夢見が丘ワンダーランドB
St
4月24日
「何も言わずに別れてほしい。」
そう告げてからもう何分経ったのだろうか。
とん、とん、とん。
誰かのため息を固めたようなその薄暗いグラデーションはついに水滴をこぼし始め、プラスチック製のベンチが音を立てている。
薄白く色褪せ、端から中央にかけて落雷の様にひび割れたそのベンチは三年前に会社の地下倉庫から2人でこの屋上まで引っ張り上げたものだ。
昨日まで二人で座っていたはずのこの思い出深いベンチには、もう誰も座ることはないだろう。
じわり、じわりと水滴にコーティングされてゆくその郷愁のオブジェを見ながら僕は、彼女に涙を見せないように必死だった。
ポツリ。
また一つと落ちた大きな水滴が、彼女の頬を緩やかに撫でて一点に溜まり、やがて足元で聞こえない音を立てていく。今となってはそれが彼女のこぼした物なのかどうか分からないが、とにかく僕は何度となくそんな瞬間を見つめていた。
優しさを帯びた水滴は、僕たちの無音を掻き消すかのように次第に強くなってゆく。
その全ての振動を僕たちは受け止めることしかできなかった。
「うん...分かった。」
無理やり作った笑顔で彼女はこちらに向き直す。
右手で少し鼻を触る、嘘をつく時の彼女の癖。目は合わない。
夕方は学生の通学路となるこの足元の路地では、色とりどりの小さな傘の花が咲き始めている。
屋上から見下ろすその世界に、僕は二度と生きられないような気がした。
彼女を愛している。だからこそ、これが答えなんだ。
「結衣、今まで、本当に.....ありがとう、じゃあ...バイバイ。」
僕の視界は溺れ、抱えきれなくなった水滴はついにこぼれ落ちた。彼女に背を向け、僕は足早に階段の方へ向かってゆく。背後から悲鳴にも似たような聞き慣れた声がしたが、聞こえないふりをした。
その日は4月24日、月曜日。
僕が余命3年という宣告を受けてから、ちょうど4年目を迎える春の日だった。
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