結衣
「ゆ....」
あれ?いつも僕は彼女とどういう風に喋っていたんだろう。
僕は目の前の、近くて遠いような彼女の笑顔をまじまじと見つめる。彼女の瞳の中には紛れもなく僕が映り込んでいた。
セミロングの艶やかなアッシュグレーの髪に、白くて小さな輪郭。大きな瞳に小さな口。
身長は僕の肩ほどまでしかないが、それでも岡田よりかはずっと高い。
「ふぅ...。」深呼吸せずにはいられない。
「ぬ?」不自然な沈黙を経て、結衣が不思議そうに僕の顔を覗き込んできた。
社内の方々では緊張の糸が切れたかのような穏やかな喧騒が森のざわめきのようになだれこんでくる。そのざわめきと言葉の断片の中から、僕は聞き覚えのある浮ついた声を聞きとって振り返った。坂本だ。
「お!結衣ちゃんじゃーん。おっす〜。てか今日微妙に寒くね?」
「よ〜よ〜坂ちゃん。それな!今日こっち暖房入れてたよ!」
「まじか!こっちはデ部長がいるから無理だわぁ。うらやま...。」
「あぁ、山本部長ね、それはどんまいだ〜。それはそうと今日この人どうしちゃったの?なんか変なんだけど、もしかして仕事で何かやらかした?」
「ん?優太はいっつも変じゃん!あ、でもさっきこいつ岡田口説いてたよ。」
口八丁の坂本はこちらを見ながらニヤニヤしている。こいつはどんな会話も物事も、自分の都合のいいように改ざんして利用するのだ。口喧嘩ならまず勝負にならない。ボクシングの試合で平然と毒霧をやってのけるような男なのだ。
「「なっ!!!!!」」
「何言ってんだこのやろー!」
「奥田くん?ちょっとお話ししよっか?」結衣が不敵な笑みを浮かべている。
「はっはっは!ざまあみろ優太!じゃあな!」
坂本は軽い足取りでそそくさと階下へ下っていった。坂本も知っている。
結衣は怒ると怖い。
「…行こっか。」
「は、はい。」
上り始める僕たちは無言だ。
屋上の扉は風の力を借りて勢いよく閉まった。バタン、と。その大きな音は結衣の怒りを表しているような気がして僕は本当にどきりとした。
「い、いや、ちがう、本当にその、あの、誤解だから、えーと、あの、あっ、いや、ちょっと待って...。」焦る。あせる。アセル。
「…ふふ、ふふふ、ははははは。」結衣が笑った。
「優太って焦ると本当に面白いよね。ふふ、大丈夫だよ。怒ってない。どうせ坂ちゃんの嘘八百なんでしょ?あー…、ふふっ、おもしろ……。」
「うん…。はぁ、なら良かった。」ホッと胸をなで下ろす。まぁこれだけの器量がなければ僕たちは坂本と付き合うことはできないだろう。それにしても彼女は時々嘘かホントか分からないようなからかい方をしてくる。
続けて結衣が言った。
「でも本当にそんな事があったら殺すからね?」
「は、はい。」
これは多分ホントだ。ひんやりとした汗が額を流れ落ちた。
「それでさ、今日どうしちゃったの?優太がなんか変なのは本当だよ。体調悪いの?お腹出して寝ちゃいけんってあれほど言ったじゃん。」
全くもって結衣には敵わない。その鋭さも、優しさも。
ふと視線を上げる。今朝、青々としていた空の広がりは嘘のように気だるく、どす黒いグラデーションに支配されつつあった。結衣が僕の視線を追う。
「ありゃ、どうりで寒いわけやね。傘、あったっけ。」お気楽な様子を崩す事なく、彼女はベンチへと座り込んだ。
さあ、変えよう。運命を。
「結衣。」
「んー?」
「今日夜、どこかご飯行かない?」
「ええよん。今日ね、私ね、絶対カレー食べる日なんよ!」
「へへ、そうなの?じゃあ駅裏のあそこ行こうよ。いかにも、って感じの店あるじゃん。」
「わーいわーい。じゃあ仕事終わりにそっち行くね!」
「りょーかい。」
やっぱり、運命を変えるなんて簡単だ。
「優太から誘ってくれるなんて、珍しいね。へへ...うれしぃ。」結衣が笑っている。目も、笑っている。
「あ!もしかして私をご飯に誘うのに緊張してたのかな?おうおう、愛いやつよのう。近う寄れっ。」「あほか。」
結衣ははいつもと何も変わらないし、何気ない会話の一つ一つがどれもこれも愛おしい。
過去に戻れるチャンスは3回。
1回目で彼女が死んだという過去は無くなるとして、それならばあと2回は自分のために使おう。僕の病気は早期発見に至っていれば治療できたはずなのだ。この2回を使えば必ず僕自身を生き返らせることができるだろう。
僕の人生は一度地に落ちた。だけどここから全部ひっくり返してやる。
「ふふ。」
「ぬ?どしたんね、早くお昼食べようよ!この短いお昼休みをいかに有効活用するか、この前談義したばっかじゃん。」
とにかく今日は彼女に付きっきりでいよう。万が一のこともある。
トントン、と結衣が右手でベンチを叩いている。
「ごめんごめん。」
僕は彼女の隣に座った。
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