19.巡洋艦〈あやせ〉―10『飛行科-1』

「行こう」と言われて、主計科室を出た深雪は、後藤中尉と御宅曹長――ふたりの上官に挟まれるようにして通路を歩いている。

 会話は無い。

 ただ三人の足音だけが通路にちいさくこだましつづけている。

 自分たちから誘い、自分たちから部屋を出たくせに、何故か後藤中尉も御宅曹長も無言のままで、いかにも気が進まなさそうな、嫌々、渋々といった様子であった。

 つい先刻の、相手の料理に関する異名の暴露など、お互いがお互いに対して何か含むところがあるからと言うより、いま向かっている先がその原因であるらしい。

 ひらたく言えば、二人とも本当はそこに行きたくない本音がありありなのだ。

 それを殺しているから、自然、無口に、しかめっ面になっているのであった。

 その様子からして、直前に御宅曹長が口にした入浴云々は、多分、直接的には関係ないのだろう。

 少なくとも、現在、浴室を目指して歩いてはいない。――たかだかお風呂にはいるのに、そんなに抵抗を感じて渋るはずがないからだ。

 主計科室でのはなしの流れからして、仕事がらみなことは間違いないが、その何事かをクリアした後、禊とまで言われた穢れを祓う作業が必要になる。――入浴しなければならない作業にこれからかかる。

 要するに、そういうことであるのだろう。

 そして、通過儀礼は、主として新人の深雪こそがくぐり抜けねばならない、いわば洗礼なのだが、当然、それには直属の上官たちも立ち会わないわけにはいかず、後藤中尉も御宅曹長も、その必要性を認めながらも、同時にイヤでたまらない。――そういうことなのに間違いなかった。

 何処へ行くのか?

 なにをするのか?

 聞かされていないし、質問するのもなんだか躊躇われる雰囲気なのだが、

 いずれにしても、深雪にとっては気詰まりなことこの上ない。

 だから、

「お、女の人ばかりなんですね」

 すこしでも雰囲気をやわらげようと、おずおずと、そう口をひらいてみた。

 移動途中に何回か、数人の乗員たちとすれ違ったが、いずれの時も全員女性で――そういえば、このフネに乗ってからというもの、見たのも話したのも、すべて女性ばかりだなと思ったのだ。

