満島しおりの場合
一日目
あの悲惨な劇場火災から翌日。
警察の出入りが多い劇場の中、蒲笈は劇団員たち六名と劇場係員たち十二名を集めていた。斉木を含めた彼らの前に立ち、傍らに少女を立たせている。
ぱっちりとした愛らしい目元とふんわりと流れる茶髪、薄桃色の膝丈ワンピースと同じ色のリボンを頭頂部で結んでいるのが印象的だろう。
昨日のことで表情が暗い者とは真逆に、眩しいばかりの若さを振り撒いている。
蒲笈は集まった者たちの顔を見ながら数え、小首を傾げた。
「あれ、あいつは?太田」
その名前を聞き、関係者らは顔を強張らせる。
彼が口にしたのは、昨日の火災で命からがら逃げ伸びた男。太田樹のことだった。
「彼は昨日のことで心労が酷いらしく、しばらく休養をと申請しています」
「そう。まぁ、あいつの代わりはいくらでも利くから休んでいいよ。帰ってこなくてもいいし」
あまりにも無神経な言葉に空気が沈む。特に劇団員たちは自分にも言われている気がして、黒いインクのように濁った感情が底に溜まっていく。
そんな反感を持たれているとは気づいてすらいない蒲笈は、横にいる少女の肩をわしと掴んで引き寄せる。まるで新しい玩具を買ってもらった子供のようだ。
「みんな集まったようだから紹介しよう、今日からこの劇団に加わった
「満島しおりっていいます。趣味はぁ、お花を育てることとぉ、あまぁいお菓子を食べることです!よろしくお願いしまぁす!」
と、幼さを感じさせる小さな身振りを交えつつ、見た目通りの猫撫で声で自己紹介する。それからくりくりとした瞳で劇団員たちを見つめ、くすりと微かに笑っていた。
満島の肩を撫でながら蒲笈は満足そうに笑うが、対面している者たちは落胆した表情を浮かべる。
彼らにとって高値の花だった浅山を失い、感情の整理ができないまま満島を紹介されたのだ。蒲笈の下賤な趣味が透けて見える少女を。
劇場関係者らの胸中など微塵も感じ取れない蒲笈は、彼女に対する彼らの反応が不服だったらしい。ほら、拍手。とでも言いたげな視線を斉木に送った。
斉木は不本意な役回りを与えられため息が出たが、それも仕事として割り切って満島に拍手を送る。そんな彼に続いてまばらに拍手が起こった。
当の満島はあまり歓迎されていないというのに、蒲笈の傍らで満足そうに微笑んでいる。
蒲笈は自分で催促した拍手を早々に止めさせ、関係者らに向けて指示を口にした。
「さっそくだけど、次の公演は二週間後ね。ここは使い物にならないし、第二劇場を使えば十分でしょ」
彼の耳を疑うような発言に劇団員らは呆気に取られてしまう。
劇団から人死にが出た翌日に新しい役者を呼び寄せるのも、火災からたった二週間しか経過していない劇場で公演するのも。蒲笈が考えている全てが理解し難いのだ。
ふと、昨日燃えた舞台を見やる者もいた。
常識から外れたことばかりする蒲笈に対し、段々と不信感が募っていく。
それでも蒲笈は劇団員たちにはお構いなしで話を続けた。
「それじゃあ、次の台本配るから。各自しっかり目を通しておくように」
その言葉を合図に、斉木が足元に置いていた鞄から台本を数冊取り出す。
彼に近い人から順に受け取り、最後に前に立っている満島が受け取った。
配られた台本を皆が読み始めたのを見て、蒲笈が粗末な語り部となる。
「可憐なお嬢様を男二人が取り合い、愛の果てに男たちは殺し合ってしまう……。最後にはお嬢様だけが残されてしまう悲恋の物語だ。千幸に演らせようとしたけど、主役の雰囲気に合わなくてお蔵入りさせたんだよね」
と、半ば投げやりな締め方をした後、満島へ視線を動かす。蒲笈の視線に気づいてすぐに目を合わせ、まるで小動物のように丸い瞳を輝かせている。
愛らしい仕草をする満島を見て、蒲笈はにんまりと笑う。
そして、にやけ顔のまま劇団員や劇場係員たちに向けて指示を出す。
「それじゃあ、解散。各自で練習なり打合せなりしておいてね。わからないことがあったら斉木に聞くこと、僕は忙しいんだから」
ぱんぱん、と短く手を鳴らし解散を促した。
自分が主役の台本を渡されてご機嫌な様子の満島は、案内された控え室で読み始めていた。
するとそこへ、控え室の扉からノックが数回鳴る。
「満島さん、今いいですか?」
「はぁーい」
間延びした返事を聞き、裏方が控え室へ入る。役者たちの化粧担当をしている者だ。
