばらくの間立ち入り禁止とされている。

 事情を知らない劇団員や劇場関係者たちには、浅山の件で現場保持を理由に立ち入り禁止とされた。

 そして蒲笈が命じた通り、次の役者が劇団に加わる。

 満島の後任として紹介されたのは、川瀬かわせ百合子ゆりこという女性だった。

 朝八時を少し回った頃、劇場のロビーでは劇団員らの前に蒲笈と一人の女性が立っていた。

切れ長で芯が強そうな目元が印象的な美人で、顎の高さで切り揃えられた黒髪から彼女の几帳面さが窺える。

姿勢良く蒲笈の横に並び、凛々しい眼差しで目の前の劇団員らを品定めするように見ていた。

 全員が揃ったのを確認し、蒲笈は全体に向けて語り掛ける。

「この人が今日からうちの劇団に加わることになった―――」

「川瀬百合子と申します。こちらへ来る前は歌劇団として舞台に立たせて頂いていました。どうぞよろしくお願い申し上げます」

と言って、深々とお辞儀をした。

 紹介しようとしていた言葉を途切れさせられ、蒲笈は少々不機嫌な表情を浮かべる。

それでもお構いなし、といった態度で蒲笈の方を微塵も気に掛けずにいる川瀬。

清々しいまでに我の強い態度に、劇団員らはやや気圧されていた。

 蒲笈はいつもの調子で進行させようと、わざとらしく咳払いを一つして話を切り出す。

「そういうことだから、今度の劇は急遽配役変更しようかな。主役の令嬢役を小野さんで令嬢の侍女役を佐々木さん、社長の婚約者役を川瀬さんに変更するよ。男役はどちらも変更なしで」

