死ぬのは誰だ。

 何か、言っている。

じっとりと汗ばんだ見慣れた小太りが、何かを言っている。生暖かく、重たい空気の淀みを感じつつ窓の外へ顔を向ければ、いつもと同じコンクリートの並びの中を細長い雲が悠々と流れて行くのが見えた。


「昨晩、当社の校閲部に所属する佐々木結衣さんが、交通事故に遭われて亡くなりました........非常に悲しい事であ....詳しいことは..........通夜や..いず....遺族の...........や........、................、..............................」


グニャリと視界がねじ曲がり、見えるもの全ての輪郭と色味が失われてゆく。動悸は早く、呼吸をすれども上手く酸素を取り入れることが出来ない。汗をかけばかくほど、冷たくなった。

やがて僕は声にもならない声を、絞り出した。

「あ、そ......え?死ん...え...誰、がですか?」理解出来ない。出来る筈がない。

周囲が僕に向ける、いっぱいいっぱいの憐憫の情がその答えだった。

僕と佐々木結衣が付き合っている事は周知されている。

いや、知らない方がおかしいだろう。結衣は部署が違うのにも関わらず、昼休みになる度に僕のデスクまでやって来て屋上へと僕を引っ張ってゆくのだ。次第に彼女自身も持ち前の明るさとユーモアで周りとどんどん打ち解けてゆき、いつしかうちの部署の人気者になっていた。それ程に人を惹きつける何かを持っていたのだ。

山本部長がまだ何かを話している。僕は目の前の神妙な面持ちをした小太りが結衣が殺したかのような錯覚に陥り、内側から一瞬、赤色の感情が湧き出るものを感じた。


「......い....先輩!...先輩!」どこかから聞こえてる鳴くような声で僕は現実に引き戻される。

「あ...ああ..岡田か。」

直属の後輩である岡田が目の前に立っていた。

ウェーブがかった栗色のショートヘアーに整った小さな顔、華奢な肢体をした彼女は、「超」が付くほど人懐っこく、特に結衣を慕っていた。「超」お人好しの結衣と合うところがあったのだろう。隙あらば結衣を独り占めせんと、岡田はよく僕たちの後ろをチョコチョコと着いて来た。

僕はある時「同性愛者なのか?」と真面目に尋ねたこともあったが笑って一蹴された。

そんな岡田が目の前で大粒の悲しみを垂れ流している。濡れた仔犬の様に肩を震わせながら俯いている。

「本当に、結衣が、佐々木結衣が死んだのか?あの、結衣が...。」

「...っく............ひ....っぐ..............は..い...。」

受け入れることは出来ずにいたが、ふと一瞬冷たい感覚と共に嫌な想像が頭をよぎった。

「事故...なのか...?本当に...ただの...」

何かを察知したかのように、その仔犬は俯いていた顔を上げ、濡れた瞳で僕を真っ直ぐ見る。

「............なにか....結衣さんとあったんですか?」

僕はこの目に弱い。今度は僕がその視線から逃げるように俯き、黙り込んでしまった。

「あ、でも、いや、その...今じゃなくていいんです.....あの...えっと...。」

岡田は一生懸命僕に気を遣おうとしている。痛いほど伝わって来た。


岡田のデスクには、食玩のフィギュアが規則正しく並んでいる。

「ネコリーマン」スーツを着た猫のキャラクターだ。日本のクリエイターは猫に奴隷精神を植え付けて、勤勉に働かせるらしい。僕には理解できないが若者を中心に大人気らしく、渋谷に新しく出来たグッズショップに行きたいと、何度も結衣にせがまれていたのを思い出した。結衣のデスクにも同様にフィギュアが並んでいたはずだ。

「ありがとうな...岡田。でも、いつまでもそんな顔するな。」実際はどんな顔をしていたのだろうか。無理やり作った僕の笑顔を見て、岡田は再び涙を零した。


窓の外に見えていた筈のお気楽な雲の群れは、もうどこにも見えない。

とにかく吐き気と目眩がする。

「ちょっとだけ...屋上に行ってくる。」

「え...、はい...................................あ.....あの!!」

「大丈夫、飛び降りたりなんてしないから。」

今日一番の自然な笑みを少し零すが、その言葉に重みがないことは自分でも気がついていた。鞄の中からスマホだけを手に取り、仲間に背を向け少し歩くと、自分がさっき乗ってきたエレベーターが目に入った。


階段で行こう。今度は吐き気どころじゃない、確実に吐いてしまう。

既に始業していたが、僕の背中に声を掛ける者は誰も居なかった。

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