二
浅山千幸は死んだ。
人々が最も目を張る最中、焼けるほど眩い光に包まれて。
熱く圧し掛かる照明の下から折れた腕を伸ばしても、誰からも救われぬまま。
逃げ惑う人々の喧騒を聞きながら、痛みと熱さと息苦しさの中で絶命した。
それが千の幸を授かった女、浅山千幸の最期だ。
―――あの事故、あるいは事件が起きた直後。舞台上で火が上がったのを皮切りに、次々と観客が出口に向けて押し寄せてきた。
劇場係員が呼びかける間もなく、我先にと押し退け合う者しかいなかった。
しかしそこへ、床を杖で叩く大きな音と共に鬼気迫る声が響く。
「静まれぃ!」
声の主は私の一つ前の席に座っていた老人だ。暗がりでよく見えないが、きっちりと撫でつけた白髪が重ねた歳を感じさせた。
老人の一声に混乱に包まれていた劇場が一瞬、物音一つ聞こえなくなる。
その一瞬を利用し、劇場係員が観客たちに呼び掛ける。
「大変危険ですから、出口に近い方から順番に出てください!どうか押さないで!」
何度かの呼び掛けで混乱していた人々もやや落ち着き、指示に従うようになった。
扉の手前まで来ていた人がまず出て、その次に座席順に従って押さず走らずで出ていく。火の手が舞台上から溢れる様子はまだなく、緞帳に喰らいついていた。それでもなにかが焼け焦げる嫌な臭いはここまで漂ってくる。
現場から離れても足は止めず、そのまま全員が劇場の外まで突き進んだ。薫と徹が懸命に私の袖を握っていたから逸れず、すぐに合流することができた。
幸いにも出口に近かった我々は劇場係員の指示の下、どうにか五体満足で外へ出ることができた。私と同じく薫と徹にも怪我一つない。
とは言え、『人間の死』という衝撃的なものを見た後なのだ。
そこから何かをする気にもなれず、ひとまず私の事務所まで帰ってきたのだった。
我々がいた場所から舞台まではかなり遠く、あまりよく見えなかったのが幸いしてか、助手たちの精神的な傷は深くないように見える。
出したお茶も早々に飲み終わり、自宅のようにソファでまったり寛いでいる。
図太いのか、実感が湧かないのか。いずれにしても、必要以上に落ち込んでしまうよりかはずっと良い。全くもって何よりだ。
さて、私もお茶のおかわりでもしようか。
書斎机から立ち上がったところ、勢いよく事務所の玄関が開け放たれる。
慌ただしく靴を脱ぎ、短い廊下を抜けて部屋の扉が開けられた。
「薫!徹!無事なの!?」
まさしく血相を変えた様子で乗り込んできたのは私の妹であり、助手たちの母。優美子だ。
白いブラウスに紺色のショールを肩にかけ、長い黒髪を項の辺りでまとめ、前髪を左に流している。化粧などせずに急いで来たらしい。
息を切らして入ってきた母を見ても、双子の助手は驚く素振りすらなかった。
「あら、母様」
「僕らは怪我一つありませんよ」
二人揃って呑気に答える。
優美子を事務所へ呼んだのは私だ。あの騒動から事務所に帰ってすぐに電話しておいた。
心配性な彼女のことだ、劇場で人死にが出たと聞けば居ても立っても居られないだろう。猪突猛進にあの騒動へ乗り込みに行きかねない。
大切な妹を騒がしい野次馬にしない為にも呼んでおいたのだが、どちらにしろ騒がしくはするらしい。
「二人とも怪我はないのね!あぁ、よかった!本当によかった!!」
そう言って薫と徹を力強く抱き寄せる。
深い親子愛を尻目に、私はいそいそとお茶を沸かしに行く。
母親の深い愛情に包まれて満足気な表情をしている。助手として仕事を手伝ってくれている薫と徹だが、まだまだ子供のようだ。
優美子が二人から少し離れ、それぞれの顔を見ながら話しだす。
「お向かいさんから劇場で火事が起きたって聞いてね。朝、二人が行くって言ってたものだから心配で心配で……」
と、言いながら薫と徹の頭を代わる代わるに撫でた。
「とりあえず出かける準備はしないと、と思っていたところにお父さんから電話が来てね。亡くなられた方がいるって聞いて……あなたたちに何かあったらどうしましょうって」
「母様……」
優美子は悲し気な表情のまま続けて語る。
「そんなところに兄さん、小太郎伯父さんから電話があってね。薫も徹も無事だからと聞かされて。もう何もかも放って飛び出してきちゃったわ」