「満島さん、お稽古の前に舞台化粧を試させてください。」
そう告げられる満島は自分の控え室に来た裏方に一瞥すら向けず、化粧台の前に座って台本を軽く読んでいる。
「えぇー、そんなのいらなぁい。しおりはぁ、今のお化粧が一番可愛いの!」
鏡の前で満足そうに微笑む。
「ですが、普段使いのお化粧とは違って、舞台に立った時に映えるものにしないといけないので……簡単に落ちにくいものをつけていないと、後ろの方の席に座られるお客様にしっかり見ていただけなくなります」
と、弱々しくも釈然とした態度で話す。
至極真っ当な意見だが、満島はそれを素直に聞くような人間ではなかった。
「しおりのお化粧のどこがダメなの?ちゃあんと可愛いでしょ?」
「いえ、そうではなくて……」
「わかったぁ!しおりのこと嫌いなんだぁ、だからそんなこと言うんでしょ!」
そう叫びながら徐に立ち上がる。化粧台に並べてあった道具をいくつか握り、勢いよく床に叩きつける。
二、三個投げつけただけでは足りないらしく、続けて目についたものを掴んでは床にまき散らしていく。ケースから零れた粉が舞い、香水の瓶にはヒビが入ってしまった。
一頻り散らかした後、満島はその場にへたり込んで泣き出す。
「満島さん……」
急に癇癪を起した満島に、どう対応したら良いか考えあぐねている。
肩を震わせてしゃくり上げる彼女を宥めようと手を伸ばしたところで、控え室の扉が勢いよく開く。
「大きな物音がしたが何事だ!」
大声で呼びかけながら飛び込んできたのは蒲笈、その後に斉木が無言のまま入ってきた。
蒲笈は見開かれた目で控え室内をぎょろぎょろと見渡し、状況を把握しようとする。
床に散らばる化粧道具、座り込んで泣きじゃくる満島。そして彼女に手を伸ばしていた化粧係。
「お前、しおりちゃんを泣かせたな!道具もこんなに散らかして!」
化粧係を指差して糾弾する。
「違います!私は何も―――!」
「うわぁぁん!蒲笈さぁん!この人がしおりに嫌なことするのぉ!!」
否定しようとする声を掻き消すように甲高い声を上げ、蒲笈の胸に飛びついた。白く細い手が彼のジャケットをひしと掴んでいる。
状況はどうあれ、満島に頼られて嬉しいのだろう。蒲笈はにやけながら彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「よしよし、怖い思いをしたね。大丈夫。しおりちゃんは悪くないんだね」
「ふぇぇん」
両手で顔を覆いながら、満島はわざとらしく泣き声を上げる。
彼女の嘘泣きを白々しく見ていた斉木は、蒲笈に向けて苦言を呈した。
「どちらが悪いかを判断するのは、双方の意見を聞いてからでも遅くないのではありませんか?」
「いや、そんなことは必要ない。しおりちゃんがこんなにも泣いている、それが答えじゃあないか」
そう言って化粧係の腕を乱暴に掴み、控え室から引きずるように連れ出した。
「離してください!私は何も……!」
「うるさい!お前はしばらくこの控え室に出入りするな!」
騒々しく出て行った二人を見て、斉木は深く溜め息を吐く。
「お騒がせしました。後任の者は後日配属させますので、それまでご自分でお願いします」
と言って、一礼し控え室を出たところで、彼女はようやく顔から手を離した。その顔には泣き痕一つなかった。
誰もいなくなった控え室で、満島は何事もなかったかのように化粧台に座る。そして鼻歌混じりに自分の髪を整えて始めた。
本人にとっての完璧な形があるらしく、何度も櫛を通したり毛先を弄っているのだ。あまり大差のない変化ではあるが。
髪を触りながら、一人だからとこんなことまで呟いていた。
「ふぅん。こんなので良いんだぁ。簡単じゃん」
くすくすと笑う満島。
先ほどの化粧係のことを言っているのだろう、今回のことで彼女の中に成功例を作ってしまった。第三者からすれば面白くもない成功だ。
可愛らしい顔立ちの印象を崩すように薄笑いを浮かべる。
「邪魔な人がいたらぁ、消し放題ってことね」
鏡に映る自分の邪悪な表情を見て何も思わないのか、殊更に笑う。
ふふ、うふふふ。
しかし、その嗤いもすぐに止めた。鏡に自分以外の者が映っていることに気が付いたのだ。
勢いよく振り向くとそこには誰もおらず、舞台衣装が多数並んでいるだけだった。
