二日目
蒲笈率いる劇団に満島しおりが参入した翌日。
昨日までに比べれば警察の数も減り、出入りする人も劇場の関係者がほとんどとなった。というのも、数名だけ警備の為に残して他の者は本庁へと戻ったのだ。
しかし、劇場は相変わらずの慌ただしさがあった。
劇場の係員は第一劇場の清掃や電話対応などに追われ、劇団員たちは新しい演目に向けた練習と衣装や道具などの制作に追われているのだ。
それもこれも、全ては蒲笈円玄がしでかしたことなのだが、当の本人はまだ来ていない。
斉木曰く、昨夜遅くまで飲み歩いていたからと午後から出勤するのだと。
彼に振り回されることに慣れてしまったのか、ほぼ全員がこの忙しさを受け入れてしまっている。この場は悪循環で機能していた。
特に無理難題を投げられたのは舞台に立つ役者だろう。
本来なら一ヵ月程かけて練習して作り上げていくものを、たった二週間で完成させなければならない。まさに一刻の猶予もないのだ。
一通り台本を読み終えたということで、主要人物の役になっている劇団員らが第二劇場に五人が集まっていた。
誰からも愛される令嬢役、満島。令嬢の許嫁であり幼馴染の令息役、
令嬢に一目惚れした若き社長役、
そして、若き社長の婚約者役の
まずは始まりの場面。朝寝坊していた令嬢が侍女に起こされ、慌てて準備して登校するところだ。
最初の台詞は侍女役である小野から始まる。
「お嬢様、起きてくださいませ!このままでは遅刻してしまいます!」
「ふわぁ。まだ寝ていたいのよぉ」
「いけません!立派な淑女になる為、しっかりと勉学に励むようにと旦那様が……!」
「もう。お父様ったら、心配性なんだからぁ」
満島が台詞を読み終えた後、少し間が空いた。
小野が台詞を忘れたとかではなく、理由があって台詞読みを中断しているのだ。
「ちょっと、次の台詞早く言ってよぉ」
不満そうに口を尖らせて小野に文句を言うが、反論の声は別の者から上がった。
「満島さん、もっときちんと役を演じてください。お転婆な令嬢とはいえ、そんな腑抜けではありませんよ」
と、厳しい口調で告げたのは佐々木だ。
演劇に対して真摯に取り組む彼女にとって、満島の演技は許せなかったのだろう。
外見が可愛らしいというだけで役を与えられたことも相まって、内なる不満が弾けた様子だ。
「だからぁ、しおりはちゃあんと演じてるじゃん。寝起きではきはき喋る女の子とかぁ、どこにもいないでしょ?」
「ですが、弛みきっただらしのない話し方はしていない筈です。きちんと台本を読んでいない証拠では?」
佐々木から痛いところを突かれたのか、満島は顔を真っ赤にして反発する。
「いぃっぱい読んだもん!しおりのこと何も知らないくせに、文句言わないでよ!!」
「確かにあなたの事は何も知りませんけど、このままでは主役として登壇させられません。監督に配役の変更を頼まなくては」
「そんなことない!私の演技は完璧なんだもん!!」
「いいえ、あなたの演技からは何も感じ取れません。先ほどの演技からは令嬢の魅力が一つも伝わりませんでした」
両者一歩も譲らず、互いに自分の意見を貫き通そうとする。
言い合いを始めた二人を止めるべきなのか、しかし誰が……。と、残る三人は顔を見合わせては居心地悪そうにしている。
満島と佐々木が今にも爆発しそうな雰囲気の中、第二劇場の扉が開かれた。
そこにいたのはラフな格好をした蒲笈だ。
「そんなに騒いでどうしたの。ちゃんと練習してくれないと困るよ」
と、欠伸混じりに言いつつ二人の言い合いに乱入してきた。
どことなく酒の匂いを漂わせながら遅刻してきては、練習中のところへ茶々を入れに来たのだ。
「満島さんが真剣に練習してくれないんです。監督からも厳しく言ってください!」
「違うもん!しおりはちゃあんとやってたのに、この人が文句言ってるだけだもん!」
そう言って満島は頬を膨らませ、佐々木を指差す。
指を差された佐々木は満島を鋭い目で睨み、満島の言葉を訂正する。
「いいえ、違います!満島さんが役に向き合わず、ただ台詞を読んでいたから注意したんです!私は―――!」
