不条理劇の探偵

柊 撫子

開演

 一九六○年 、夏。

大戦後の日ノ本は徐々に平穏さを取り戻しつつあり、国民の思想は段々と豊かになりつつあった。心穏やかに自らの欲を求められるようになった人々の意識は、ありとあらゆる娯楽へ向けられていたのである。

 特に国民の目を集めたのは、煌びやかな舞台に立って全身にスポットライトを浴びる舞台女優だった。

 忙しなく行き交う人の波と自動車のクラクション、雑踏から少し離れた所では人を呼び込む為の声が聞こえてくる。都会の喧騒に負けんばかりによく通る大きな声は、足早に進む人々にこう伝えていた。

「紳士淑女の皆々様!舞台に咲く大輪の花、浅山千幸!浅山千幸の輝かしい舞台がこれより入場開始と相成ります!!」

その声が二度も繰り返した『浅山 千幸』という名前を聞き、通り過ぎようとしていた人々が劇場の前で足をピタリと止めた。

そして、立ち止まった人々は客寄せの男を囲むように集まり、真剣な眼差しで彼の言葉が続けられるのを待ち始めたのである。

 浅山あさやま 千幸ちゆき、産まれながらに千の幸を授かった女として人々に根強く愛される大人気の舞台女優である。

墨を溶かした様に艶のある黒髪を緩やかに巻き、端正な顔立ちに物憂げな瞳は見る者全てを魅了した。その美しくも儚い風貌もさることながら、彼女の類稀なる演技力に観客は涙ぐむも笑うも自制出来ない程だ。

 客寄せの前に集まらず、そのまま建物に向かう人々も少なくはない。彼らは呼び掛けに惹かれたのではなく、元々今日の舞台公演を楽しみにしていたのだ。

 人々の表情や足取りからは勿論、手に持っている花束や綺麗な紙袋からも浅山のファンなのだと伺える。それほどまでに彼女の人気は絶大なのだ。

 彼女の人気をよく知っている客寄せは、持っていた看板を集まった人々によく見えるように掲げてこう続けた。

「お集まり頂き、誠にありがとうございます!本日の舞台は蒲笈がまおい円玄えんげん監督が手掛ける『夕鶴』、『夕鶴』で御座います!情緒溢れる恩返し物語に蒲笈氏が手を加え、深い感動を皆様にお届けいたします!」

 『蒲笈円玄』というのは、浅山の実力と親の財力だけで著名な監督となった男の名だ。

整った顔立ちと実家の太さだけが取り柄の男だが、この業界では名の知れた舞台監督である。悪い噂の絶えないことで有名な人物だ。

 しかし、舞台で重要なのは監督の人柄ではなく舞台そのものの完成度だ。

たとえお飾り監督が携わっていたとしても、閉幕時に喝采が起こる出来栄えであればいい。

そこは主演が浅山ということで期待は揺るがない。

 人々を十分に引き付けたと判断した客寄せは、そのまま劇場内へと誘導する。

「観覧席のお買い求めは入口より入りまして右手に御座います、発券受付にて承っております!どうぞ慌てずに!まだ券も時間も十分にありますから!」

彼がそう言い終えるのを待たず、集まった人々はぞろぞろと建物の中へと入っていった。

この場にいる人々の頭はこれから始まる舞台への期待で埋め尽くされており、掲示板に張り出されている色鮮やかなポスターで期待は高まる一方だ。

 客寄せが一段落した男は、劇場に入っていく客の背を見ながら大きく息を吐いて伸びをする。肩の力をやや抜いた所に、初老の男から声を掛けられた。

「やぁ、蒲笈氏が公演する劇場はここかね?」

 監督の名を出して尋ねてきた初老の男は、年齢を思わせるやや灰色がかった髪を丁寧に撫で付け固め、皺一つない紺のスーツで手には立派な杖を持っている。

そんな絵に描いたような紳士を見て、客寄せの男は瞬時に背筋をすっと伸ばしてはきはきと答えた。

「勿論で御座います、ご観覧になられますか?」

客寄せの男は先程の大声とは打って変わって、腰の低い物言いをしている。身分が高いであろう人物に失礼でもあれば、薄給の自分はすぐに解雇されてしまうと肝に銘じているのだ。