誰もいない。自分の醜悪な内面は誰にも見られていない。
満島は安堵して息を吐き、再び鏡に向き直る。頬に冷や汗が垂れるのを感じた。
すると自分のすぐ後ろに女が立っているのを見る。
「ひぃ!」
満島の引き攣った口元から小さく細い悲鳴が漏れ出た。
背後に立つ女は何をするでもなく、ただそこに佇んでいる。
浅葱色の白丸襟のワンピースに白い手袋。頭には白い女優帽を目深に被り、辛うじて顎から下だけ見える程度だ。
誰かは分からないが、確かに自分の背後にいる。それも生きているかわからない存在がいるのだ。
満島は内にある勇気を振り絞り、顔を蒼くさせながら振り返る。
今度は背後にはっきりと立っていた。幸か不幸か、まるで生身の人間のようにくっきりと。
鏡には女優帽のせいで映っていなかったが、椅子に座っていた満島からは女の顔が見えてしまった。満島の心臓はどくどくと高鳴る。
「あぁ……あな、あなた……」
その顔立ちには見覚えがあった。まだこの控え室にも貼られているあの顔だ。
満島はわなわなと強張る口で恐る恐るその名を口にした。
「あ、浅山……千幸?」
満島から名前を呼ばれ、女はにっこりと微笑む。
その微笑みに釣られてか、満島もぎこちなく口角を上げる。普段の計算された笑顔とは大違いだ。
浅山と呼ばれた女は歪な表情を浮かべる満島の両肩を掴み、顔をぐいと近づける。美しく整った貌がすぐ触れられる距離まで近づく。
老若男女問わず惹きつける美貌、こんな状況でなければ惚けていられたかもしれない。
しかし、すぐにその美しさは崩れ去った。
僅かに開いた口から黒い泥のような液体が垂れたかと思えば、どこからかシュウシュウと焼ける音。
次第に口からではなく顎や喉、首からも黒い泥が漏れ出る。その漏れ出た黒い泥は浅山の浅葱色のワンピースにも垂れ、音を立てて焦がした。
黒い泥が流れ出たあとの身体からは赤黒い液体が絶え間なく流れ出し、彼女の呼吸に合わせてごぽっと膨らんで弾けた。
こんな有り様でも浅山らしき者の目元は澄ましたまま、射貫くように満島を見つめる。その視線はまるで何かを伝えるようとしていた。
一方で満島はこんなものを目の前で見せられ、声も息もできないほど怯えている。しかし、惹きつけられたかのように目を逸らせない。
そうこうしているうちにも、目の前の泥は広がっていく。今や浅葱色など見る影もなく赤黒く染まってしまった。
口から下が原型すら留めず、身体が内側から黒く溶けていく。まさに悍ましい様相だ。
そんなものを至近距離で見続けてしまった満島は、蒼白した表情で演技ではない悲鳴を上げる。
「きゃああぁぁ!!」
満島の悲鳴を聞き、すぐに蒲笈が飛び込んできた。
「何があった!」
蒲笈は零れそうなほど開かれた目をした満島を見て、懸命呼び掛ける。
「しおりちゃん、しおりちゃん。大丈夫かい?」
蒲笈の呼び掛けがようやく届いたのか、はっとした表情の満島は周囲を警戒するように見渡す。見えるのは蒲笈と遅れて入ってきた裏方数名のみ。
あの悍ましい様相を見せつけた浅山らしき者は影もなく、すっかり消え失せていた。
「き、消えた……?」
「しおりちゃん、何があったんだい?」
縮こまって震える満島の肩を抱き、顔を覗き込む。
華奢な指で自身の頬をなぞり、ゆっくりと蒲笈を見つめる。
自分を守ってくれる人が来た安堵からか、自然と涙まで溢れてきた。
そして、泣きじゃくりながらこう訴える。
「あの女が……浅山千幸が……しおりを殺しに来たのぉ!」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
昼下がりの桝谷探偵事務所。
昼食のお茶漬けを流し込んだ私は、郵便受けの前に立ち顎に手を当てている。
「ふむ。想定の内と外の間、と言ったところだね」
思わずそう呟いてしまう。原因は私が握っている一通のはがきにある。
はがきには宛名も差出人も書かれておらず、郵便の印鑑や切手すらついていない。
ただ真っ白なはがきに片仮名で以下のような文が走り書きされていた。
『アサヤマ チユキ ノ シ ニハ ガマオイシ ガ カカワッテイル』
これを読み、私は顎をさする。
私の想定内だったのは、今日の内に事件に関する連絡が届くこと。
想定外だったのは、匿名ではがきを事務所に直接投函してきたこと。