「はいはい、じゃあしおりちゃんは控え室で僕と個人練習しようか。その間に君たちは合わせられるところだけでもやっといて」
佐々木の言葉を制止するように、蒲笈はその場にいる劇団員らに向けて指示を出す。
それから満島の腰に手を回して自分の方へ引き寄せる。
「きゃっ」
小さく悲鳴を上げるも、その顔はまんざらでもない様子だ。
台本を持っていない手で蒲笈の胸元に手を添え、佐々木に勝ち誇ったような顔を向けている。
挑発的な満島を見て腸が煮えくり返る思いの佐々木だが、言葉には出さずに歯を食いしばった。それでもなお、満島は余裕のある表情をしている。
満島と佐々木の間に険悪な空気が流れているにも関わらず、蒲笈はまるで何事もなかったかのように大きな欠伸をした。
眠そうな顔のまま佐々木を含めて四人に向けて指示を出す。
「そういうことだから、ちゃんとやってよね」
蒲笈は投げやりな物言いをして、満島と共に第二劇場を後にした。
重い沈黙の中、最初に口を開いたのは名瀬だ。
「色々言いたいことは各々あるかもしれないが、今は練習しよう。主役が出ない場面だけでも合わせておいて、あとは個人練でどうにか間に合わせよう」
彼の言葉に、一同は不服そうな顔をしながらも深く頷いた。
満島の態度や蒲笈の言動に不満しかない彼らだが、今は文句を言う時間すら惜しいのだ。
劇団員との間にできた溝がさらに深くなったにも関わらず、それに気づこうとはしない蒲笈。
今の彼は満島との関係性をどう親密にしていくか、それだけだ。
長い廊下を抜け、満島の控え室へたどり着く。
蒲笈は控え室の扉を開けて先に満島を通し、そのすぐ後ろから控室に入った。後ろ手で扉を閉めつつ、大きな音が鳴らないように静かに鍵をかける。
だが、控え室に入った瞬間、満島の関心は蒲笈から離れてしまった。
「わぁ!くまさぁん、可愛い!」
そう言って控え室の化粧台へ向かって駆け出す満島。
彼女が大はしゃぎで抱え上げたのは、子供が喜びそうな大きめのくまのぬいぐるみだった。
余程気に入ったのかぬいぐるみの脇を両手で抱え、くるくると回っている。
満島が抱えるぬいぐるみを怪訝な顔で見る蒲笈。
「ふぅん、ぬいぐるみねぇ。誰が置いたんだろう」
「きっとぉ、しおりのファンが贈ってくれたんですよぉ」
と、上機嫌で言いながらぬいぐるみの手を握り、蒲笈に向けて振ってみせた。
「そうかな。でも僕は何も聞いてないよ」
無邪気な満島の頭を軽く撫でながら、蒲笈が呟く。
ぬいぐるみと戯れる満島には興味ないらしく、控え室を何とはなしに眺めだした。
蒲笈が見ていなくとも、変わらず猫撫で声で可愛い子ぶる満島。
「きっと蒲笈さんに伝えるのが遅い人がいるんですよぉ。こぉんな可愛いくまさんなのに!」
ご機嫌なまま満島はぬいぐるみを勢いよく抱き締める。
「痛ぁい!」
そう叫んだかと思えば、すぐに自分からぬいぐるみを引き離した。
満島の表情からは明るさが消え、その顔には畏怖の色が浮かんでいた。
「どうしたんだい?」
気味悪そうにぬいぐるみを見つめる満島に尋ねる。
「なんかぁ、チクってしたんです」
「ただのぬいぐるみだろう?刺さるようなものがあるわけ……」
蒲笈がぬいぐるみの腹部を触ると、確かに硬い感触があった。
彼女が言ったように鋭い部分も指先で感じ取れる。
「なんだ、これ」
彼がぬいぐるみの腹部をつねって中身を確認するも、小さくて硬いものがたくさん詰められていることしかわからない。
その一方で満島はぬいぐるみから距離を取る為に、蒲笈を盾にするように背後へ回る。先ほどまで可愛がっていたのが嘘のようだ。
「こわぁい」
口元に手を添え、大きい瞳を瞬かせた。
後ろにいる満島をちらりと見やり、蒲笈は思い切った提案をする。
「しおりちゃん。このぬいぐるみ、切ってもいいかい?」
「えぇ!?……うぅ、いいよぉ。なんか気持ち悪いもん」
「新しいのを買ってあげるから、ファンからのは諦めてくれ」
そう言いながら引き出しから裁ちばさみを取り出し、ぬいぐるみの腹部を引っ張りながら切り裂く。
耳に残る嫌な音の後、聞こえたのは錆びついた金属が擦れる音だ。