そうして困ったように笑う。それで先ほどの慌てようだったのか。
一通り話し終えて落ち着きを取り戻したらしく、穏やかな雰囲気で助手らに向けて話す。
「そしてね、お父さんは現場検証が終わってから来るそうだから、こちらへは十八時頃になるそうよ」
二人は母の言葉に顔を輝かせるが、彼が来るとは私は初耳だ。
「父様が来るのですか!」
と、声を揃えて喜ぶ二人。こういうところを見るとまだまだ子供だと思う。
薫と徹の父、
良き夫であり良き父親、まるで絵に描いたような善人。義兄としても友としても信頼している人格者である。
ふいに優美子が私を見て、こう言い放つ。
「そういうわけだから、しばらくお邪魔するわね」
「はいはい。ごゆっくり」
私は自分の湯呑みを片手に
「でしたら、母様もゆっくり座ってくださいな」
「このお茶菓子、美味しかったので母様も食べてみてください」
双子らは口々に言いながら自分らの間に座る隙間を作った。
「そうね、お邪魔しちゃおうかしら」
そう言って優美子は嬉しそうに笑う。
席やら机やらを徹が整え、優美子とは薫が話をしている。
机の空いた場所に沸かしたばかりのお茶を置いておく。ついでに空になっていた薫と徹の湯呑みにもお茶を注いだ。
「あら、お茶ありがとう」
「どうも。茶菓子がなくなったら言いなさいね」
すると、横で聞いていた徹が得意そうに語る。
「わざわざ先生のお手を煩わせずとも、お茶菓子の場所くらい把握していますよ」
「なに!?いつの間に見つけたのかね」
「さて、いつでしょうね」
なんて目敏い、隠す場所が甘かったのだろうか……。今度から戸棚の一番上に置くのはやめておこう。
優美子が慌ただしく事務所を訪れ、感動の再会をしてお茶を楽しんだ後。
ふと、時計を見ながら優美子が私にこう提案してきた。
「せっかくだから、みんなでお夕食を食べるのはどうかしら」
「どこで?」
「この事務所に決まってるでしょ。みんなここに集まるんだから」
尋ねる私に優美子は当然のように答える。
あまりにも急な提案を投げられ、眉間に皺が寄るのを感じた。
「食べるのは構わないが、ここにそんな材料はないよ」
「今から買いに行くわ。兄さんのことだから、買い置きしてるのはお茶漬けくらいなのでしょう」
正論に返す言葉もない。居たたまれなさから視線を左上へ逸らす。
「それじゃあ、明るい内に行こうかしら」
「今日は僕がついて行ってもいいですか?」
「えぇ、一昨日は薫が来てくれたものね」
それに対し、にこやかに頷く薫。そのまま一言口にする。
「母様たちがお買い物している間、先生は私が見ていますから。安心してくださいましね」
「お菓子を食べ過ぎないように見張っておいてちょうだいね」
と、言う優美子。心外だ、まるで私が一人では頼りないような扱いをして。
「逆ではないのかね、私は立派な大人なのだが」
「あら。先生がしっかりしてらっしゃるのは、推理の時だけではなくて?」
口元に手を当てて驚く薫に、優美子と徹は吹き出すように笑う。
こんなことを言っているが、本人に悪気はないのだから困ったものだ。
「はぁ、他でもしゃんとしているつもりだがね……」
沈みかけている頭を頬杖ついてどうにか支える。私のどこが抜けているというのだろうか。
そんな私に対して、優美子は笑いながら声をかける。
「まぁまぁ。二人は仲良く留守番をよろしくね」
そう言って残ったお茶を飲み干し、立ち上がった。
徹もまたソファから立ち、服装の乱れがないか鏡を見ている。徹が通っている学校は校則がやけに厳しいらしく、学校外でも身嗜みは完璧でないといけないらしい。
そうして荷物を整え、出かける支度が済んだ二人。揃ってこちらに一声だけ投げかける。
「いってきます」
私と薫はその場から動くでもなく、見送りの言葉だけ投げた。
「はいはい、いってらっしゃい」
「どうぞお気をつけてね」
程なくして、玄関は静かに閉められた。
私も薫も取り立てて語らうことなどない。それぞれがしたいように過ごす、と暗黙のうちに理解していた。
この間に私は、今日の出来事を手帳に書き留めておかねば。後々使うことになるだろうから。
私の考えが確かであれば、だが。
優美子と徹が買い出しに出かけてから二時間後の十七時半、呼び鈴が鳴る。