さらに深く考える為、再び事務所へ戻ろう。ここは熟考するには向かないのだから。
机に向かい、改めてはがきの文面をまじまじと見返す。
黒いインクで書かれた一文を改めて書き起こすなら、このようになるだろう。
『浅山 千幸 の 死 には 蒲笈氏 が 関わっている』
と、手帳の空いた箇所に書き綴った。
改めて読むとよく分かるが、何ともあやふやな言葉だ。
犯人だ、とか、原因だ、とか。そういう文言は使われていない。浅山千幸の『死』だと明記させているにも関わらず、だ。
その上、人物に関しても曖昧な部分もある。
『浅山千幸』の方は姓名どちらも明記され、特定の個人として書かれているだろう。
だが、『蒲笈氏』に関しては姓のみで個人を特定するものではない。書かずとも彼が浮かぶのを見越し、あえて書いていないのか。
あるいはこの一件は共犯者がいるのだろうか。あるいは―――。
ボーン、ボーン、ボーン。
思考を妨げるように、三度の鐘の音が現在時刻を知らせる。針は午後三時、十五時を指していた。
万年筆を置き、おやつのお菓子をと立ち上がる。
推理には適切な糖分が必要なのだ。高名な先人たちも頷いてくれることだろう。
今日は私以外には事務所に誰もいない、よって特別なお茶請けを出しても良いのだ。
弾んだ足取りで狭い台所へ行き、片手間でお湯を沸かす。火をつけてすぐに視線は戸棚の右上へ移る。
徹はああ言っていたが、隠し場所が見つかっていたからと言って悪さはされないだろう。優美子が同じ歳の頃に比べれば分別のある子なのだから。
戸棚を開け、中に入れている竹籠を取り出す。
ここで私は違和感を覚える。明らかに軽いのだ。
即座に竹籠の中を見ると、入れていたお菓子が確実に減っている。よくよく見れば、子供が好みそうな甘い味のものばかり食べられているようだ。
残っているのは老舗の煎餅やおかき、饅頭の類い。なぜか混ざっている寒天ゼリー。そういうものが無造作に残されている。
入れていたはずの羊羹やバタークッキーなどが消え、飴玉などは空の容器だけが残されていた。
犯人はもちろん分かっているが、怒るまでもない。
見ず知らずの他人に食べられたのならまだしも、相手が姪と甥なのだから。
それに、ここに置いてあったのは依頼人からご厚意でいただいた物たちだ。私が食べたくて買った高級なものは別の場所に隠してあり、それさえ手を付けられていなければいいだろう。
私は黒糖饅頭を皿にのせ、湧いたお湯を急須に注ぐ。
急須と湯呑み、茶請けをお盆に載せて机へ運ぶ。辺りに茶葉の良い香りが漂い、食欲を刺激する。
さぁお茶を淹れよう、と急須に手を当てたところで邪魔が入った。机の電話がけたたましく鳴り響いたのだ。
仕方がない。出てやろうじゃあないか。
「はい、桝谷探偵事務所」
電話の向こうからは賑やかな音が聞こえ、時折誰かが大声で指示を出しているのも聞こえてくる。呼び出し人はすぐに喋った。
「やぁ、起きていたか。もう昼過ぎだぞ」
まるで人を不規則な生活を続けている自堕落人間とでも言うような物言い、間違いない。晴雄だ。
私のおやつを邪魔した上にこの物言い、たまには意地の悪いことを言ってやろう。
「失礼な電話だな、切ってしまおうか」
「いやちょっと待つんだ、切らないでくれ!俺だ、田立晴雄だ!」
先ほどののんびりした抑揚はどこへやら。私が切ろうとしただけでこの慌てようだ。
電話の向こうで切らせまい必死に説得する姿を想像してしまい、思わず吹き出してしまう。
「わかっているとも。そしてその様子から察するに、おそらく君の後ろには電話を使いたがっている人がいるのだろう?」
「そこまでお見通しとは……まぁ、いいか。そんなことより君のところにも届いていただろう、あのはがきが」
なんだ、晴雄にもはがきが届いていたのか。正しくは警視庁にも、と言ったところか。
「あぁ、今それについて考えていたところだ。何やら物騒なことが書かれているね」
「蒲笈氏が関わっている、という部分だな。これがもし事実なら、事件解決なんだが……」
そんな単純なことがあるだろうか。いや、今回の事件は当てはまらないだろう。
私の考えが確かであれば、だが。
いつになく弱気なことを言う親友に、激励も兼ねて言葉を投げる。
「私の知る田立晴雄はそんな愚鈍なことはしない、と思っているがね」
「無論その通りだとも!何より、誰からの告発かもわからないのだから」
