相も変わらず
じんわりと、命がすり減ってゆく。
余命宣告を受けた日から、息を吐くたびに少しずつ魂が抜けていくような、そんな気がしていた。
昨日はどうやって帰途についたのか、気がつけばいつものベットの上にいた。疲れて眠ってしまったのだろう。しかしながらどうやら昨日も生き延びたらしい。僕は静かに起き上がりカーテンを開けた。部屋の中にぼんやりとした灯りが広がるのを見ると、恐らく昨日よりかは天気が良さそうだ。いや、昨日も朝は天気が良かったっけな。
掛け時計が指す、7時25分。僕はその右隣りにある物をしばらく見ていた。彼女との記録を散りばめたコルクボード、思い出の中で僕達はいつも笑っている。「次の写真はここやね。」とあの日彼女は微笑んだ、その空白が埋まることは二度と無い。改めて部屋を見渡して僕は苦笑いした。彼女から貰ったものがどれほど多い事か。
一ヶ月前に辞表を出した。
遅かれ早かれそうするつもりであったが、長くても宣告の3年を一つの区切りにするつもりだった。そう考えると結局、身体はよくもってくれたものだ。どうせ余生を送るなら、僕は海が見える静かなところで過ごしたいと常々考えていた。とにかく、誰かの記憶の中では死にたくない。
そして今日が最後の出勤日。
満員電車も、上司に怒られるのも、仲のいい同僚や後輩と他愛無い話をするのも、ましてやスーツを着ることさえも今日で終わりなのだ。そう思うとただただ切なくなる。余命を宣告された人間がその後、どうやって生活し、沈んでゆくかなんてのは勿論その人次第だ。そう理解はしていても、自分の選んだ終わらせ方はやはりあまりにも孤独で、静かだ。きっと僕の病気の事を僕以外の誰も知らないからだろう。
スマホを手に取る。ラインの通知は40、着信20件。恐らく結衣からだろう。確認する勇気がなかなか出ずに僕はスマホをそのまま鞄に入れ、会社へ向かった。
職場は西新宿駅から歩いて20分位の所にある小さなオフィスビルの中にある。
ほとんど毎日駅から歩いてきたこの道は、この5年間全く変わる事は無かった。
5年前からすでに古かった謎のブティックは未だに健在だし、経営が心配になるほどいつもサービスしてくれる弁当屋のおばちゃんは、相も変わらずニコニコしながら店先で小学生に挨拶をしている。だいぶ遠くにいる2つのランドセル姿は、何かを楽しそうに蹴っていた。
僕だけは確実に変わってしまった。表から裏へ。白から黒へ。晴れから雨へ。生から死へ。
どんなクジ引きでも3等以上を当てたことは無かった筈なのに、数万人に1人という病には見事当選。その上その病気は「沈黙の臓器」と呼ばれる僕の内側が、大音を上げて泣き出す程のレベルまで発見が遅れてしまったのだ。医者は「あと1年早く検査を受けていれば。」を何度も繰り返し、遠回しに僕に「死ぬしかないね。」と親切に教えてくれた。
ビルに入ると生温い空気と独特の匂いが僕を包む。形容し難いこの気持ち悪さとも今日でオサラバだ。いつもの様に恰幅の良い警備のおじさんと会釈を交わし、エレベーターを待っていた僕はやはり結衣のことを考えていた。
同じ出版社に勤めているとは言っても彼女は4階の校閲部、僕は5階の企画営業部。
もともと他人に戻ってしまえば接点は殆ど無い上、僕は今日で退職なのだ。積極的に彼女に会うことは今後一切無いであろう。僕が死んだ後どこかで元気ならばそれで十分だ、なんて前向きに理解しようとはしていたが、人間はそこまで強くは出来ていないのだ。1%のポジティブだけで、99%の黒と青をラッピングすることが出来ればどれほど生きやすい事だろうか。
シンプルに言えば会いたい。しかし、数万分の1の僕にはもう二度と出来ない。
「はあ・・・。」
また少し、魂が空気に溶けてゆく。
そうこうしているうちに軽いベル音が鳴り響き、僕は僕の為だけにやって来たエレベーターに乗り込む。エレベーターの匂いにも吐き気がする。しかし今日だけはその匂いの中に、どこか懐かしく、愛おしいものを感じた。
目的の階に着いた事を知らせる無機質な自動音声を聞きながらエレベーターを降りた僕はオフィスに入る前に立ち止まり、大きく深呼吸をする。何はともあれ、今日が僕の社会人最後の日なのだ。
「今日で終わり.....終わり.....。」
第一ボタンよし。ネクタイよし。
いつものように扉を引き、いつものように自分のデスクを目指す。いつものように、いつものように、いつものように、デスクについた僕はいつもとは違う不穏な空気感にやっと気がついた。
オフィスにいる全員が何故か僕を見ている。
結衣が死んだ事を知ったのはその10分後の事だった。
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