白き六畳、立つ陽炎

 彼女との思い出を具現化した品々を前にして、当然僕の身辺整理は難航を極めた。

もともと僕はモノを捨てられないタチなのだ。その上、たやすく彼女との感傷に浸らざるを得ないその部屋を整理するという行動は、僕にとってある種の拷問の様にも感じた。

「こんなものまで...」5年前の映画の半券。

彼女との初デートの思い出を、女々しくも大切に取ってある。

流石に気持ち悪いな、と僕は苦笑したのだが、結局それも元あった机の引き出しの中に大切にしまっておいた。

数時間が経過、どうにもこうにも一向に片付く気配のない部屋を眺めた僕は、短い溜息をついた後におもむろにベッドに転がりこみ、瞳を閉じて現実を放棄した。

会いたい。会いたい。会いたい。

 


...............どれくらい眠ったのだろうか。


何の変哲も無い平日に携帯のアラームを掛けずに眠る事ができる。

僕はもう、そういう身分なのだ。

寝ぼけた目をこすりつつ、手探りで携スマホを探していた僕は妙な違和感を感じて跳ね起きた。


「いやいやいやいやいやいや、...................ここはどこだ?」

間取りは確かに僕の部屋そのものだ。だが物が異様に少ない。

視界に入るのは前方に白い扉、左手側に古びた机、そして僕が横になっていたベッドだけだ。

そしてこの部屋は、全体が薄もやに包まれたような、妙に白い明るさに包まれている。

しばらく呆然と部屋を眺めいていた僕はあることに気がついた。


「この机...。」

見覚えのある場所に見覚えのあるシール。

乱雑と不規則に貼られたそのシールは、僕が昔読んでいた少年誌についてきた付録だ。一瞬でそれが何かを理解した僕は机の表面に敷かれたラバーシートをめくり、左下隅にある傷跡を何度も何度もなぞった。

2001.2 ゅぅた 2002.2ゆうた 2003.2 優太 2004.2 優太 2005.2 yuuta 2006.2 yuta 

やっぱり....そうだ........。

ひっそりと、誰にも気づかれないように、カッターで彫り込まれた幼い僕の歴史。

それは僕が小学校を卒業してからすぐに処分されてしまった、6年間を共にした学習机であった。


 あぁそうか、僕は死んだんだ。

妙に実体と感覚を伴ったこの世界は、夢と呼ぶには相応しくない。

この3年間、覚悟は常にしていた。結衣さえも失ってしまった今の僕にあるのは、楽に死ねて良かったという安堵の感情だけだ。

「天国、なのかな。」

少なくとも地獄ではないだろう。

地獄であればきっと今頃、赤と黒だけの世界の中で、無理やり針の上でタップダンスをさせられたり、灼熱の釜でじっくりコトコト煮込まれたり、意味もなくケツをしばかれたり、あとは...

とにかく、痛み、辛み、苦しみのすいを凝らしたフルコースを、余すことなく全身で受け止めているはずだ。意外な天国の実態を感じながら、僕は早くもこの世界の中で生きることにワクワクし始めていた。

「外には何があるんだ?」足早に玄関へと向かう。

ここまで安直に死を受け入れ、切り替えられる薄情な人間なんて僕くらいだろう。

僕の絵を描くのであれば、薄い青で全身を塗り潰してしまえばいい。


お腹は空くのかなあ、靴ってあるのかなあ、などの平凡なことを脳みその0.1%ほどの容量を使いながら考えていた僕は、思いも寄らず鳴り響いたそのインターホンの音に飛び上がった。

心臓が止まるかと思った。いや、もうそんな物は無いのだろうか。少なくとも3センチくらいは本当に浮いていたであろう。


ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン

ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン


現実世界なら間違いなく迷惑行為だろうし、いつもの僕なら確実に無視を決め込む。

しかし、何度も鳴り響く無視し難いチャイム音にどぎまぎしつつも、ついに覚悟を決めた僕は尋常じゃないほどスローペースで扉を開いた。


「あ、やっと出ましたね、ひひひひ、どうも初めまして。このマンションの管理人をしている、宮本と申します。」

ヒョロリと痩せた、顔色の悪い長身の男がゆらゆらと陽炎のように立っている。


「終わった...」

情けない声で僕はそう呟いた。

直感が言っている。死神だ。

ドクターキリコの様なその不気味な男は、こちらを見ながらニヤニヤと笑っている。

さっきまで99.9%がお花畑だった僕の脳内は、一瞬で失意と恐怖の青と黒で冷たく塗りつぶされてしまった。恐らくこれから、とんでも無い所に連れて行かれる。ははは。

仮の姿であろう、スーツを身に纏ったその死神はたて続けてこう言った。


「奥田優太、27歳。あなたの居住手続きを行います。」

ぬうっと僕の顔を覗き込見む。

目を合わせないように僕は恐る恐る尋ねた。


「居住手続き...?いや、あの......僕は死んだんですよね?い、今から地獄へ行くのですか?」

「いえ、あなたはまだ亡くなっておりません。今日からきっかり一ヶ月後、厳密には5月25日に病気で亡くなります。貴方が一番よくご存知の病気で、です。まあの話ですけど、ひひひひひひひ。」


何を言っているのだ、この男は。

「え...あ、はい?いや、じゃああの.........ここはどこですか?」

依然僕は蛇に睨まれた蛙の様にぷるぷると震えている。

「あなたの夢の中です。あなたはこの1ヶ月間、夢の中でこのマンションに帰宅していただきます。」

「え?あ、いや、その....意味が分からないのですが.....?」


「佐々木結衣を、救いたいとは思いませんか?」


やっぱり僕にはまだ、熱く鼓動を刻む心臓があるらしい。

彼の突然のその言葉は、確実に左胸の奥にグサリと突き刺さった。

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