と言ったところで、劇団員の一人が挙手をする。佐々木だ。

「佐々木さんか。どうしたの?配役変更に不満でもあるの?」

「いいえ、問題ありません。満島さんはどうしたんですか?」

その質問に空気が沈む。

 劇団員らにとって満島は厄介な人物だった為だろう。

自分の思い通りにならなければすぐにヒステリックを起し、監督にだけ猫を被って劇団員や裏方には冷たく接する女だった。

そんな人物が急に行方不明になったことで、気が楽になった者も少なからずいる。もう満島と関わらなくて良いというだけで、そういった者の精神的な負担は軽減されるだろう。

そこをあえて質問するというのは、不用意に藪を突くようなものだ。

 考えるような仕草をした後、蒲笈がこう回答する。

「どうしたんだろうね」

その返答を聞き、佐々木を始めとした劇団員らは唖然とした。

昨日まであれほど手を尽くしていた相手に対してその物言い。彼が常軌を逸していると判断するには十分な言動だ。

 蒲笈は短く息を吐き、言葉を続ける。

「僕にはしおりちゃんがどうしてるかわからないけど、仕方ないよね。行方が分からなくなっちゃったんだから」

「……そうですか」

求めていた回答ではなかったものの、佐々木はそう納得せざるを得なかった。

 佐々木が沈黙したのを見て、蒲笈は他の劇団員らに目を向けて呼び掛ける。

「他に質問とか意見はあるかな?」

しばらく待つも返ってくる声はない。

 質問も意見もないものと判断した蒲笈は、続けて全体へ向けて呼び掛ける。

「役がある人たちは台本読んだらここで練習。大道具小道具、衣装は各自作業に戻ること。細かい事は斉木に聞いて」

それじゃあ、と蒲笈は彼らの前から立ち去った。

 それを合図に、裏方の面々が各自の作業場所へ移動していき、役者だけがその場に残る。佐々木、小野、名瀬、高柳の四名だ。

彼らの前へ川瀬が歩み出て、改めて自己紹介する。

「川瀬百合子です。歌劇と演劇では勝手が違うことが多々あると思うので、色々と勉強させてください」

そう言って深々と頭を下げた。

 あまりにも礼儀正しい川瀬に戸惑い、小野が慌てて話し掛ける。

「あわわ、頭を上げてください!」

「ですが……」

「そんな畏まらなくて良いですよ。でも、あなたが常識のある方で良かったわ」

と、何か言い掛ける川瀬の言葉に被せるように佐々木が発言した。

 どこか含みのある言い方だが、それも当然のこと。

満島と全く反りが合わず、顔を合わせる度に口論になっていたことを思えば、川瀬のような人物はまさにありがたい存在だと言える。

佐々木自身にとっても、同じ舞台に立つ者たちにとっても良い変化だろう。

 各々の自己紹介を済ませた頃、彼らのもとへ斉木が駆け寄る。

「すみません、川瀬さんの台本をお渡ししていなかったそうで……大変遅くなりました」

やや息を切らしながらそう言い、台本を川瀬へ渡す。

「わざわざありがとうございます。えっと……」

「斉木です。この劇場の支配人を任されております」

そう言ってお辞儀をするのに合わせ、川瀬もお辞儀を返しながら軽く自己紹介をする。

「ご丁寧にありがとうございます。川瀬と申します」

お互いに低姿勢な挨拶を交わした後、斉木は足早に立ち去って行った。

 立ち去る斉木を見て、高柳が呟く。

「斉木さん、いつも忙しそうだよね」

「えぇ。蒲笈さんの仕事の大半をあの人が任されているんだもの、無理もないわ」

と、佐々木が遠い目をして同調する。

 誰よりも早く出勤して誰よりも遅く退勤する、勤務中は休憩している姿を見掛けない。

その上業務内容は誰よりも多く、支配人としても劇団の運営などにも携わっているのだ。その仕事量は計り知れない。

職場に一人でもこんな人物がいれば、普通の感性を持っていれば心配にもなるだろう。

「斉木さん、過労で倒れないと良いけど……」

小野が弱々しく呟くのを名瀬は無言で頷く。

劇団と劇場両者にとって、それほど欠かせない存在となっているのだ。もはや蒲笈以上に重要視されている面すらある。

 彼らが語らっている一方で川瀬は、受け取った台本に早速目を通していた。

速読の心得があるのかどんどんとページを捲っていき、すぐに最後のページへと行き着く。

再び最初のページに戻り、今度は赤ペンで自分の台詞に印付けを始める。

 それが終わったかと思えば、談笑する他の役者らに向けて呼び掛ける。

「早速ですが、練習を始めませんか?」

突然の呼び掛けに一同は面食らったように沈黙してしまう。

 最初に発言したのは佐々木だった。

「練習というのはどういう状態を言っているのかしら」

「場面別に台詞を通して読み合う練習のことです。先ほどの空き時間で自分の台詞は一通り目を通したので、今からでも読み合わせできますよね?」

川瀬の言う『空き時間』というのは、先ほど高柳らが談笑している間のことを差しているのだろう。

 彼らの会話に混ざろうとせず、台本に目を通すことを優先したのは川瀬の自由だ。

しかし、自分が終わったから他人も出来ていると判断する姿勢には、名状し難い違和感を覚える。

