第3節-D

 オリヴィアと名乗る外国人らしい女性は部屋に入ると、マネージャーらしいスーツの男に大きなソファを室内に持ち込ませて畳の上に置き、足を組んで座っていた。いくら客とはいえ初対面の人間にこんな態度を取るとはどういう了見だ、と思いつつもしぶしぶ部屋にあった茶菓子とペットボトルに入った緑茶をコップに移してちゃぶ台に置き、突然の客人を迎える準備を整えた。


 「庶民らしい汚らわしい部屋ね。とはいえ私に、如何に粗末であっても茶菓子を用意する礼節は認めましょう。あなたも私と対等な目線で喋る事を許します」


 マネージャーはもう一ついかにも高級そうなソファをオリヴィアの対面に置くと、そそくさと部屋を出て行った。清田がおずおずと座ってみると、ほどよい堅さの座り心地と革の手触りにしばらく恍惚としてしまった。だが、ソファによって何処かへ飛ばされていた意識はオリヴィアの声によって呼び戻される。


 「手早く本題に入りましょう。私はあなたを株式会社フューションの接続者部門にスカウトしに来たの」


 「フューションねえ。俺が木村とかいう奴のマスターF細胞を破壊したせいか?」


 「きっかけはそれね。入り口でF細胞を使用した通り、私も接続者として一年前に覚醒したの。木村も半年前に覚醒して訓練を積んでいた尖兵だったのよ。それがつい最近覚醒したであろうあなたに敗北したんだから、東雲社長も相当気に入ったんでしょうね。あなたはまだF細胞の機能を五割も使えていないのに、センスと戦術で半年分、いや時間的な密度で言えばそれ以上の経験を埋めてしまった」


 清田はここまでの話を聞いて、何か悪い夢でも見ているのではないかと思い始めていた。確かに客観的に評価するならばこの戦果は番狂わせである。本来ならば半年――正確にはその半年で人生をF細胞を使用する訓練に明け暮れた過去に書き換えてしまった尖兵を、たかだか数日訓練しただけの素人が撃破してしまったのだ。木村の油断に付け入り冷静に交渉をし、背後に存在する発電機に目をつけて陽動として使うプランを練って、最終的にそれを成功させて木村を排除する。確かに常識的に考えればこんな事を初陣でこなした人間をスカウトしない手は無い。何せアーエロンを使用した接続者は世界に数える程しかいないのだから。

 だが清田にとってあの戦いはもう思い出したくも無い程の手痛い敗北である、というのはもうお分かりの通りだし、そんな戦闘を評価されても一つも面白くないのは当然のことである。


 「そりゃあなた方からすればあの戦闘はそう映るかもしれないが、俺からすればあんなの負けだ。人質を助けられなかった。俺はあなた方の思う程頭が切れる人間でも、センスのある人間でもない。生憎だが、そのオファーを受け容れる事は出来ない」


 「ふうん。あの西野って科学者への義理でそう言っているなら、気にしなくて良いわよ。私達は優秀な人物に対しては最大限の配慮をする。フューションに所属した際は当然木村を殺した事について追求する事も無いし、あなたが西野に命を狙われても私や仲間が奴を始末するサポートをする。或いはあなたがこの戦いが終えた後、自分をお払い箱にするんじゃないかと思っているならその心配も無用よ。フューション内部で重役に就任出来るのはもちろん、それが不満ならあなたの望む職場への斡旋もする契約になっているわ」


 「そういう問題じゃ無いんだ。俺からすれば茜を助けられなかった、それだけであの戦いは忘れたい過去になっているんだ。当然これ以上戦う気も無いし、F細胞を使う気も無い。分かったら出て行ってくれないか。これ以上の交渉はあなたにとっても時間の無駄だろう。その菓子を食べたら……」


 「フューション側についたら茜さんが蘇る可能性がある、と言っても?」


 清田の目が見開かれ、オリヴィアの青い瞳に視線が注がれた。それでもオリヴィアは態度を一つも変える事無く、持参したらしい紅茶を一服する。ティーカップをちゃぶ台の上に置くと、オリヴィアは立ち上がりながら口を開いた。