 どきまぎしている男をそのままに、初老の男は暫く無言のまま考え始めた。心臓に悪い空白の時間は永劫のように感じられ、実際には一分のところが一時間にすら感じさせる。

 沈黙の後、初老の男がこう答える。 

「……一度くらいは観てみるとしよう」

という肯定的な言葉の後、男はそのまま劇場へ足を運んだ。

颯爽と立ち去るその背を深いお辞儀で見送り、客寄せの男は息を吐いた。それも大きくではなく、ろうそくも吹き消せぬほど小さく控えめな呼吸だ。

 かつてこんなにも緊張した事はないだろう、とぽそぽそ呟きながら客寄せの男は額に滲んだ汗を拭った。緊張から解放されたことで汗まで吹きだしてきたのだ。

 初老の男に声を掛けられてからほんの数分しか経っていないのだが、劇場の入口付近は老若男女問わず人が集まっている。

これからここにいる人々を感動させるだけの公演が行われるのだと思えば、自分の仕事も誇らしく感じられるのだった。

男は持っていた看板をしっかりと握り、人気のない劇場の裏口へと歩いていった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 私、枡谷ますや小太郎こたろうは後悔している。

なぜこんな人混みに揉まれてしまうことを選んだのかと。

遡ること三時間前。午前七時頃にそれは起こる―――。


 今朝の私は酷く寝不足だった。前日の仕事が長引き夜遅くに就寝したせいか、あまり寝付けないまま朝を迎えてしまったのだ。

ひとまず水でも飲んで寝直そうと起き上がったところ、見計らったように呼び鈴が鳴り響く。

 今日は来客の予定などなかった筈、それもこんな朝早くから。火急の依頼か、はたまた荒事か。

ただの郵便であれ、と祈りながら出てみれば、玄関先には妹の子供たちが並んで立っていた。男女の双子で歳は十四。姓を田立、姉はかおるで弟はとおるという。

 二人は顔や背格好が瓜二つで、服装や髪型で判断するしかない。

姉の方は顎の高さに切り揃えた黒髪を軽く内巻きにし、白いリボンのカチューシャを差している。一方で弟の方は黒髪を短く切り整え、前髪を七三分けにして軽く流している。

 顔立ちはどちらも母親似で、黒い瞳と切れ長気味の目元。草臥れた中年の私と違って人に好まれる外見をしている。

二人とも私が経営する探偵事務所の助手であり、ここへはよく出入りしている。

 そんな二人が朝から学校でもないのに制服を着ている。その時点で気づいていればよかったものを。

重い頭では仕事のことしか浮かばなかった。

「やぁ。おはよう、今日は休みになっていただろう」

「おはようございます!」

元気のいい揃った挨拶の後、薫がこう提案してきた。

「先生、お出かけに参りましょう!」

その眩しいまでに真っ直ぐな視線から逃れようと、徹に目を向ける。

「先生。健康の為にも外出しましょう」

「救いはないのかね」

深いため息を零す私に薫がきびきびと言う。

「そんな、私たちは先生の為を思っていますのに!母様も心配しておりましたわ!」

「そうですよ。今日だって母様に頼まれて来たんですから」

「うむむ……」

 面倒見の良い妹が私の不健康を危惧するのは常で、彼女からの忠告は正しいことばかりなのもあり従ってしまう。それを身近で見ていたせいか、双子たちは何かにつけて妹の名を挙げる。