 たまたまだろうが、今はその偶然がうれしくもある。

 事実上はじめての軍隊生活で、右も左もわからない上に、上下関係だけでなく異性と一つ屋根の下だなんてどうしようと、内心困っていたからだ。

 たとえば、風呂上がりの下着姿で自分の周囲をうろつかれるのは、父親や兄弟だったらまだ許せても、見知らぬ他人がやれば立派な(?)犯罪である。

 もちろん、規律に厳しい(だろう)軍隊で、そんなことがあろう筈がない。

 それでも、未経験だから確信がもてず、内心、戦々恐々としていた深雪だったのだ。

 それでなくとも、体育会系の究極(?)に位置するのが軍隊である。

 パワハラはまだしも、それにセクハラまでもがないまざったら、人生経験に乏しい自分では対処に困る。

 深雪は内心そう心配していたのだったが、そんな懸念も、おなじ職場に女性の比率が高ければ、どうにか杞憂で終わるだろう。――そう思ったのだった。

 しかし、深雪がそう言うと、後藤中尉と御宅曹長は、二人とも驚いたようだった。

「そっか、知らないんだ……」

 二人ながらに目をまるくして、互いに顔を見合わせた後、御宅曹長がそう呟いて、後藤中尉は深雪の方に向き直る。

「あのね」と後藤中尉はそう言うと、

「私たち大倭皇国連邦宇宙軍の男女比は、およそ二対八だと言われているわ。圧倒的に女性が多いの」

 予想外の事実を告げてきた。

「え……?」

 今度は深雪が驚く番だった。

「何故そうなっているかは、おいおい教えてあげるけど、まぁ、そんなわけで、口さがないの人間たちの中には、私たちのことを〈〉と呼ぶ向きもあるのよ」

「いーす……ですか?」

 深雪が首をかしげると、後藤中尉は頷いた。

「そう。〈The Empire of Her Stars〉――『女たちの帝国』ってね」

 これまた、「え~~ッ?!」な事実ではあった。


 と、

 ある場所にさしかかった時、深雪はひくひくと鼻をうごめかせた。

「なにか……、臭くないですか?」

 おそるおそるにそう言った。

 清潔な艦内に似つかわしくない、なんとも場違いな異臭を鼻腔に感じたのである。

 生ゴミや汚物を練って発酵させたかのような臭いであった。

 どこか妙に獣臭い……、ちょうど酪農を営む実家で日常的に嗅いでいた、家禽や畜獣たちの体臭にも似た臭いである。

 より正確に言うと、薄汚れて不潔に染まった皮膚、毛皮、汗、泥、ドブの臭い。

 口から食べたものがお尻から出る――その排泄物が発酵腐敗して放つ異臭にだ。

 もっとも近いと思えるものは、いっそこえ溜めから漂ってくるそれのような、といったところか。

 まかり間違っても、女たちの帝国にふさわしい香りではない。

 そして、

 その臭いは自分たちが向かっている方向――直角に折れたコーナーの向こう側から漂ってきているようである。

「ああ」

 深雪の言葉に、御宅曹長もひくひくと鼻をうごめかし、臭いを嗅いだ。

「深雪は鼻がきくな」

 深雪の言葉を認めると、後藤中尉の方を見る。

 視線に、うんと頷いた後藤中尉は、やおらポケットの中をさぐると部下の二人に、それぞれ点眼薬タイプのコンタクトとスティック状の鼻栓、大振りなマスクを手渡してきた。

 どうやら、あらかじめ用意をしていたらしい。

「え? あ、あの……?」

「コンタクトの使い方は、普通の目薬と同じでいいわ。およそ五秒くらいで眼球保護膜が形成されるけど、その間すこし視界がにごって見えづらくなるから不安定な場所は避け、激しい動作はしないこと。目の外に溢れた分は指先でかるく拭えばきれいに剥離はくりするから心配しないで。事後の除去方法は、また後で教えてあげる。

「鼻栓とマスクは除菌消臭成分含有のフィルターよ。いちおう強制機能内蔵で通気は確保されてはいるけど、慣れるまではすこし息苦しいかも知れない。でも、これは我慢して慣れてもらうしかないわ」

 とまどう深雪に、すぐにそれを着けなさいと指示をしながら、後藤中尉は自分の分を鼻腔に差し込み、顔の下半分に巻き付けている。顔を仰向けると手早く液体式のコンタクトを両目にさした。

 御宅曹長も同様である。

 慌てて深雪も二人にならう。後藤中尉も御宅曹長も、いずれも少しテンパっているのかそれ以上の説明がないため、状況が依然わからないままではあったが……。

「さぁ~て」

 顔をしかめながら、御宅曹長がパンと両手を打ち鳴らした。

 準備を終えて、三人はそろって通路の角を曲がる。

 すると、そこには装甲扉が立ち塞がっていて、通路はそこで断ち切られたかのように行き止まりとなっていた。

 異臭はそこから漂ってきている。

 ぴったりと扉は閉ざされているのに、にもかかわらず、臭いはそこから漏れ出してきているのだった。

 見るからに頑丈そうな扉には、大きく『危険』、『汚染区域』、『関係者以外立入禁止』と殴り書きされ、とどめとばかりに生物汚染バイオハザードのピクトグラムがデカデカ印刷されている。

 そして、それら後から書かれた文字に隠され、塗り潰されるようにして、『飛行科』という本来の表示だろう文字がかすかに顔をのぞかせていた。(正確に言うと、何故だか『飛行』と『科』の間には、数字の『一』の字が明らかに手書きで付け加えられていたりするのだが……)

「まったく……!」

 ののしるように言いながら、後藤中尉が、もは~んとわだかまる異臭の中に足を踏み入れる。

「ろくなもんじゃない!」

 忌々しそうに扉を見ながら吐き捨てた。

 後藤中尉と御宅曹長が、深雪をつれて目指していたのは、ここ――この装甲扉の向こうであることは、もう間違いなかった。

 装甲扉の脇には電子錠の操作函ターミナルがある。

「御宅曹長、深雪ちゃんのこと頼むわよ」

『サワルナ!』

 血のような赤で禁じられた、そのBOXの前に後藤中尉が立つ。

 ピッピッピッ……と電子音も軽やかに、パスワードだろうキーを入力してゆく。

 そして……、

「う! うッ……?!」

 思わず深雪はマスクで覆った顔の下半分を更に両手でカバーしていた。

 ロックを外され、ゴォンと重たい音をたてて扉が開いたその途端、部屋の中から熱気と湿気、そして臭気が身体をつつむようにして、もわっと押し寄せてきたからだ。

 装甲扉は人間がかがんで通れるほどにしか開かれておらず、かつ、扉が開くのと同時に動きはじめた換気装置が全力運転の音をたてているにもかかわらず、である。

(な、なに?! この、ろくに掃除されてない畜舎みたいな臭い……?!)

 鼻が曲がりそうな、しかし、どこか懐かしい――生臭く、汗じみた、温血の獣が発する臭い。

 実家が酪農農家である美雪には、むしろお馴染みの臭いであった。

「3K職場へようこそ」

 肩を叩かれ気がつくと、同じく手でマスクの上をおさえながら、御宅曹長がそう言った。

「さ、行くよ。中尉殿が待ってる」

 背中をとんと軽く押された。

「う、うぇ……、は、はい」

 見れば、どこか黄色味をおびた霞がたちこめる中、一足先を行く後藤中尉がこちらに振り向き、ちいさく手招きしている。

 その様子が、まるで異界へのいざないであるかのように感じられ、深雪は強い悪寒に襲われた。

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