 どうしたものか、と呆れたように笑って高柳は呟く。

「はは、これは手厳しいねぇ」

川瀬の意見もあながち間違いではないのもあり、真っ向からは否定できないのだ。

 それでも今すぐに読み練習は厳しいのも事実。佐々木が丁寧な説明を交えつつ尋ねる。

「私と小野ちゃんは役替えを言われたばかりで、まだ台詞を読めてないの。通し練習は午後からでもいいかしら?」

佐々木の提案を聞き、川瀬は口をムッと尖らせた後に素っ気ない態度で返す。

「構いませんが……なるべく早い時間でお願いします」

不服そうな表情のまま一礼し、ロビーから立ち去った。

自身の向かう先を告げずに行ったが、あまり広くない劇場内では練習する場所も限られる。四人は特段気にも留めなかった。

 しかし、先ほどの川瀬の言動は全員がどことなく違和感を覚えている。

満島とは違った扱いにくい人材なのではないか、と。


 川瀬は憤慨していた。

ロビーを出て第二劇場へ向けて歩き続ける最中、先ほどの彼らの態度を思い返しては踏み出す足に力が入る。

 彼女の考えでは、完成度の高い公演を行う為には全員が全身全霊で行ってこそ実現するものだ。当然、その過程も重要視している。

練習も全員が同じ気持ちで取り組めば、余分な時間などないと考えているのだ。

ここで言う余分な時間というのは、川瀬独自の価値観に基づいたもので劇に関係のない言動をしている時間を指す。

 それを踏まえて先ほどの四人の言動を思い返せば、川瀬の価値観とはそぐわないものだっただろう。

 つまり川瀬は、先ほどの談笑だけで彼らが練習に意欲的ではないと判断したのだ。

実に身勝手、というよりも善し悪しの判断を下すのがあまりにも早い。

 行き場のない怒りを抱えつつ、ようやく着いた第二劇場には誰もいなかった。

「ふん。ここの人たちは誰も彼も気合が足りないのですね。私が手本にならなくては」

そう言いながら台本を開き、自分の台詞があるページまで捲る。

 最初の台詞があるページを強く折り広げ、改めて読み返す。

台詞を声に出して読もうとした時、川瀬は強い視線を感じた。

 周囲を見渡すと、確かに誰もいない。

「何ですか?誰かいるなら出てきてください」

よく通る大声で呼び掛けるも、帰って来る言葉はなかった。第二劇場はどこまでも静寂に包まれている。

 この状況を気味悪く感じたのか、川瀬は台本を閉じて周囲を頻りに警戒し始めた。

きょろきょろと見渡している内に、見落としていた場所に人の姿を見る。

 第二劇場の扉に嵌められたガラス。

そこに映る川瀬の背後に、浅葱色のワンピースを着た女性が立っているのを見つけた。顔は白い女優帽を目深に被っているせいで見えない。

 川瀬はすぐさま振り返るも背後には誰もいなかった。

しかし再び扉のガラスを見れば、やはり自分の背後にその人はいる。

 この人物はガラスにしか映っていない。そのことに気づいた川瀬は、こめかみから汗が一筋垂れるのを感じた。

この世ならざる者。川瀬の頭にその言葉が浮かんで離れない。

 川瀬は声を震わせながらも、気丈にもその人物に向けて話し掛ける。

「あなた、ですか?さっきから私を見ていたのは」

ガラスに映る女性からの返事はない。

ただ、後ろに黙って立っているだけだ。

 危害を加えられないと感じたのか、川瀬は恐怖しながらも自身の言い分を伝える。

「あの、練習でここを使いたいんです。気が散ってしまうので、別の場所に移動してもらえませんか?」

そう言って、ガラスに映る女性を真っ直ぐに見つめた。

しかし相変わらず、あの女性からの返事はない。ただそこにいるだけだ。

 すると今度は左肩に強い痛みを覚えた。

まるで何者かに強く握られているような、そんな感覚だ。

しかもそれは段々と強くなっていくのを感じる。

 川瀬は恐る恐る自身の左肩を見ると、白い手袋を嵌めた細い指が見えた。その指は確かに食い込むほど強い力で肩を握っているのだ。

 明らかに自分以外の何者かがいる。

その恐怖だけが川瀬の心臓を高鳴らせていく。静かな第二劇場で川瀬の心臓だけが轟いているような感覚さえあった。

 とはいえ、川瀬は我が強いところがある。

たとえ相手が人間でなくとも、自分がここで劇の練習がしたいことを伝えなくては。

本番まで時間がないのだから、と。

 一呼吸した後、川瀬は意を決して振り返る。

 振り向くとそこには、ガラスに映っていたあの女性が立っていた。

遂に見えた女優帽の下には美しい顔があり、川瀬はその凛々しくも柔らかい眼差しと目が合う。

 その顔を見て、川瀬の顔はみるみる間に青ざめていく。

「浅山千幸……さん、ですよね?」

亡くなった筈の、という言葉が出ぬまま口をパクパクと動かした。

 浅山と呼ばれた女性は沈黙を続けるが、川瀬の左肩からようやく手を離す。

そしてそのまま、ただじっと川瀬を見つめる。

 川瀬は左肩を抑えながら、浅山らしき者から少しずつ距離を取った。

震える足で後退りするせいで、彼女との距離はあまり離れていない。

 しばらくの間、不気味な沈黙が流れた。

だがそれも直に終わりを迎える。

