38.裏宇宙航法―16『深淵を覗く者―3』

ッ!!」

 頬にはしった痛みとともに、怒鳴りつけるような叫びが深雪の耳許で、がぁん! と響いたのは、その時である。

 パァン! と鋭く音が弾けたのは一瞬後のように感じられた。

 横っ面を力まかせに引っぱたかれたのだった。

 打撃によって頭が半回転し、打たれたところにカッと灼熱感が生じて、ジ~ンとしびれ、強く耳鳴りがする。

 と同時に、呼吸ができないくらい、痛いくらいに誰かの腕が巻き付いてきて、強い力で背骨を締め上げ、一ミリの隙さえできないくらいにぎゅうっと深雪を抱き締めてきた。

「しっかりなさい! 負けたらダメよ! 競技者アスリートなんでしょ?! 少しは根性みせなさい!」

 気付けのつもりか叩きつけるように言ってきた。

 しかし、深雪は反応できない。

 晒され続けた心理負荷プレッシャーに削られ、精神が摩耗し、衰え、すっかり弱くなってしまっている。今にも消えて無くなりそうだった。

 人形のようにぐったりとなった深雪の顔が仰向けられた。

 背中にまわされていた誰かの腕に、更にたくましく力がギリリと加えられる。

 肋骨、背骨、締めつけられた上体が潰れて、肺から空気が絞り出された。

 かはッと深雪は息を吐く。

 すると、それを見計らったかのように温かく湿ったなにかが深雪の唇をとらえ重なって、覆いかぶさるようにして、そこを塞いできた。

 力なく開いた歯と歯の間隙を縫い、柔らかな肉の塊らしきなにかが無理矢理押し入り、じ込まれてくる。

 どッとばかりに口腔内部に躍り込んできたその肉の塊は、たちまち深雪の舌を探り当て、蛇が巻き付くようにしてそれにからみついてきた。

「ん……、んんんッ?! んぅううう~~ッ!!」

 呼吸が苦しくなって深雪は呻く。

 とびかけていた意識がほんのわずかに復調して瞳にも光が蘇った。

(中尉……殿……?)

 誰……? そう思う間もなく〈答〉が入力されてくる。

「後藤中尉……」

 。――自分とぴったり密着する肌の感触に、深雪は相手の名前を呟いた。

 無意識のうちに両腕がうごいて、相手の背中にまわされる。

 だらりと力なく垂れ下がっていたのが、そろりそろりと持ち上げられて、いつしかすがりつくような必死さでもって抱きついていた。

 深々と吸われたままの唇も、今では深雪の方から積極的に応じるようになっている。

 そうしていれば自分を取り巻く恐怖を忘れていられる。

 いまひとたびの心の平穏無事を取り戻すことができる。

 きつく抱きしめられ、また抱きしめて、深雪は抱擁とキスに耽溺した。

 つたなく、たどたどしく舌を動かし、鼻を鳴らして、赤児が母親の乳房を懸命にふくみ離さないように、ひたすら相手の口をむさぼった。

(もう大丈夫よ。なにも心配することはないわ)

 そう言っているかのように、相手――後藤中尉は、そんな性急な求めにやさしく応じ、あやす如くに背中を撫でて、深雪の心をくつろげる。

 ただ一面の闇黒のなか、しなやかなふたつの肢体は絡みあい、閉ざされたひとつの小宇宙をかたちづくって、外部からのアクセスをかたく遮絶した。

「……ちょいと、お二人さん?」

 あのさ~と、どこか呆れを含んだ呟きとともに、深雪の背中が、つ~~ッとでられたのはその時だ。

 悪寒とも、くすぐったさともつかぬ感触に、「うひゃあッ?!」と奇声をあげて、深雪は思わず背中をのけぞらせていた。

「御宅曹長……?」

 ほとんど反射的に口にした名前に、「はい、正解」と答えがかえる。

「お楽しみのところ申し訳ないけど、ご指摘通り、ワタクシ御宅やよいです」

 どこか頭をぽりぽりと搔きながら、といった様子が連想される口調でそう言ってきた。

「ま、とりあえず、アタシも仲間に入れてね」

 深雪の尻たぶの肉をもみもみっと揉み、ふたたび身体をビクビクと波打たせる深雪の手を取って、にひひ……と笑った。

 そして、

「まったく……!」

 やれやれとばかりにわざとらしい溜め息をついてみせると、

「怖かったら呼べって言っただろ~」

 見つけるの大変だったんだぞと、こぼしてみせる。

「でもって、ようやくアクセスできたと思ったら、いきなり中尉殿とラブラブしてるし……。ダメだぜ、乗艦早々、不純性交遊なんかにハマっちゃったら」

 からかい口調でお小言(?)を言った。

 その冗談口を、なに馬鹿なこと言ってるのと撥ねのけ、

「仕方がないわ。事前に深雪ちゃんに深層心理ネガティブ耐性試験キャンペーンまで受けさせる余裕はなかったし、ぶっつけで裏宇宙航法ほんばんに臨むしかなかったんだから。むしろこの程度の混乱で持ちこたえられたのは大したものだわ。