「大丈夫ですよ、外出先は屋内ですから。先生はただ座っていればいいんです」

と、口添えする徹。

座っているだけでいい、なんて上手い言葉だろう。

「屋内ならば……仕方ない、行こうか。支度をするから中で待っていなさい」

「はい!」


……こうして今に至る。

 まさか人気絶頂中の浅山千幸主演の舞台に連れて来られるとは、思ってもみなかった。どうやら助手たちを侮っていたらしい。

 当然ながら発券受付まではかなりの混雑で、受付前に長蛇の列を作っている。

早い時間に入館できたからあまり並ばずに済んだものの、私の背後にはとんでもない人数が並んでいる。

これからこの波を掻き分けるのかと思うと気が滅入ってしまう。なんだってこんなに人が多いんだ。

「先生、次ですよ」

傍らから呼びかけたのは、私の甥。とおるだ。

「やれやれ、ようやくだ」

溜息混じりに返事をすると、徹が見透かしたように告げる。

「騙されたって思ってるかもしれませんが、恨むなら母様に言うんですね。言えるなら、ですが」

ふふ、といたずらっぽく笑う。我が甥ながら計算高い奴だ。

 何か言い返せないか思案していたところ、背後からの咳払いが耳に刺さる。

後ろに並ぶ人の視線が痛い。そんな意地は捨て置いて早く済ませてしまおう。

「大人一枚、学生二枚ね」

「承りました。合わせて500円でございます」

受付嬢は慣れた手つきで入場券三枚を。

「はいはい、ご苦労さま」

そう言って私は徹と足早に立ち去る。まるで逃げる。

 そのまま人混みを掻き分けるように突き進み、人がまばらになったロビー端へ抜け出た。

ここでようやく気持ちに余裕ができたのか、建物の内装に目を向ける。

 黒っぽい壁に白い大理石の床、受付から離れた休憩席には赤いカーペットが敷かれている。壁の端には高価そうな鉢植えに植えられた観葉植物やこれまた高価そうな壺。壁には浅山千幸のポスターに混じって西洋画まで掛けられている。

高い天井には海外から取り寄せたのか、ご立派な硝子製の照明がいくつも釣り下がっているほどだ

平たく言えば装飾過多、私の好みとは程遠い。

「先生、徹!こちらですわ!」

ふいに聞き慣れた声のする方を見ると、我々に手を振る少女がいた。薫だ。

混雑するところに連れてはいけないからと、一人座らせておいたのだった。紺色のワンピースとお揃いの鞄を膝に乗せ、木製の長いベンチの中央に行儀良く座っている。

 徹に目配せして薫の待つベンチは向かった。我々の顔を見るや否や、楽しそうにころころと笑う。

「さぁさ、お座りくださいな。一休みしてから座席へ移動しましょう」

そう言いながらベンチを軽く叩く。薫を挟むようにして私と徹は腰を下ろした。

 寝不足で顔色が悪いことも相まって、いつにも増して疲れきった顔をしているのだろうか。薫が心配そうに訊いてきた。

「今日は一段と顔色が良くありませんわね、まるで萎びた大根みたい……」

「大丈夫さ。先生はきっと喉が渇いただけなんだ」

と、徹が適当なことを言って薫を安心させようとしている。

それより、疲れた伯父を例えるのに萎びた大根とは。否定しないあたり、この双子の感性は共に独特なのだろう。

「まぁ、そうなの?だったら開演前に何かお飲みになった方がいいわね」

「舞台が終わってからでも遅くないさ。とにかく、私は元気だ。あまりそうは見えないかもしれないがね」

何やら世話を焼こうとしている薫を止め、私は続けて語る。

「それじゃあ、少し早いが座席に移動しようか」

そう言いながらチケットを一枚ずつ二人に手渡す。

「座席は……ワの三、ちょうど一階の扉側の席ですわね」

「僕は二、先生は一ですか?」

「あぁ、一番端の席だ。座りやすくて助かるね」

ベンチから立ち上がり、軽く伸びをする。肩の後ろあたりから骨が鳴った。

ゆっくりと脱力している間に助手たちは横に並び立っていた。

「忘れ物はないね。では行こう」

二人と逸れないように私の着物の袖を握らせ、人波に逆らわず観覧席へ向けて歩く。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 太陽が高々と地上を照らす頃。劇場の裏手側にある一際大きな部屋は人気女優、浅山 千幸が使っている控え室だ。