しかし、肝心の音の正体はまだ現れていない。布一枚切った先には綿が薄く詰められていた為だ。
蒲笈は意を決し覆われていた綿を剥がすと、大小様々なネジが転がり溢れてきた。
「あわわ、何かぁ落ちちゃったみたいです」
足元に転がるネジを気味悪そうに避けながら、満島は呟く。その手はしっかりと蒲笈のシャツを握っていた。
蒲笈は落ちたネジを慎重に拾い上げ、まじまじと見つめる。
大きさに違いはあれど錆が目立ち、使い物にならないものばかりだ。
初めからぬいぐるみの腹部に入れられるモノではないことから、何者かが満島を害しようと意図して詰め込んだと思われる。実際、満島に針先程度の傷を負わせた。
異様なぬいぐるみから一歩引き、訝しそうに見つめる。
「なんだこれ……」
予想外のものを前にし、それしか言葉が出てこなかった。
そして強張った表情で持っていたぬいぐるみを化粧台へ静かに置く。開いた腹部からネジが散らばらないようにするためだ。
彼の後ろから覗き見るように様子を窺っていた満島は、甲高い声で短く呟いた。
「しおりぃ、こわぁい……」
大きな瞳を潤ませ、身を震わせる。
「大丈夫、しおりちゃんのことは僕が守ってあげるから」
そう言って強く抱きしめた。
どこかで聞いたような歯の浮く言葉だが、本人は至って真剣な様子だ。
蒲笈は満島を守ることができるのか。
先日の一件から答えは既に出ているが、何も知らない満島は彼の腕に包まれて微笑んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
人が行き交う大通りの喧騒の中。私は件の劇場前に立っている。
二日前にも来た場所ではあるが、その時と比べて明らかに人通りが少ない。
時折警察や劇場関係者が出入りしているようだが、多くて一度に三人程度。
私がここに着いてからは合計して両手で足りるくらいの出入りしかない。一昨日の人混みとはえらい違いだ。
とは言え、これは必然だろう。
事故か事件か定かではないにしても、人が死んだのだ。むやみやたらと近づくものはいないのだろう。
もしここに来るとすれば、生前の彼女と関わりがあった者。あるいは、彼女の死と関わりがあった者ぐらいであろうか。
そう、例えばあの男。私より少し前にある電柱から劇場の様子を窺っている、やや怪しげな男のことだ。
頻りに建物内を見ているが、見えるはずもなく。
このままでは警察に連行されかねない。話ができそうな関係者を逃すにはあまりにも惜しい。
ここは私から接触すべきだろう。
彼の肩を軽く叩き、選りすぐりの言葉を投げる。
「おや、あなたは……先日の舞台にいた男役の方では?」
声を掛けられた男は一瞬体を跳ねさせるも、返事はすぐに帰ってきた。
「は、はい。夕鶴のこと、ですよね。自分だと思います」
ふむ、気弱な返事にしてははっきりとした返答だ。
「ここで何を?噂では次の劇に向けて動き出してるとお聞きしましたが」
私の話を聞き、男は項垂れてしまった。
ふむ、あまりよろしくない状況にいるらしい。このように人の目が多い場所では話しづらい程度には。
では、こうするのはどうだろう。
「ここでは何ですから、その辺の喫茶店にでも入りませんか」
カランコロン。
軽快な鐘の音と共に我々は喫茶店へ入る。すぐに挽きたての珈琲の香ばしい香りに包まれた。
自分では淹れられないのであまり飲むことはないが、実際のところかなり好きだ。
家でも簡単に飲めるようになれば良いのだが。
程なくして、来店した我々に給仕が駆け寄ってきて、笑顔でお決まりの言葉を告げる。
「いらっしゃいませ。空いている御席へどうぞ」
「どうも」
短く返事をし、店内の端にある壁際の席へ向かった。これから彼と語るのは、あまり人に聞かせる話ではないだろう。
私の考えが確かであれば、だが。
それでも念のため、席に座る前に確認をしておかなければ。
「こちらの席で良いですか?」
「は、はい。どこでも構いません」
「ではそちらへどうぞ」
そう言って、店の入り口に背を向けて座れる席を示す。