今朝の呼び出しとは違い、今回のは検討が付いていた。
玄関を開けると、そこには見知った男が立っていた。晴雄だ。
清潔感のある黒髪の短髪と切れ長の黒い瞳。職業柄、鋭い眼光と十分に鍛えられた体格で
外見だけでは冷淡に見えるが、実際は表情豊かでよく笑う朗らかな奴だ。存外、薫は父親似なのかもしれない、と時々思う。
先に口を開いたのは晴雄の方だった。
「やぁ、相変わらず顔色が良くないなぁ」
「そういう君も相変わらず目つきが悪いね」
ははは、とお互いに笑い合う。悪口を言い合っているのではなく、竹馬の友である我々なりの挨拶だ。
「父様ー!」
私を押し退けて晴雄に飛びつき、熱烈な出迎えをする薫。こうなると伯父の肩身は狭いものだ。
「おかえりなさい!」
「ただいま。大変なことがあったそうだが、元気そうで安心したよ」
そう言って薫の頭を優しく撫でる。
「えぇ、きっと父様が解決してくださるって信じていますもの。何も怖くありませんわ」
「ははは、これは絶対やり遂げないといけないなぁ」
そう言って私の方を見る晴雄。多くは語らずとも、彼が言わんとしていることはわかる。
やはり、今回もまた捜査を手伝うことになりそうだ。
すっかり暗くなった午後二十時。
十八時頃に戻ってきた優美子たちがそのまま夕食を作り、十九時には食べ始めていた。一家と私とで囲んだ食卓の一時はあっという間に終わり、皆が満腹になったということで解散となった。
賑やかだった事務所も母子が帰宅したことでようやく静まり、三人を家まで送ってきた晴雄と私だけとなった。
これから晴雄が調査してきた現場状況を聞くことになっている。
内容が衝撃的で時間も遅いのを考慮し、助手らに聞かせられない為だ。
現場に居合わせたのだから何を今さら。とも思えるが、この件に関する記憶をあまり鮮明にさせてはいけない。
事務所に戻ってきた晴雄に改めてお茶を出し、向かい側のソファに座る。
「さて、仕事の話をしようか」
そうして晴雄が私が巻き込まれた事故の説明を始めた。
発端は舞台の天井に設置されていた大型照明機材が落下したことから始まる。
落下した真下にいた浅山千幸に直撃し、可燃物に高温の電球が押しつけられたことで火災が発生。正確な死因は現状では判明していないが、そのどちらかが原因で彼女が死亡したのは確かだろう。
この一件での死傷者は一名のみ。浅山千幸ただ一人だけだったそうだ。
劇場から避難する際に混雑はしたものの、例の老人の一声が幸いして怪我人が出るほどではなかったらしい。加えて、逃げ遅れた人もいないのだとか。
舞台から起こった火災もあまり燃え広がることなく、火の手も舞台前の六列目までで留まったらしい。
「肝心の死因が判明してない現状では、これが事故なのか事件なのかもわからんな」
と、愚痴を零す晴雄。
「いや、これはどう考えても事件。浅山千幸の死は他殺によるものだろう」
「ほう。言い切ったな」
私の推理に興味を示したのか、前のめりに座り直す。
手元の手帳を見返しながら、自分の推理を語る。
「まず第一に、同じく登壇していた役者。彼は浅山千幸に最も近かったはずが、怪我なく避難できたらしいな」
ただの火災事故にしては、関わった人間に対して怪我人も死者も少なすぎる。
「そうだ。目の前で浅山が死ぬところを見てしまったせいで、彼は酷く動揺していた。無理もないことだ」
「おそらくそれは演技ではなかっただろう。彼の演技はそれほど上手くはなかったのだから」
事実、舞台上で演技していた彼は上手ではなかった。よく通る声と遠くからでもわかる目鼻立ちがあるだけで、彼自身に観客を揺るがす演技力はあまりない。
そんな人物が晴雄のような経験豊富な警部を騙せるはずもないだろう。
私はお茶を一口だけ飲み、続きを語る。
「その場に居合わせたから言えるのだが、少し違えば私は今ここにいなかったかもしれないと思っている。しかし実際にはこうして怪我一つなく生きている。なぜだろうか」
「幸運にしては出来過ぎている、ということか?」
「その通り。大型照明が落下したこともまた、何者かの手が入っていたと考えた方が妥当だろうね」