 シンプルな白い壁には浅山のポスターがところ狭しと貼られ、彼女が演じてきた役の数だけあった。木製の床には丈夫そうなスタンドが置かれ、色鮮やかな衣装が掛けられている。

 舞台小道具や小物も壁際の棚にきちんと整頓されており、これから使われる物がその隣の机に並べられていた。

 きちんと整頓されていないと気が済まない性格なのか、浅山の化粧道具も各ブランド別に番号順で並べられている。特に口紅は種類が多く、口紅専用の棚に並べて入れられている。

 この部屋の主である浅山はと言うと、電球が付いた鏡の前にぼんやりと座っていた。周囲から完璧な存在と言われる彼女であろうとも、こうして適度に力を抜く事が重要なのだ。

鏡に映る自分の顔を見ながら頭の中で台本を思い返していると、少し離れた所から入場制限を知らせるけたたましいブザー音が届く。

「あぁ、もうそんな時間なのね」

特に意味もない呟きに返答する者はおらず、一人きりの控え室では孤独感を募らせる一方だ。

 浅山は立ち上がり、傍らの全身鏡に映る自分の姿を見つめた。純白の着物に黒のチュールストールを巻き、目じりには朱を指している。

 これから舞台に立つ主役の姿、人々の感動を思いのままに操る魔法のような存在。そうあれとして努力を重ねてきた浅山にとっては当然の事だが、他者からすれば並々ならぬ実力である。