男は小さく頷いて着席し、私は彼の向かい側の席に座る。
我々が席に着いたところで、給仕が注文を聞きに来た。
「ご注文はお決まりになりましたか?」
「あぁ、では珈琲を二つ頼もう。構いませんか?」
男の方を見ると、無言のまま深く頷いている。
「それでは、珈琲お二つですね。少々お待ちくださいませ」
注文を受け、給仕は一礼して足早に席から離れていった。
ここで私は改めて男を観察する。
顔立ちは目鼻立ちがはっきりとしているが、全体的に角張っている。一昨日の舞台を見ていなければ、体格も相まって無骨で硬派な男だという印象を受けたかもしれない。
服装にはあまり気を使っていないのか、古びたスーツと皺の目立つ灰色のシャツを着ていても何とも思っていない様子だ。ネクタイや時計などは持ってすらいないだろう。
そうした風貌に加え、目深にキャスケット帽を被っていたのだ。怪しまれて補導されない方が不自然とも言える。
ひとまず彼を観察するのはここで止めておこう。名前も知らぬ男にじろじろ見られるのは居心地が悪い。
まずは私が不審人物ではないということを示さねば。
「紹介遅れました。私、探偵の桝谷小太郎と申します」
そう言って懐から出した名刺を手渡す。
「これはどうも。すみません、名刺などなくて……」
私から受け取った名刺を両手で持ち軽く読んだ後、こちらを見て言う。
「自分は
「フトダ、イツキ。さんですね。よろしくお願いします」
そう言って私は手帳に彼の名を書き留める。
「はい。太い田んぼで太田、難しい方の『き』で樹です」
「ご丁寧にどうも」
書いているところを見ていたのか、名前の漢字を丁寧に教えてくれた。せっかくなので片仮名で書いた下に漢字でも書いておこう。
「さて、早速お話を伺っても良いですか?劇団員であるあなたがなぜ劇場を遠巻きに見ていたのか」
「見られていたんですね……だからこうして場所を移していただいたのでしょう」
太田は大きい体格を一層縮こまらせ、続きを語った。
「平たく言えば、休暇をいただいた。いえ、解雇されたとも言えるかもしれません」
悲し気な面持ちで太田が話したのは、昨日の出来事だ。
昨日の朝。あの事件の衝撃から立ち直れず、何も口にできず布団から起き上がるので精一杯だったそうだ。
苦渋の末、休みの電話を劇場支配人へしたのだが、その時は蒲笈に伝えて折り返す、と電話が切られてしまった。
改めて掛かってきた電話では蒲笈が相手で、太田は自分の状態を一から説明。
彼の話を聞いた蒲笈は『あぁ、いいよ。気が済むまで休んで。ていうか、もう来なくていいから』と、一方的に言い放って電話を切ったらしい。
噂に違わぬ身勝手さ。いくら彼の演技が人並みだからと言って、簡単に切っていいわけがない。
名ばかりの監督というのは事実なようだ。
一つ目の質問に答えてもらったところで、深みのある温かな香りが鼻をくすぐる。給仕が珈琲を運んできたのだ。
慣れた手付きで私と太田の前に珈琲を置き、砂糖とミルクを添えてから一歩後ろに下がる。
「ごゆっくりどうぞ」
丁寧な一礼の後、すぐにその場を立ち去った。
給仕がいなくなったところで、太田が周囲を気にしながらも口を開く。
「ところで……探偵さんはどこまでご存じなんですか?その、あの事故について」
淹れたての珈琲の香りを堪能しているのを邪魔されたのは癪だが、それは片隅にでも放っておこう。初対面の相手に余計なことを言ってはいけない。
「そうですね。運悪くその場に居合わせてしまっただけで、あまり詳しくは知らないのですよ」
事実、私がいた座席からでは落下した瞬間は見ていたものの、その後に舞台上で起こったことは分からない。逃げることで精一杯だったのだ。
できればその辺りを当事者の口から聞きたい。
「実は、あの大型照明が彼女に落下した後。彼女、浅山千幸は生きていたんです」
「ほぅ」
不謹慎に思われるかもしれないが、興味深い。
「落下した直後は動いていなかった体が、しばらくしたら微かに動くようになっていて……うつ伏せで
と、話している内に太田の肩が次第に下がっていった。