浅山らしき者が何の前触れもなく、どこから刃物を取り出したのだ。

 刃渡りおよそ二十cmの尖端が鋭い物で、何かを切り裂くには十分な切れ味を持っているだろう。

 唐突に刃物を取り出され、川瀬はそれを指差しながら口をまごまご動かす。

「な、なん、なんですか?」

と、どうにか発せた言葉もあまり要領を得ない。

 川瀬はその刃物で危害を加えられると思っていたのだが、それが彼女に向くことはなかった。

 浅山らしき者はその鋭利な刃物を自分の喉元に当て、何の躊躇いもなくその刃を横に引く。

太い血管を切ったのか、すぐさま鮮血が吹き出す。そのまま切り口からどくどくと血液は垂れ流れ、襟元から下にかけてワンピースを赤黒く染めた。

 おびただしい出血をしてもなお、表情は変わらず穏やかなまま。ただひたすらに川瀬を見つめている。

 恐ろしい自傷行為の一部始終を見てしまった川瀬は、首を横に振りながら絶叫する。

「きゃあぁぁぁ!!!」

彼女の甲高い悲鳴はどこまでも響き渡り、叫びながら意識は遠退いてしまった。

 悲鳴を聞きつけて駆けつけた裏方が言うには、彼女は扉の前で一人倒れていたのだと。

川瀬の悲鳴を聞いた後、この第二劇場へ出入りした者は自分以外に誰もいなかったと証言した。

だが、それでも川瀬は証言する。


「浅山さんは確かに……あの劇場にいたんです!」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 夕暮れ時の桝谷探偵事務所は、暖かな陽気に包まれていた。

そのおかげで薫と徹は、ソファで肩を寄せ合い眠ってしまっている。こういうところを見ると年相応の子供らしい。

 本格的に眠ってしまってもいいように、二人に何か掛けるものを持ってこよう。

室温的には寒くないだろうが、寝ている時に柔らかいものに包まれていると幸福感が増すと、どこかで読んだことがある。

 それに、彼らが今よりずっと幼い頃。面倒を見ていた時によく使っていた毛布の使いどころだ。

 私は椅子から静かに立ち上がって自室へ向かい、押入れからチェック柄の薄くて軽い毛布を取り出す。

定期的にきちんと手入れしていただけあって、すぐにでも使えるようになっている。

 毛布を抱え、自室から静かに戻ってきた。

どうやらまだ眠っているようだ。

 毛布を慎重に広げ、二人の膝にそっと掛ける。

二人まとめて全身を包めていた毛布だったが、今となってはひざ掛け程度にしかなれない。何故だか感慨深い。

彼らがこの毛布を覚えているかはわからないが、私としては思い入れがあるものだ。

 だが、彼らの成長に合わせて毛布を新調するのもいいかもしれない。

そうすると、寒くなる前に買っておけばいいだろうか。薫も徹も、暑かろうと寒かろうとこの事務所に入り浸るつもりのようだから。

 私が新しい毛布に思いを巡らせているところへ、事務所の電話が鳴り響く。

助手たちの眠りを妨げないよう、素早く取って控えめな声量で喋るように努めた。

「はい、こちら桝谷探偵事務所」

電話向こうの音には聞き覚えがある。おそらくあの男だろう。

「こちら警察、というか俺だ。浅山千幸の件で進展があったぞ……悪い方向にな」

そう言って晴雄は私の返事を待つより先に語り出した。

「まず、浅山の後任として劇団に入った役者が亡くなった。死因は不確かだが、何らかの薬品を用いての殺人だろうと考えている」

「これはまた随分と早い。連続殺人だってもう少し期間を置くものだよ」

それに薬品を用いた殺人とは。薬品によっては入手経路で特定されやすいものだが、あえてそれを利用しようとしている可能性がある。

 私が沈黙していると、晴雄が話を進めた。

「それと、満島の後にまた後任が入ったそうだ。名前は川瀬百合子、今日から劇団に参入したそうだが……」

そこまで言ったところで、晴雄は言葉を途切れさせた。

「満島と似たような証言をしたのかね?」

「……その通り、さすがは名探偵。彼女もまた劇場で『浅山を見た』と証言したそうだ」

ふむ、川瀬という人もまた姿。そこに何か関係がありそうではあるが、今はまだ情報が足りない。

 しかしこれだけは確かに言える。

「おそらくこの殺人はまだ終わらないだろう。実に恐ろしいことだがね」

「……そうか。君がそう考えるのなら確かなんだろうな」

その言葉の抑揚から、晴雄の気落ちした様子が伝わった。

それじゃあ、と言って晴雄は電話を切る。私も受話器を置き、深く息を吐く。

 浅山が死に、その後任として呼ばれた満島も四日後に死亡。

そして今度は新たな後任が呼び寄せられた。

 幸いにも先ほどの電話で薫と徹を起こしていないようだ。

穏やかな表情で寝ているところを見るに、何やら楽し気な夢でも見ているのだろう。そうであれと伯父ながら切に思う。


 今回の事件は、二人を助手として関わらせてはいけない。

あまりにも残酷で不条理な展開へ向かいそうなのだ。

私の考えが確かであれば、だが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る