 全身鏡の前で衣装の崩れや化粧の失敗がないか等を確認していたところ、部屋の扉を数回ノックされた。その直後扉も開けずに声を掛けられる。

「浅山さん、舞台袖で待機願います!」

「はい」

浅山がそう短く返事したのを聞いてか、声の主の足音は遠ざかっていく。その後に続く様に、浅山も小道具を手に部屋を出て行った。

 廊下は裏方が慌ただしく駆け回っており、各控え室に呼び掛けているようだ。浅山の出番は一番最初となっている為、他の役者たちより先に呼ばれたのだろう。

 コツコツと一定の速さを保った靴音を響かせ、浅山は廊下から真っ直ぐ舞台裏まで歩いた。

行き交う人々は皆一度立ち止まり、深々と頭を下げて挨拶を告げる。

「浅山さん、おはようございます!」

「おはようございます」

と、元気のいい挨拶にしゃなりと会釈しながら返す浅山。

 それを数度繰り返している内に、しんと静まる廊下へ差し掛かる。

観客に最も近い廊下なだけに、物音を極力抑える必要があるのだ。

すれ違う裏方も深々とお辞儀するだけで、挨拶の声は発しない。浅山も同様に会釈を返すだけである。

 柔らかいカーペットの上を歩き、重い扉の向こうへと足を踏み入れる。

暗い部屋には放送機材や照明を調整する者や裏方と連絡を取り合う者で溢れ、粛々と開演の準備を進めていた。

裏方が奔走する中、椅子に深く座って悠々と煙草をふかす男。蒲笈の姿が目立つ。

 浅山が訪れたのに気づき、蒲笈は手招きして彼女を呼び寄せる。

「千幸、今日も美しいね」

「ありがとうございます」

蒲笈の褒め言葉に微笑みを零す浅山。

「今日の舞台もきっと大成功だ。君が主役を演じてくれるだけで全て上手くいく、そう確信しているよ」

そう言って浅山に向けてウィンクして見せる。

儚げに微笑む浅山へ裏方が小さく声をかけた。

「そろそろ準備お願いします」

「わかりました」

と、短く返事して再び蒲笈へ向き直る。

「それでは行って参ります」

「あぁ、頼んだよ」

それから煙草に再び口をつけた。

 暗い部屋から一転、光溢れる重い垂れ幕の前に立つ。

垂れ幕の向こうにはこれから始まる舞台を心待ちにしている観客たちがいる。それだけで浅山の気持ちも昂るものがあった。

 開演のブザーと共に垂れ幕がゆっくりと持ち上げられていく。幕が上がるにつれ、観客に向けて語られる放送が浅山の耳にも届いた。

「本日の演劇は『夕鶴』、どうぞごゆるりと御観覧あれ!」

観客の目に浅山が映ったのを皮切りに、劇場が歓声と拍手に包まれる―――。




 そうして演目も終盤。観客の視線は美しき女に集中していた。

「私の正体を見られてしまっては……もうここへはいられません」

さめざめと嘆き悲しみ、顔に袖口を当てる美しき女。そこへ追いすがるように男が手を伸ばす。

「待ってくれぃ、たった一度の過ちじゃないか!許してくれよぅ!」

抱き抑えようとする男の手をするりと抜け、美しき女はすっと立ち上がる。

「なりません。そのたった一度の過ちを犯し、あなた様はご自身で信頼を泥へと変えました」

「うぅ……そこを何とか、助けてやったじゃあないか」

と言って、男は諦めの悪い言葉を吐く。

しかし、それで揺らぐような女ではなかった。

「あなた様から助けて頂いた御恩はあります。しかしながら、簡単な約束すら守れない御方へ返す御恩はありません」

「謝る、悔いるから……許してくれ……」

両手を地につける男を見もせず、美しき女は両手を天へ向けて広げる。

 白く長い袖がまるで翼のように広がり、女に青白い光が降り注ぐ。天から差し込む光は次第に強くなり、劇場中が彼女に釘付けとなった。

 しかし、次第に観客の視線は彼女から外れていく。金属が軋むような嫌な音が天井から聞こえたのだ。

ギィギギ、と音を立て、眩い光を発している大きな照明が少しずつ落ちてこようとしていた。

 前列で観覧していた観客はおもむろに叫びだし、舞台に立つ美しき女へ呼びかける。その形相はまさに鬼気迫るものだった。

「危ない!」

「上から落ちてくる!」

 客席からの声にようやく裏方が気づき、舞台袖から呼びかける。

「浅山さん!逃げてください!」

「そこにいては危険です!」

舞台に集中していた美しきひとはここでようやく自身の状況に気づく。

「―――あら」

 彼女が見たのは、自分に向かって落ちてくる大型照明。

強い光に目は潰れ、視界が真っ白になった次の瞬間には熱さと衝撃。辺りに埃と木片が舞い上がり、地面に激突した衝撃が生ぬるい風となって客席へ流れる。

 舞台に立っていた男は膝を震わせながら腰を抜かし、その場から動けなくなっている。幸運にも間一髪のところで大型照明との衝突を免れていた。

 客席から絶叫のような悲鳴が上がったのをきっかけにし、人々が劇場から逃げ出すように扉へ押し寄せる。慌てふためき、他人を押し退け、恐怖に泣き叫ぶ。

まさに地獄のような空間へと変わっていった。

 落下した大型照明は高熱を帯びたままの電球が、と接触していたこともあり、いとも簡単に炎が舞い起きる。

炎が起きるのを見て、舞台関係者は這うようにその場から逃げ出していく。客席からも火が見えたのか、より一層の大混乱が巻き起こされた。

 燃え広がる舞台の上、ただ一人取り残された浅山。彼女にはまだ僅かに意識が残っていた。

潰れた頭を揺らし、ひん曲がった腕でもがく様は生前の美しさなど見る影もない。

 そのうえ炎に飲まれ、浅山の姿は急速に死を象っていく。

「―――たす、け、て」

 最期の力を振り絞り、しゃがれた声で呟かれた四字。

観客、同じ舞台に立っていた男、数名の裏方……そして、監督。浅山の最期の言葉は誰にも届くことはなかった。

これが浅山の最期の舞台になるとは、劇場の誰も想像だにしなかっただろう。


浅山千幸を救おうとする者は誰一人いなかった。


 美しきひと、浅山千幸の最期はその日の舞台を目にした全ての人々に刻まれた。

残酷にも、彼女が生前演じてきた全ての演劇よりも色濃く、深く。

そして後世に『演劇のクライマックスで事故死した悲運な女優』として語られることとなったのは、必然だと言えるだろう。

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