 「マスターF細胞に記録されたデータはね、簡単に他者の脳に移植出来るの。移植したい人間の記憶をF細胞を使って消去した後、アーエロンでその人間の脳をフォーマットする。これをする事によって、空白のF細胞を持った人体を作れる。あとは細胞ハックの容量で空白のF細胞に自分のデータを書き込めば良い。現に私の身体も、とある海外のトップファッションモデルになるはずだった女性から拝借した物だしね」


 オリヴィアは他者から拝借したというその豊満な胸部とそれに見合わないほど細い腰、そして理想的な膨らみを帯びつつも長く伸びた足をゆっくりと動かし、癖一つない長い金髪をかき分けながら清田の目の前で立ち止まる。そしてこの時、清田は思い出した。このオリヴィアという女性は海外のトップモデルとして活躍する傍ら、サイドビジネスで巨額の富を持つ成功者である事を。そしておそらく彼女こそ、東雲が語っていたテスト段階のアーエロンを使う事で現代を成り立たせている人間の一人なのだ、と気付くまでにそう時間はかからなかった。


 「本題はここから。これを応用すれば既に死んだ人間の記憶を自分のF細胞の一部に保存した後、過去にいる現代まで生存する他者の記憶を抹消。それからさっき言った手順を踏めば死んだ人間が蘇るという仮説が立てられた。もちろん一人のF細胞に二人分の記憶を詰めるのだから少々苦痛は伴うけど。……そして今、この仮説を証明する為のテスターを茜さんにする事を東雲社長は検討している」


 清田はこの言葉に、まるでオリヴィアの身体全てが清田に語りかけてきている様な錯覚を覚えた。本当かどうかは分からないし、そもそもオリヴィア自身がそんな事をしていない可能性もある。だが、万が一にも茜が蘇る可能性があるならばそれに賭ける他に道があるだろうか? 清田が自身にそう問いかけた時、他に道筋が無い以上フューション側について茜の復活まで動くしかない様な気になった。

 何よりこのまま寝転がり時間を潰していても何も起こらないし、だからと言って西野に協力してもそれは茜が死んだ現在を継続する事になってしまう。清田はそう思うが早いか、早速オリヴィアに協力を約束しようとした。


 (待って!)


 だがその時、例の幻聴が清田を襲う。しかも今回は清田の名を呼ぶ物では無く、茜が明確に清田を止めようとする物である。頭痛を伴ってやってきたその声は、清田をまた冷静な状態に引き戻すには充分だった。

 思えばこの言葉にもまた確証は無いし、西野の発言によると過去を改変し続ければこの現在自体が消滅すると語っていたではないか。すると、結局のところ未来改変に手を貸す事で茜はおろか自分自身すら消滅してしまう可能性も充分ある。

 この時ほど清田は自らの無知を呪った事は無かった。どちらの選択肢を取るにしても情報が少なすぎて明確な答えが存在していないのだ。


 「さあ、どうする? フューションにつく? それともこの部屋の中で寝そべったまま死ぬ?」


 「……申し訳ないが、色々と情報が増えて混乱している。明日まで待ってはくれないか?」


 清田はとにかく考える時間が欲しかった。そして、より良い結果を選びたい。その思いが、この問題への解答を先延ばしするという結論に至ったのである。


 「じゃあ、一日待ちましょうか。ただし期限は明日の十一時。そこで決断して下さいね。では、失礼しました」


 オリヴィアは二人のマネージャーに二つのソファーを持たせ、部屋から出て行く。彼女はその寸前に彼女はもう一つ付け加えた。


 「ああ、そうそう。もちろんですけど、この件は西野さんにはご内密に。もし伝えた時点で、私はあなたのマスターF細胞を破壊しますので」


 清田は部屋を出て行くオリヴィアを見送ると、窓の外を見つめる。屋外は雲一つ無い晴天、人出もまばらである。清田は茜が死んでからと言うもの、西野や先ほど訪れたオリヴィアなどの例外を除いて誰とも喋っていなかった。しかし、今は誰かにこの問題を相談したかった。もちろん現実的に考えてそれをすれば面倒な事になってしまう事も分かっている。ならば、せめて誰かと喋っていたかった。その内容は何でも良い。とにかく何かを喋りたかった。このまま一人でいても、清田はこの現実の重みに堪えきれる様に思えなかったのだ。


 そして、その喋り相手は彼の脳の中にある光を纏った本の中にしかいなかった。


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