第5話 女との出会い
両側からせまる土塀はゆるやかに下り、地下へと続いていく。次第に手足が伸ばせ、立って歩けるくらいの空間が拡がる。蛇行した通路に沿って長椅子が互い違いに置かれている。隅には雑草が道に迷ったようにひょろひょろと生えている。見た目のひ弱さとは裏腹に、歩くたびに力強く爽やかな香りがたちのぼる。
突き当たりの、硝子の格子戸が少し、開いていた。
「いらっしゃい」
年齢不詳の女の声だった。
中に入ると背の高い受付があり、本やキャンバスが積み上げられる限り、積み上がっていた。声は本の壁の内側からだ。背表紙と背表紙の隙間から漏れる明かりの内側で女性がうつむいて何か書いているようだった。
「お返しかしら」
こちらが何も言わないのを警戒したのか、ふいに顔を上げる。
「お返しかしら」
しばらくして、積まれたものの一部がドサッと取り除かれ、女の全貌が現れた。
日本髪を結い上げた、きれいな女性だった。
「あのう、」
二玖は恐る恐る声を出す。
「持ってらっしゃるわね?」
女は二玖を検品するようにざっと見た。
図書館、というからにはこの女の言葉の主語は「本」だろうか。
「これですか?」
二玖はスケッチブックを持ち上げる。
頷いて女は立ち上がる。
髪は日本髪なのに、着ているものは黒い艶のあるドレスだった。よく見ると、後ろ髪には真っ黒い羽飾り。
「ここで表面の汚れを拭き取るの。渡してくださる?」
湿った綿を大きな瓶からピンセットで取り出すと、途端にアルコールの匂いが漂う。
「これは、何かしら?」
女は渡されたスケッチブックの重みを味わっているようだった。
「スケッチブック、だわね」
落胆したような女はそれでも身に引き寄せ、話しを続けた。
「図書館は本ばかりを扱うわけではないのよ。習作的な文章や絵、カセットに録音された声、それに、新聞。そういう記録物全てを扱っているの。ただね、統計的な話しをするとこういうものに、あまり価値はないわ。個人的な、とるにたらないスケッチや、日々の記録が大抵、過剰な自己注目と内省の、膨大な記録であるということ。それがたとえ、本人にとって秘密の凝縮であったとしても。でもね。見てみなきゃわからない。あくまで、今までの統計。だから頂戴するわ」
白い手袋をはめて形状を手のひらで計ったり、背表紙の丸みを確かめたりしながら一方的に話すと、バックヤードに持って入り、すぐに戻った。
「スケッチブックだとすると、やっぱりあれかしら。始めは小学校で強制的に書かされたの?思いつくままにスケッチを、って。そして中学生くらいから、アイデンティティの問題に悩み始めて、何となくもやもやっとして、再びページを開くって感じかしら」
開けばいいのに、と二玖は思った。そうしたらそれがただの空白だとわかる。
「まあ、絵なんて、書くことの、扉みたいなものだから。そこからみんな始まるの。統計上は、だけど。」
女はやっと黙った。
「あの、それわたしのじゃないんです」
「あなたのじゃない?」
「わたしが書いたんじゃないです」
そもそも何も書かれていない。
「すると、これは写本なの?」
「しゃほん?」
「原本じゃないってこと。」
「アレクサンドリア図書館をご存知?」
「いえ、」
呆れた、という顔をして女は説明を始めた。
「紀元前、まだ印刷技術なんてなかった時代。本はオリジナルのものを次々と書き写して広めたの。書き写したものをさらに書き写し、それをまた誰かが書き写す。その過程で写し間違い、写し忘れも多かった。しかもそのなかには意図的な写し間違いもあったの。」
「意図的な?」
「本の内容自体を変えてしまうの」
「何のために?」
「本の内容によって利益や不利益を被る人がいるのよ。それを操作するために。そして内容の変えられた本は、オリジナルと同じように広まっていくの。最悪の場合、写本のほうが本物とされてしまうこともある」
女は本の表紙を愛おしそうに撫でた。
「本が燃やされ、消滅した時代の話よ」
誰かに聞かれては困るかのように囁くと、結局一度もめくることなく、表紙にそっと伝票を貼り付けた。
「ま、今では考えられないことね」
そのとき電話が鳴って、女は奥へ引っ込んだ。
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