舞台の天井に設置された大型照明が落下したことも、劇場の老朽化による事故が危ぶまれていたにも関わらず放置していたらしい。改修を怠った劇場側に問題があるようにも見える。
しかし、それをちょうど舞台が大盛り上がりの瞬間に、役者の頭上に下がっていたものだけが落下するなど。それをただの偶然で括れる筈もない。
「極めつけは火災規模だ。最初の発火こそ小さかったかもしれないが、舞台上はもちろん観客席にも火種は十分にあった。しかし、実際に被害が出たのは舞台と観客席の四割程度……」
あの場に居合わせた人々が舞台から距離を取り、なおかつ全員が避難するのにちょうど良い塩梅。死傷者一名というのも、予め浅山千幸に狙いを定めていた為だろう。
混乱が起きようと浅山千幸以外の被害者を出さなかった。その絶妙な加減からして、火災をも含めた犯行だと思えてならない。
「まだ不確定な部分も多いが、私にはこれが浅山千幸を殺害する為に実行された事件だと推理するよ」
私の考えに晴雄は深く頷いた。
それから小さく、よし、と言って膝を叩く。晴雄が何かを決心した時にする昔からの癖だ。
「明日から忙しくなるな」
そう言って晴雄はお茶をぐいっと飲み、勢いよく立ち上がる。
「ではまた。何かあれば電話なり出向くなりしよう」
「あぁ。もしかすると、依頼者が見えるかもしれない」
私の考えが確かであれば、だが。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
不幸な死が起きたその日の夜、焼け落ちた劇場に二人の男が足を踏み入れた。
鎮火こそしたものの、まだ危険の多い現場にずかずかと踏み入り、見るもの全てに文句を垂れている。
この男こそ、舞台監督であり劇場の所有者でもある
「まったく酷い有り様だ、どこもかしこも黒焦げで炭だらけ。おまけに一番重要な舞台が焼け落ちているだなんて!」
「はぁ、本当に悲惨な状況ですねぇ」
怒り心頭、と言った様子で語る蒲笈を宥めようと必死な男。
彼はこの劇場の支配人で、蒲笈に代わって様々な業務を任されている。名を
「事故の原因もまだ分かっていないそうじゃあないか!警察は何をやっているんだ!」
「酷いものですねぇ、困ったものです」
「しかも唯一の死傷者が千幸だけだったなんて!とんだ痛手だ!」
「心中お察し致します」
同情の言葉をかける斉木には見向きもせず、足元に転がる燃え屑を蹴りながら蒲笈は語る。
「千幸にどれだけの価値があるか、君も分かるだろう?」
「それはもう。彼女を超える女優はそういませんから」
斉木は深々と頷く。
事実、浅山千幸と並ぶ実力者も国内では数えるだけしかおらず、その彼女を超えるとなるともう少し演劇文化が発展しなければならないだろう。
しかし、斉木は含みのある笑みを浮かべて言葉を付け加える。
「……ですが、彼女の代役でしたらご用意できます」
「あぁ、その為に君を呼んだんだ。早速聞かせてもらおうじゃあないか」
ようやく落ち着いてきたらしく、燃え屑を蹴飛ばすのを止めて斉木へ向き直る。
「まずはこちら、
そう言って斉木は蒲笈に資料を渡した。
先ほど紹介された満島しおりの経歴や個人情報などが数枚にまとめられており、一枚目には少女の顔写真が載っている。
あどけなさが残る甘く可憐な顔立ちの少女で、ぱっちりとした睫毛と赤茶色の瞳が印象的だ。
肩にかかるくらいの髪をふんわりと巻き、頭頂部でリボン結びしている。いかにも若い子、と言った雰囲気だ。
「ふぅん、悪くないね。ちょっと年増な千幸では難しかった役も任せられそうだ」
まじまじと満島の顔写真を見ながら続けて呟く。
「それに顔も好みだね。目がぱっちりとしていて素直そうな……個人的に親しくしたい娘かもね」
そう言いながら下卑た笑みを浮かべる。
まだ未成年の少女に対して邪な夢想を視る蒲笈に対し、斉木が尋ねた。
「そういえば、浅山さんとはなかったのですか?親密な関係と言いますか……」
「いやいや、千幸とはこれっぽっちもないよ。だって彼女は大当たり確定の宝くじ、言ってしまえば商売道具さ」
吐き捨てるようにそう言って鼻で笑う。蒲笈にとっての浅山はその程度だったのだ。
それでも納得いかない様子の斉木。食い下がるように話を続ける。