あの時のことを思い出しているのだろう、顔は蒼く目が泳いでいる。
それでも話すことを止めないのは、彼なりの罪滅ぼしのつもりなのだろうか。
「その時、自分は……情けないことに腰が抜けて動けませんでした。目の前で劇団の仲間が死にかけているのに。手を伸ばすこともできなかった。本当に情けない」
そう言って太田は握った拳で自分の膝を叩きつける。
「お察しします。さぞ悔しい思いをされたことでしょう」
この程度の言葉では何の慰めにもならないだろうが、何も言わないよりはいいだろう。
しかしそれでも、太田には効果があったようだ。
あの時のことを思い出したのか、涙を堪えようと顔を赤くして微かに震えている。
彼が落ち着くまでは話を進められそうもない。私は珈琲を一口だけ飲むことにした。
口に含んだ珈琲は香りに偽りなく、深みのある渋みが喉を潤す。
喉が渇いていたわけではないが、続けてもう一口飲んだ。美味しい。
私が珈琲を堪能している間にいくらか落ち着けたのか、目元に赤みが残っているものの静かに珈琲を飲んでいる。
それから渋い顔でカップを置き、私の方を真っすぐに見た。
「それで、探偵さんは何を知りたいんですか?はお話しましょう」
「いえ、どんなに些細な情報でも助かります」
私は手に持っていたカップを置き、手帳と万年筆を手に取る。
「それではまず、浅山さんが倒れた後に舞台上で起こった火災について。あの時、腰が抜けていた上に、最も火元から近かった。にも関わらずあなたは無傷ですね。どうやって避難したのですか?」
「警察の方にも話したことですが、腰が抜けて動けなかったところを駆け付けた大道具担当の人が運んでくれたんです」
そうして、申し訳なさそうに項垂れながら話を続けた。
「自分が運ばれていた時でした。ちょうど舞台袖に差し掛かったあたりで、観客席から悲鳴が上がったのを覚えています。あの時に火が上がったんだと思いますが……」
「どうされました?」
「いや、肝心な時に何もできなかったのが不甲斐なくて。まだ上手く消化しきれていないようです」
彼は性根が真面目なのだろう、自分が助かったことをここまで萎縮するほどだ。
「仕方ありませんよ。すぐに立ち直る必要もありませんし、あまりにも辛い思いをするのなら忘れてしまってもいいのでは?」
「それは……そうかもしれませんが、自分は器用な人間ではないのです。この後悔を忘れてしまうと、また同じように目の前で誰かが亡くなってしまう。それだけは避けたいんです」
落ち込んだ表情とは反対に、力強い抑揚で語った。
確かに彼の言葉も正しい。しかしそれは、他人の死を背負える者が考えるべきことだ。
それができないのであれば、はじめからある程度で区切りをつける。その方が苦しまずに済むだろう、と私は思う。
とはいえ、それを意見できるほどの親しい間柄ではない。余計なことは言わずにおくべきだろう。
しばらく沈黙が流れた後、先に口火を切ったのは太田からだ。
「話が反れましたね、すみません。そうしてその場にいた自分含めて五人くらいの劇団員でどこへ逃げるか、どうやって観客たちを逃がすかの話し合いをしまして……と言っても、自分は震えるばかりで何も言えなかったのですが」
「ふむ。その話し合い最中に火災の影響はありませんでしたか?」
「えぇ、煙が少しありましたが、換気扇が回っていたのであまり苦しくはありませんでした。火も緞帳にだけ広がってましたし、あまり長居もしませんでしたから」
なるほど。彼の証言が正しいとすれば、この火災までが浅山を殺害する計画に含まれていたのだろう。
「それで観客の避難誘導まで時間がかかってしまったのですね」
「はい。観客の皆さんは大混乱だったようでしたが、支配人が上手く指示を出してくれたので誰も負傷することなく……」
「支配人、ですか。あの建物の所有者は監督である蒲笈氏だと聞いてますが。現場の指示はされなかったのですか?」
「確かに所有しているのは監督ですが、業務は全て支配人の斉木さんに任せっきりなんですよ。今回の事故だって照明が落ちてすぐに逃げだしたとか」
眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように語った。よほど蒲笈のことが気に入らないのだろう。
蒲笈に対して思うところがあるのか、太田は不満気な表情で話し続ける。
「そもそも、自分ら役者や劇場の従業員をただの道具だと思っているような男ですからね。欠ければ補充すればいい、どんな人でも替えは利くってよく言ってますから」
「随分な物言いをする方なんですね」
「あの浅山さんにもそんなことを考えていたんですから」
ほう、それは興味深いものだ。
稀代の天才女優ですら替えがいると思えるのは、ある意味で才能かもしれない。
ここは掘り下げて聞いておくべきだろう。
「なるほど、その事はどれくらいの人が知っていますか?」
「たぶん劇団員全員は知ってると思いますよ。あぁ、ただ浅山さん自身はそうは思っていなかったようですが」
そう言って、太田は私に顔を寄せつつ声を落として話を続けた。
「浅山さん、あの男に惚れてたみたいで……そこを利用して彼女を独占して懐を潤わせて豪遊、劇団に縛り付ける為に浅山さんをやたら褒めたりお世辞を言ったりしてました」
「ふむ。ちなみに浅山さんは蒲笈氏が『役者は道具』だと言っていたのを知っているのでしょうか」
これは知らなくてもおかしくはないが、聞き出せるのなら欲しい情報だ。
少し考えた後、太田は目をパッと開いて答える。
「あ、そういえば浅山さんの前では『役者は道具』なんて言ってませんでしたね」
「悪い表現というのは理解している、でも自分の中では間違ってないから使う相手を選んでいる。と言った感じですかね」
「そうなんです!それが原因で追い込まれた役者仲間もいるくらいで……」
そう言って深く頷く太田。話している内に緊張が解けたのか、話しに動きを交えるようになった。
「直接は関係ありませんが、自分もそうなりそうなので……はは」
「先ほど仰っていた休養の件ですね。いくら何でも不当なのでは?」
「いやまぁ、そうなんですが。自分のような大根役者を長く在籍させてもらえただけでも御の字ですよ」
と、俯きがちに語る。
私からすれば彼は山奥に住む無骨な猟師役より、段々と怪しげな要求をしてくる料理店に迷い込んだ兵士役が適任だろう。
しかし、演劇に携わったこともないのに提案するのは無礼というもの。
余計なことは言わず、当たり障りのないことを言うのが吉だ。
「そんなことありませんよ。きっと太田さん自身が得意な演技を見つけられれば、それが大きな強みになるはずですから」
「そうですよね。もう少し……あの劇団で頑張ってみようと思います」
「応援してます」
ここで劇団を移るという発想がないところを見るに、愚直な人なのかもしれない。
友人なら助言の一つでもしたが、ただの他人からの口出しは毒にしかならないだろう。健闘を祈るばかりだ。
太田は大きく息を吐き、改めて私の方へ向き直り言った。
「自分が知っていることはこのくらいだと思います。お役に立てたかわかりませんが……」
「いえ、助かりました。ご協力ありがとうございます」
私が礼を述べると、太田は照れくさそうに鼻をかいた。
今回の事件の場合、生き証人がいるだけでも十分な証拠だと言えるのだが、そこまで状況を把握していないだろう。
それら全てを知る必要もないであろうから、あえて伝えはしないが。
私は残っていた珈琲を飲みながら、彼から聞き出した情報をまとめる。
記憶が鮮明な内に書き残しておかねば、数日後の私が困ることになるだろう。
まず、浅山の死因についてだ。
太田の証言によれば、死因は頭に強い衝撃を受けたからではない。火災による焼死、あるいは一酸化炭素中毒か窒息によるものだと考えるのが妥当だろう。
それから、舞台で起こった火災について。
太田の話を聞いて確信したが、やはり何者かによって引き起こされた火災だったらしい。
でなければ目の前にいる彼は今頃病院、あるいはこの世にいなかったかもしれない。
中でも気掛かりなのはやはり蒲笈の行動だろうか。
あのはがきにあった通り、今回の事件に関与しているからすぐさま逃げ出したのか。あるいはただの小心者だったのか。
