27.裏宇宙航法―5『深雪の日々、或いは事の真相―2』

 鏑木瀆尉は……、

 重心が低くて安定志向、わりが良さげな肥っちょボディのくせに、平滑な床面でさえもよくコケる。

 つい先日も、そうして深雪が見ている前で実に勢いよくすッ転んだものだ。

 そして、その際、深雪は危うく驚愕のあまり悲鳴をあげるところだったのだ。

 背中から聞こえた「あ」という声に、深雪が「えっ?」と振り向くと、そこには前転するかたちで、ビタ~ン! と、したたか顔面を床に打ち付けた鏑木瀆尉の姿があったのである。

 受け身も何もあったものではない。

 言葉の通りに頭から床に落ちたのだ。

 飛行科の科員居室内に響きわたった衝突音は、まるで餅つきの時のそれのようで、次いで体重からくる衝撃が、ズシィン……! と床面を振動させたものだったが、深雪が対応するより早く、当の鏑木瀆尉はむくりと身体を起こしたのであった。

 常人であれば首の骨を折っていたかもしれない転び方であり勢いだったが、特段なにも異常は無かったようである。

 そもそも体型的に首そのものが存在しないではないかといった指摘は(正しいのだが)さておいて、深雪が驚愕したのはそこではなかった。

 床の上にべたりと座り込み、ぷるぷると頭を左右に振る鏑木瀆尉――その肥っちょの顔が目に入った瞬間、深雪は思わず悲鳴をあげそうになったのである。

 むくむくとしていた鏑木瀆尉の顔面から、目鼻立ちといった造作のすべてが失われていたからだった。

 床に激しくぶつけた結果なのだろう。鏑木瀆尉の顔面は、アイロンを掛けたかのように平たくペッタンコになっていたのである。

 それはもうマンガ……、それもギャグマンガでしかお目にかかれないようなのっぺらぼうになっていたのだ。

 頭部にさえもタップリ特盛りにされていたあぶらみが、床面への激突によって圧縮成形された結果であった。

 しかも、

 片方の親指を口(らしき場所)にくわえた鏑木瀆尉が、

ふんッ!」……いや、「フンッ!」と両方の頬を膨らませ、気合いを入れると、真っ平らになっていたがポコンとばかりに元に戻る。

 へこんでしまったピンポン球が、お湯にけられ元通りの球体に回帰するように、身体の内から何らかのかたちで『圧』がくわわり、原型をかいふくするとあっては、そのデタラメぶりには言葉も無い。

 深雪はとんで逃げたものだった。


 垂水瀆尉も……、

 大倭皇国連邦宇宙軍のレーションは、その美味さで広く知れ渡っている名品である。

 自軍の内部はもちろんのこと、居並ぶ列強諸国の間でも、三つ星モノ、ベストオブミリメシと、たいへんに高い評価を得ている逸品なのだ。

 が、

 何故か総じて艦載機搭乗員たちには甚だ不評で、美味しくないと忌避されている品でもあった。

 結果、

 甘いというか、優しいというか――〈あやせ〉に限らず、艦載機搭乗員たちに対する給食だけは、主計科員たちが手ずから調理し、好みに合わせることとなっていた。

 そうして、〈あやせ〉における担当責任者役を押しつけ……と、もとい、仰せつかった深雪が、専用食を配食すべく飛行科員居室に立ち入ったある日のことである。

 毎日のように掃除しているにもかかわらず、床一面にのたくるようにテカってはしる幾条もの筋を見つけて、深雪は思わず眉をひそめたのであった。

 うねうねと不規則に伸びているそれは、幅が二メートル近いことを除けばナメクジかカタツムリが這った跡にそっくりだった。

 もちろん、いくら不潔な男所帯だからといえ、飛行科員居室はそのような生き物たちが大手を振ってはびこるような環境にはない。

 そうなったところで部屋の住人たちは気にもしないだろうが、後藤中尉をはじめの主計科員たちが許さない。

 脂っぽいのは人間だけでも十二分以上に過ぎるのであって、そこに油な虫でも加わった日には、真空暴露で室内清掃を敢行したって、なお足りない。抗命罪に問われて、たとえにぶち込まれようとも金輪際、艦載機搭乗員どもの部屋に入るのはお断り!――それが主計科員たち三人が共有している見解なのだった。

 というわけで、さっそく掃除に取りかかった深雪だが、洗剤をつけ、モップを掛けてゴシゴシやってもなかなかとれない。

 目を近づけてよくよく見れば、なにやら油膜のようなギラギラが、光った筋の表面に虹色のうつろいでもって揺れている。

 微かにクン……と異臭がしたから、なんだか怖くて、指先ですくって正体を確かめてみるまでの勇気は深雪にはなかった。

 その時だったのだ。

 背筋に悪寒が走るのをおぼえて、思わず深雪が背後を振り返ったのは。

 そして見た。

「め、メシ……、食う……、ちょうだい……、早く……」

 そんな単語を切れ切れに口にしながら、垂水瀆尉が這いずり歩き、こちらに近寄ってきている情景を。

 野生の勘か、それとも胃袋に特殊なセンサーでも仕込んであるのか――料理の気配を察知して、各自の個室に通じる扉の向こう側から深雪が今いる共用スペースに、今しものたのた侵入してくるところだったのだ。