どことなく誇らしげに言っているように聞こえるのは、おそらく気のせいではないだろう。まったく素直な男だ。
「おっと、そうだった。部下からの報告に気になるものがあったんだ」
「ほう。好奇心の塊とも言える君が気になるものか、頼むから一つに絞ってくれよ」
そう返答しつつ、私は急須にそっと手を添える。まだぬるい。
「まぁまぁ、そう言わずに。とは言え、こちらもあまり悠長に話してやれない。仕方ないから一つだけ教えてやろう」
少し間を置いて晴雄は語り出した。
なんでも、蒲笈氏の劇団に主演女優として新しく呼ばれた役者、満島しおりが酷く動揺した様子で控え室にいたそうだ。
彼女の悲鳴を聞きつけて駆け付けた者たちに対し、満島しおりは耳を疑うことを告げたのだと。
『浅山千幸が満島しおりを殺そうとしている』
そう伝えた時の晴雄は、声を低く落としていた。周囲に人が多い状態で、あまり大声で言うものではないからだろう。
晴雄の話を一通り聞いた後、事務所で一人きりの私は変わらない声量で話す。
「ふむ、つまり彼女の言い分は……死人に殺される。ということだね?」
「そういうことだ。生前に顔見知りだった訳でも、ましてや直接話したこともないそうだ」
そんな赤の他人を殺そうとするだろうか。それも非業の死を遂げた翌日に。
「全く信じ難いことだ」
「俺も真に受けてはいないが、彼女が恐怖する姿を見た関係者らや報告を受けた警察の者は嘘を吐いているようには見えないと言うんだ」
「ふむ。では本当に嘘を吐いていない、と仮定しておこうか」
しかしそうなると、浅山千幸が満島しおりを殺すために現れるということになる。
なんとも現実味のない殺人予告だろう。
「だがまぁ、こんな状況でも新しい公演をするっていうから、蒲笈氏の熱意は凄まじいな」
「ほう。もしやあの劇場で行うのかね?」
主演を失った劇団など見るに堪えないだろうに。
「あぁ、第二劇場が無事だから決行するらしい。と言っても、人が集まるかどうか……」
「私には判断しかねる。観客を買ってでもかき集めるような人だろうから」
事実、著名人には公演初日に招いては庶民の気を引かせている。
話題の人も見に来た演劇、というだけで十分な宣伝になるのだから。
「しかしだ、浅山千幸の一件が解決していない以上、同じことが起こるかわからない。しばらくは監視が必要かもしれないな」
「ふむ、確かに監視の目は必要だろう。次の犠牲者が出ないことを願うよ」
「おいおい、君まで物騒なことを言うなよ」
「私の考えが確かであれば、だがね」
「またそれか。君がそう言う時は大抵当たるじゃあないか」
すると、電話の向こうからわざとらしい咳払いが聞こえた。
私ではなく晴雄に向けての主張だろう。いい加減電話を終わらせろ、そう訴えているようだ。
「ではまた、何かあれば連絡を」
ほぼ強制的に晴雄からの電話は切られた。電話の数が限られている以上、階級による上下関係は無視されるのだろう。
これでようやくおやつの時間だ。
時計は十五時半、全く時間が経つのはあっという間だ。冷め切ったお茶と最高のお茶請けを前にして、小さい息が出る。
しかし、緑茶というのは冷めても美味しいから良しとしようか。今日は暖かい日和だ。
湯呑みにお茶を注ぎ、一口飲む。
すっかり冷めたが清涼感のある茶葉の風味が濃く出ている。
これはこれで美味しいものだ。独特な甘さの黒糖ともよく合う。
それにしても、まさか死者からの殺害予告とは。
探偵業を始めて幾度か殺人事件には関わったものの、死者が予告したのは今回が初めてのことだ。
特に今回のように、他人同士の事例は他でも聞いたことがない。
もう一つ信じ難いとすれば、火災事故から間もなく同じ劇場で公演しようとしていることだろう。一体何を考えているのだろうか。
このことは劇団関係者から聞きたいところだが、一介の探偵に易々と話してくれるだろうか。考えても仕方のないことだ。
やはり私の方でも情報を集めた方が良さそうだ。できるだけ早い方がいいのだが―――。
いや、今日はもう外出するには遅い、劇場へは明日向かうとしよう。今出かけたら着く頃には夜になってしまう。
私は冷めたお茶を飲み干した。
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