暦の話

@0guma

本編

第1話 平治元年十二月四日

 暦の話をしようと思う。


 呉座勇一「陰謀の日本中世史」(KADOKAWA, 2018; https://www.kadokawa.co.jp/product/321609000109/)を読んでいて、ちょっと気になる記述を見つけた。


『平治元年(一一五九)十二月四日』(第一章第二節)


 これのどこが気になるのか、と普通の人なら思うかもしれない。だが、歴史学や天文学を大学レベルで学んだ人なら「もしかしたら……」と思うのではないか。

 確認してみたところ、豈図らんや、平治元年十二月四日はユリウス暦1160年1月14日だった。


 現代日本で使われている暦はグレゴリオ暦という暦であり、「太陽暦」である。グレゴリオ暦の前に欧州で使われていたのがユリウス暦で、かのユリウス・カエサルに由来する。

 日本がグレゴリオ暦の採用を決めたのは明治五年であるが、それ以前は天保暦が使われていた。天保暦の前は寛政暦、その前は宝暦暦……で平治年間には宣明暦が使われていた。総じて「旧暦」と呼ばれるこれらの暦は「太陰太陽暦」と呼ばれるグループに属し、古代中国に源流を持つ暦だ。

 両者は一年の長さが違うし、一年の始まりの位置も違う。

 ユリウス暦は一年の長さが365日で四年に一度閏年を入れて調整する。対して旧暦は一年の長さが大凡354日であり、19年に7回「閏月」を挿入することで調整を行う。

 ユリウス暦やグレゴリオ暦は冬至の少し後に新年を迎えるが、旧暦は冬至を含む月を11月とし、冬至の次の次の新月が新年になる。従って、一~二ヶ月程度、年始の位置がズレる。

 こういった事情から、年末年始に関しては太陰太陽暦と太陽暦では年を跨いでしまうケースが多く見られ、歴史学を学んだ者においては注意を払わずにはいられないのだ。


 有名な例を挙げると、所謂「忠臣蔵」、赤穂浪士の討ち入りの日付は元禄十五年十二月十四日であるが、これはグレゴリオ暦では1703年1月30日に当たる。元禄十五年正月元旦はグレゴリオ暦1702年1月28日であるが、この年は閏年で閏八月があったため、十二月に入った頃にはグレゴリオ暦では既に年が明けていた。

 「元禄十五年は大凡西暦1702年」という言い方は成立するが、細かい日付を検討すると、必ずしも元禄十五年の全てが西暦1702年だったわけではない、ということになる。

 冒頭の平治元年についても、途中閏五月があったこともあり、十一月の末には既にユリウス暦では翌年に入っていた。「平治元年は大凡西暦1159年であるが、平治の乱の当日は既に翌年であった」という話である。


 なんだ面倒くさい奴だな、と思われるかもしれないが、実のところ「暦は面倒くさい」のである。現代日本社会では暦というのは所与のもので、まず「暦は面倒くさい」という意識はないと思うが、暦というのはそれだけで研究対象になるくらいには面倒なシロモノなのである。

 歴史学(や天文学)は、この面倒くさい暦との付き合いを切ることができない学問分野であり、前記のような注意を払わずにはいられないのだ。


 なお、冒頭に掲げた該書は一般向けの書籍であり、歴史学的正確さを必要とする本ではないので、あのような記述でも構わないのではないかと思う。

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