「本当に、深雪ちゃんに大事なくてよかった……」

 御宅曹長の名乗りと同時に、抱擁をといた後藤中尉が穏やかな口調で深雪をかばった。

 心の底から安堵している様子が、言葉の端々から伝わってくる。

 思わず深雪は、中尉と繋いでいる方の手に、ぎゅっと力をこめてしまった。


 後藤中尉、御宅曹長、そして深雪の三人は、左右それぞれの手を異なる相手と繋ぎ、輪をかたちづくるようにして緩やかに宙空を漂っている。

 周囲の状況は何ひとつ変わっていないが、つい今しがた、後藤中尉から注意された通りに、意識が仲間――他に逸れた結果か、今にも自分を破綻させようとしていた〈それ〉の存在感は、すこし圧を弱めて薄れたように深雪は感じた。

 が切れたわけではない。

 しかし、後藤中尉、御宅曹長――〈連帯機〉で連携ジョイントしている〈同志〉と較べれば、その存在感ははるかに弱い。

自分わたし〉が〈向こうそれ〉に『注目』すれば、〈それ〉もまた、〈わたし〉(だけ)を視返してくるが、〈わたし〉の意識が逸れれば、おのずと〈それ〉の反応も鈍磨する。消え去りはしないが、かろうじて安全(?)な域まで低減する……と、そういうことのようだった。

「助かった……」

 万感の思いを含んだ呟きが、ぽろりと唇からこぼれだす。

 主計科のメンバーが全員そろった。

 これで、この先なにが起きても大丈夫。――そう思ったのだ。

 その呟きを聞きつけたか、御宅曹長が、また、にひひ……と笑う。

「そうそう。どんな困難にあっても一人じゃないんだ。助けてくれるし、助けてあげる。最後に物を言うのは、やっぱり仲間との絆――友情・努力・勝利ってワケさ!」

 遷移に入る直前に、口にした言葉をくりかえした。

「だから、次の遷移からは裏宇宙に入ったらすぐに中尉殿か、アタシの名前を呼ぶんだぜ。でないと、まぢで居場所アドレスを捜すのに苦労するんだ」

 相変わらずのカルい口調で言ってきた。

「今回の件については、そこまでキチンと説明をしていなかった私の落ち度だわ。御免なさい、深雪ちゃん。許してね?」と、後藤中尉。

 繋いだ手に感じられる感触から、頭をさげているのだろう動作が伝わってくる。

 が、

「て言うか、今回の遷移って、なんかおかしくなかったですか? いつもよりもキツめだったって言うか。〈トランキライザー〉、ちゃんと作動してんのかってくらい、キたんですけど……」

 上官の謝罪に深雪が慌てるより早く、不審げな調子で御宅曹長が口をはさんできた。

「そうね」と後藤中尉も同意する。

「他の乗員たちも同じように感じていたなら、遷移後の健常診断にはいつもより時間をかけた方がいいでしょうね」

 思案げな口調でそう言った。

「げ……」

「なによ、『げ……』って」

「い、いや、そんなの面倒くさ……、と、もとい、割り増し手当てとか、ちゃんと出るのかなぁ……と」

「馬鹿おっしゃい。通常業務でなくとも、主計科の仕事のひとつでしょうが。俸給には既に織り込み済みよ」

「え~~」

「『え~~』じゃない。大体あなたは何かというと――」と、いつものようなやり取りが二人の間ではじまってしまう。

 それで、一人の外に置いてきぼりにされた格好の深雪は、つい繋いだ手に力をこめてしまったらしい。

「ま、何はともあれ無事完了ってことで、こうして、おしゃべりしてれば、もうオシマイ」

 まとめるように御宅曹長がそう言うと、深雪の手を強く握り返してきてくれた。

「そうね。あともう少しだけ、気をぬかないで頑張りましょう」

 後藤中尉も同じようにしてくれる。

 そうして、

 すこし甘えた気分に深雪がひたっていると、再び感覚がぐにゃりと歪んで世界(のイメージ)が正常にもどった。

 裏宇宙をくぐり抜け、遷移が終わったのだった。

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