 腹がへっているのか、いつになく饒舌じょうぜつであり、アクティブである。

 足が短いことも相まって、でろでろに溶け崩れた超・山盛りのラードがいざっているかのようだ。

 その様は、もはや人間ではない。

 まごう事なく化け物、クリーチャーである。

 そして、深雪はそこに光る筋を見た。

 垂水瀆尉が歩いた後に、濡れ濡れと光る移動のがくっきり残されていたのである。

 肥満のあまり、腹だかしりだか腿だかの肉が、思いきり下までだら~んと垂れ下がり、床に直接触れているのであった。

 その肉を引きずり歩いているものだから、体表から分泌されたあせが、床面になすりつけられていたのである。

 いや、もちろん、まがりなりにも服は着けているから素肌が直接ふれているわけではない。そうではないが、極端なまでに肥えていることから異常なまでの汗かきで、さしもの宇宙軍謹製の服、下着といえどもその全量を吸収してしまうことができず、生地を通して脂……、と、もとい、汗が外部に滲みだしてきているのだった。

「お、お食事はここに置いておきます……ッ! しょ、食器は後ほど回収にうかがいますから……ッ!」

 深雪がとんで逃げたのは言うまでも無い。

 が、

 仮にも階級くらいが上の人間(?)に対しての、それは礼を失した態度だとかいった非難はおよそ見当違いだろう。むしろ、役目をおろそかにせず、退室前にそれだけのことをキチンと相手に伝えられただけでも賞賛すべき筈だった。


 久坂瀆尉……、

 飛行科員居室の異臭の源であるこのガス人間は、艦載機搭乗員三人の中で、とりわけ主計科員たちに忌み嫌われていた。

 理由は簡単――クサいから。

 いや、少し(かなり?)言葉が足りなかった。

 要するに、鏑木瀆尉と垂水瀆尉の二人は、直接触れなければ、まぁ無害であるのに較べ、久坂瀆尉だけは、その及ぼす危害範囲が格段に広いからだった。

 なにせ異臭、悪臭の源である。

 見える範囲にいて臭いのはもちろんのこと、姿が無くとも残り香的に臭いのだ。

 超細密なULPAフィルターをそれも二重に装着していてさえ健康被害ギリギリだから、まったくもって半端ではない。

 深雪が〈あやせ〉に着任したばかりの段階で、面通しに飛行科員居室を訪れた後、主計科員の三人が大浴場に直行したのもむべなるかな。

 髪に臭いがこびりつくどころの騒ぎではない。

 着ていた服も身体も急いでしなければ、他ならぬ自分自身が臭いの源として周囲の指弾を受けることになってしまう。

 後藤中尉や御宅曹長が、飛行科員居室に入った後は禊が絶対必要と言っていたのは、決して大袈裟すぎるわけではないのである。

 しかも、久坂瀆尉が放つ異臭、悪臭は、体臭のみにとどまらない。

 先日のことだ。

 課業しごとで飛行科員居室に入った深雪は、久坂瀆尉がそこに居合わせたため、作業に半分、久坂瀆尉に半分の割で注意をはらい、気を張り詰めて業務をこなすハメになった。

 そんな矢先に、

 ぶばン!

 何やらくぐもった破裂音が深雪の鼓膜を打ったのだ。

 先にも言ったとおりに、深雪は久坂瀆尉を警戒し、意識の半分をそちら側に割いていたから気がついた。――ついてしまった。

 ぶばン!

 そんな、どこかくぐもって聞こえた破裂音と同時に、どう見てもトン単位の重量があるに違いない久坂瀆尉の身体が、ほんの僅かではあるが確かに宙に浮いたのを。

 備え付けの椅子に腰をおろし、だらりとだらしなく寝そべるような格好でノンビリ鼻などほじっていたのが、いきなりボボン! と打ち上げられたのを。

 そして、

 久坂瀆尉の尻の下から黄色いかすみがぶわッと噴き出し、そのまま一気に周囲まわりに拡がり、火砕流よろしく迫ってくるのを。

――深雪は、その目で見てしまったのだった。

 おならの噴出速度は、時速にすると約一二キロである。

 一〇〇メートルを一〇秒で走れる人間であれば、時速に換算すると三六キロの速度を発揮できるから、決して逃げ切れないわけではない。

 競技場のようにゴミ一つなく掃除され、脱出経路に障害物も何もなければ、すぐ目の前でられた屁から身をかわすことは決して不可能ではないのだ。

 が、

 ……結論から言うと、その日の主計科は大変だった。

 後藤中尉も御宅曹長も、ヒステリックでこそないものの、泣きじゃくる深雪をなだめ、慰めるのに、かなりな時間と労力を強いられた。

 深雪は、その全身いたる処に、軽いものだが打撲や擦り傷を負っており、なにより黄色い粉を頭からかぶったようにまぶされていて、近寄りがたい異臭を放っていた。

 冗談ではなく、マスクを含め空気濾過フィルターを二重に装着していなければ、身体をその内側から洗う肺洗浄治療等が必要だったかも知れない惨状である。眼球保護のコンタクトを使ってなければ、最悪、失明の危険性さえあった。……まぁ、そこまで言うのは大袈裟だとしても、脱出にもっと時間がかかっていたら、露出していた皮膚が糜爛びらんくらいはしていたろう。

 現実は、サスペンスやホラーを主題のドラマのようには上手くはいかない。背後に迫る殺人鬼や怪物の魔手が、我と我が身にふるわれるその寸前、安全地帯へと逃れる救いの扉が開いてくれるとは限らない。――そういうことだった。

 深雪は、そこで船内服の詰め襟が、実は先日、入浴の際に頭に乗せた〈簡封ハット〉と同じ仕掛けを内包していること、

 襟の上端をグイと上向きに引っ張れば、スルスルと筒状に伸びて簡易ヘルメットに変形することを教えてもらうことになるのだが、服の取扱説明書を熟読していなかった報いとしても、これは余りに悲惨で汚れに過ぎて、年頃の乙女にとってはすこぶる重たすぎるだろう。

 この一件は、立派に(?)トラウマとなってしまったのだった。

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