「ですが、あの浅山ですよ。容姿端麗で器量良し、誰に対しても礼節を欠かさない育ちの良さ。どこを見てもあなたの恋人、配偶者には十分な素養を持った女性だと思いますが……」
「確かに僕の家柄とか立場を考えれば、千幸くらいの女性が丁度いいのかもしれない。だけどさ、彼女って真面目で完璧すぎて可愛げがないんだよね」
と、言って軽く溜め息を吐く。浅山をそのように評価するのは蒲笈くらいのものだろう。
斉木は彼の歪みを矯正することなく、潔く話題を変える。
「なるほど。では、次の娘はあまり好まれないかもしれませんね」
そう言いながら、斉木は次の資料を手渡す。
「
満島と同様の厚みをした資料の一枚目には、理知的な顔立ちの美女が写っていた。
長い睫毛と凛々しい釣り目、艶やかで流れるような黒髪を顎の高さで切り揃えている。
「なるほどね、千幸の下位互換か」
「……ですが川瀬は浅山さんより身長が高く、演出次第では脇役を多く登壇させていても映えるでしょう」
蒲笈の否定的な言葉を受け流し、斉木は川瀬を売り込む。
「まぁ、千幸の美しさ目当てに通ってた人なら引っ掛けられるかもね。この資料を見る限り、体付きも申し分なさそうだ」
くくく、と蒲笈は嗤った。資料を見ながら下卑た笑みを浮かべているのだ。
斉木は控えめな咳払いを一つし、手元にある最後の資料を手渡す。
「それでは最後にサリー・コリンズ、こちらは二十一歳。イギリスから日本に来た方で、バレエの経験があるとか」
コリンズの紹介を聞き、促されるように資料に目を通す蒲笈。
筋の通った高い鼻と翡翠色の瞳が印象的で、明るい金髪を上品に纏めている。
西洋人らしい顔立ちと高い身長で舞台でも十分映えるだろう人物だ。
「へぇ、ってことは外国の演劇をやるのもいいかもね。題名は忘れたけど、女が主役の丁度いいのがあるでしょ」
と、顎をさすりながら言う。蒲笈の薄っぺらな知識に呆れつつも、それをおくびにも出さないように努める斉木。
「おそらくは可能でしょう」
「でもさ、この人って日本語通じるの?僕は英語そこそこできるから良いけど、裏方とか雑用の従業員とかは学がないから困るんじゃない?」
「その点は問題ありません。日本語の読み書きを習得してから来日したので、日本語の台本でも十分に演じることが可能です」
斉木の補足に意外だと言うような反応を見せる蒲笈。ふん、と鼻を鳴らして軽く頷いた。
蒲笈は三名の資料をまじまじと見返した後、自身が選んだ役者の資料を軽く叩きながら告げる。
「それじゃあ、しおりちゃんにしようかな。明後日から来てもらって、次の舞台の主演にしよう」
「承りました」
そう言って深々と一礼した。
蒲笈は斉木が顔を上げるより早く、持っていた資料を全て差し出した。薄暗いなかでも細い文字盤が見える角度を探しているのだろう。頻りに周囲を見渡しながら時計を傾けている。
ようやく見えた時刻に眉をしかめた。
「もう二十二時過ぎなのか。こんな気分のまま帰りたくないのにさぁ。なぁ、君もそうだろう?」
蒲笈は独特な視線と仕草を斉木へ向ける。これは彼が酒の席に誘う時に必ずする仕草だ。
「いえ、私はこれから仕事がありますので」
「まぁいいや、可愛い子と呑む方が美味しいから。君とは仕事の話くらいしかできないし」
そう言って小馬鹿にするように斉木の肩を軽く叩く。返事はない。
ガタ、ガラガラ。ラ。
焼け焦げた木材がひとりでに崩れる。黒い舞台の上に集められた燃え屑たちが雪崩れたのだ。
「なんだ。誰かいるのか」
蒲笈が近づこうとするも、斉木から制止が入った。
「近づいてはいけません、危険ですから」
斉木が広げた手を振り払い、押し退けようとする。その顔は好奇心でにやけていた。
「ちょっと見るだけだよ」
「それでもいけません。御父上に報告しますよ」
斉木の一言に蒲笈は表情が固まる。押し退けることをやめ、忌々しそうに舌打ちを零す。
すっかり興が削がれたのか、蒲笈は斉木の肩を軽く押して劇場から立ち去った。
彼が去り際に燃え屑を蹴り上げたせいで、周囲には煤か灰かもわからない細かな塵が舞う。
斉木は強く咳き込みながら、蒲笈の背を見送る。
その眼には侮蔑の色が濃く滲み出ていた。
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