太田の証言を聞く限り、我が身可愛さに逃げ出した可能性も高い。だがそう思われることも含めた計画である可能性も捨てきれない。
彼については慎重に探らなければならないだろう。支配人の斉木という人物についても調べなくては。
さて、現状ではこの程度か。全くもって上々な調査だと言える。
最も正確なのは現場検証を行った晴雄からの情報だろうが、すぐに聞き出すことは難しい。今はあちらも慌ただしいに違いない。
こちらでできることは早めに済ませておいた方が良さそうだ。
私の考えが確かであれば、だが。
ふと視線を感じて顔を上げると、太田が申し訳なさそうにこちらの様子を窺っていた。何やら言い出しにくいことがある様子だ。
「どうかされましたか?」
「あのう、ここのお勘定はどうしましょうか」
「あぁ、ここは私が出しますよ。連れてきたのは私ですし、取材に応じて頂いたのですから」
私の返答を聞き、太田はあからさまに安堵の表情を浮かべた。
「そうですか、いやぁ、助かります……ここだけの話、役者とはいえ薄給なもので」
「いえいえ、お気になさらず」
失礼は承知なのだが、あまりにも予想通りすぎて彼が心配になる。
悪い噂しか聞かない男の下で働かされていたのだ、不当な給金であっても不思議ではない。
彼が売れない役者というより、雇い主がろくでもないことが原因だろう。
「もう出ましょうか。貴重なお話をありがとうございました」
「はい、こんな私でもお役に立てたなら何よりです」
などと語らいながら店の入り口へ向かう。
会計を済ませ、二人して喫茶店を出た。
ふいに夕暮れの涼しい風が頬を撫でる。もう日暮れが近づいているのか。
隣でぼんやりと立っている太田に向き直り、一声掛ける。
「では、何かあれば名刺の住所まで」
「はい。まぁ、今日以上のお話はできそうにありませんから、お訪ねすることもないでしょう」
寂しそうに呟き、キャスケット帽を深く被り直して去っていく。
さて、さっさと帰って情報をまとめるとしよう。特に太田から得た証言の数々は、今後の推理で重要になるはずだ。
私の考えが確かであれば、だが。
一方その頃、桝谷探偵事務所の入り口では薫と徹が並んで立っていた。玄関に貼られた紙を凝視しているのだ。
紙には『外出中につき、対応不可。帰宅時間未定』と書かれており、端の方に桝谷の名前が書かれている。
書かれている文章を二周くらい読んだ後、双子たちはお互いに顔を寄せた。
先に口を開いたのは薫だ。
「外出ですって、あの先生が」
「信じられないけど、事実みたいだね」
誰が聞いているわけでもないのに、二人揃ってひそひそ話をするように声を落としている。
もしこの場に桝谷がいれば図星を突かれたように身を竦ませたかもしれない。ぼそぼそした声で文句を言うかもしれない。
しかし、実際には双子たちしかいない。今だけは二人の言いたい放題な状況なのだ。
徹が考える仕草をしながら呟く。
「先生がここまで動いているということは、今回は相当大きな事件なのかもしれないね」
その言葉にハッとした表情をして、薫が語る。
「もしかして……また誰か亡くなってしまうのかしら」
「そうと決まったわけじゃなさそうだけど、可能性はあるよね」
徹の達観した物言いに、薫が不安気な表情を浮かべた。
「そうなってしまう前に何かできれば良いのだけれど……」
博愛の思想が強い薫だからこその悩みだろう。
心優しい片割れが思い詰めているのを、優しく宥める。
「大丈夫、だからこそ父様がいる。先生だっているんだよ」
「徹……」
「明日は助手として、色々聞かなくちゃね」
そう言って軽く微笑む。微かに悪戯心が感じ取れる笑みだ。
「……えぇ、たくさん聞かせてもらいましょ!」
薫もにっと笑って見せた。こちらもどこか企んでいるような雰囲気がある。
事務所に背を向け、双子たちは自分らの家へ向けて歩き出す。
扉に貼られた紙がビタビタと吹かれる音だけがそこに残った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます