第3節-B

 「私が電車で轢かれた時、すぐに起きちゃったんだ。けど、もうよく分からなかった。痛かったのかすらも分からないうちに、私は目覚めた」


 清田の脳裏には激しい雑音が走っていた。それはかつて西野からF細胞を通して送られてきたメッセージだった物である。喧騒の中である一つの音を聞き取ろうとすればそれ以外の音は完全なノイズと化してしまう現象は、夢の中で再生される記憶でも健在であった。


 「その時、本当なら私は死んでいたのだと思う。これは初めて話すんだけど、私は死にたかった。だから、あのおばあちゃんを線路から出した後私は転んだ。そして、目の前まで電車の光が……」


 この時、布団に包まれていた清田の身体が跳ね起きた。彼の身体は高校生のものでは無く、だらしなく成長したそれになっていた。贅肉も無ければ筋肉も無い、ひょろりとした肉体とだらしなく伸びた髭。黴臭い寝台から起き上がり、洗面台に備え付けられた隅の錆びた鏡を覗けばその情けない全容を見る事が出来たが、それは昨晩見たばかりである。そして、高校生の頃に比べて明らかに衰えた自分を見る事は彼にとって大きな苦痛だった。

 寝台の隣には、コンビニで調達したらしいツナマヨネーズのおにぎりと五百ミリリットルのペットボトルが置かれていた。中身は緑茶の名を冠した清涼飲料水である。十年の月日はツナマヨおにぎりをより劇的な味わいに変えたのかもしれないが、その間に失われた命は戻ってこない。


 (清田君……清田君……)


 清田は頭を押さえる。木村という男との戦闘が終わり、茜の死にショックを受けた清田のマスターF細胞は西野によって現在へと強制的に呼び戻された。その後、彼はこうして地下の隠れ家に寝かされている。あの戦闘の後から、ずっと脳の内側には針で刺される様な頭痛と茜の声が響き続けているのだ。おにぎりを食べても少しすれば吐き気に変わってしまう。あの時死んだはずの茜がずっと頭の中で騒いでいる様な感覚は、ともすれば清田自身を狂わせてしまうには充分だった。それでも狂えなかったのは、吐瀉物を和式便所へぶち撒けた後に飲むカルキ臭い水道水がいくらか彼の正気を保つのに助力していたから。その理由は彼の中でも不明瞭であったが、とにかく水を飲むと落ち着きが戻ってくるのである。かといってあまり飲み過ぎれば別の吐き気がやってくる事を彼はよく認識していたので、両手ですくい上げた水を三杯飲む程度に済ませていたが。


 「清田、調子はどうだ?」


 気がつけば、西野が洗面所にやってきていた。清田は視線を西野の方に向ける事無く回答する。


 「食べ物が何も喉を通らないし、目を閉じればすぐにあの過去で茜が死んだ映像が流れ出す。もう身体がメチャクチャだ」


 「そうか。とはいえ、これからもお前を頼りたいと思っている。あと三日は休む余裕はあるが、それからは五年前に戻ってもらわないと四月三日のアーエロンスペース奪取に向けての時間が無くなってくる。我々もしばらくはゆっくり休んでもらいたいが……」


 そこまで西野が言いかけた時、清田は右腕を大きく振り払い隣に立っていた西野を遠ざける。清田の目は血走り、息は鋭く荒い。誰の目にも清田がおかしくなっているのは明らかだった。


 「うるせえよ。茜はあの後どうなった? 木村のマスターF細胞は破壊した。俺は木村を殺してまで茜を助けようとした。なのに茜は死んだ。今なら木村のいない過去に戻って茜を助けられるかもしれない。けど、お前は茜を予定通り電車に轢かれて死ぬ様にしたいんだろう?」


 西野は、自分が話そうとしている事は概ね清田に読まれてしまっていると考えざるを得なかった。当然ながら西野としては、茜に生き延びられてしまうと致命的なカオス・モーメントの増幅に繋がってしまう為、何としても避けたい。だがそれを、茜を助けられなかったと精神をおかしくしている清田に依頼するのはあまりにも危険すぎた。しかし今は、本来であれば西野はアーエロンスペースをハッキングし続ける為にデスクの前にいなければフューション側の戦力と均衡を保つ事すら難しい危急の事態である。


 この中で西野が下した判断は、一度清田を自由の身に戻してみる賭けに出る事だった。


 「本当に申し訳ない、清田君」


 西野は懐から注射器をおもむろに取り出し、清田の右腕に注射した。もちろん清田もそれに抵抗しようとしたが彼の運動能力は明らかに鈍りきっていたし、過去に干渉する能力も彼の生きている現在では全く役に立たなかった。結局清田は西野に対して恨み言を吐きながら、タイル張りの床に倒れ込む他無かったのである。


 「西野、またお前は……」


 清田がゆっくりと瞼を閉じていく様を確認すると、西野は彼を背負い地上に出た。その後車を回し、手早く彼の住んでいたアパートの一室に眠り続けている彼を寝かせる。


 (西野さん、本当に良いんすか?)


 西野の脳に北山から通信が入る。交代でアーエロンスペースをハッキングし続けるシフトを一時的に延ばしてもらっている手前、西野としてもこの作業に手間取っている訳にはいかなかった。すぐに彼の部屋に鍵をかけた後、車に乗り込み隠れ家へ急ぐ。


 (仕方の無い事だ。あの戦いの後に私が茜さんを電車に轢き殺される正史に戻したなどと言えば、彼は余計に取り乱す)


 (にしたって、あんなに疲弊してる清田に西野さんがご執心なのはどう言う事なんすか? 別に他の人間を見繕って、そいつにF細胞の使い方を学ばせたって良いでしょ)


 西野はしばらく車を運転し、渋滞にハマる事も無く隠れ家から少し離れた駐車場に停車した。それから隠れ家に向かう最中コンビニで食事を買い、人目を盗んで地下へと潜り、階段を降りた。


 (私の推測では、清田は特殊な人間だからこちら側で育てるべきだ。そうでなかったとしても、今から別の人間を過去からスカウトするのは危険だ)


 (そりゃあフューションがF細胞を使える人員を着実に増やしてる事があの木村とか言う三下の登場で分かっちゃいましたからね。今から捕まえようとしてもフューション側の人間と鉢合わせしちゃうリスクはあるっすけど)


 「つまりはそういう事だ」


 コンピューター室に入った西野は、中で作業を続ける北山に声をかけた。いくつかのコンピューターが設置され、確認された接続者の写真が貼られた黒板の前で作業を進める北山が西野の声がする方向を向く。木村の写真には大きく×がつけられ、それ以外にも多くの顔の上に×が上書きされていた。


 「案外早かったっすね。あと、ついさっきアーエロンスペースを攻撃する自動プログラムも完成したんで自分らの行動範囲も広げられるっすよ」


 「ご苦労。やはり君の持つ二十二年後……現代では四十六年後のプログラムとマシンスペックなら力量差は歴然だな。私は現代のハッキング状況を監視した後、過去にアクセスした接続者達を始末しに行くが君はどうする?」


 「それなら西野さんは先に過去に飛んで接続者を始末しててもらって良いすか? 僕はもうちょい現代の様子を見守るつもりなんで。それから西野さんが戻り次第未来の様子を確認しに行くっす。あ、無論休みは取るんで」


 「承知した。くれぐれも無理はしないで欲しい」


 北山は西野の買い込んできた栄養食をかじりながら、もう一度パソコンに向き直った。そして西野もまた別室へ向かおうとする。だが、その前に北山は西野を呼び止めた。


 「ちなみに、もし清田がフューション側に寝返りでもしたらどうするつもりなんすか?」


 「それならそれで清田を無力化するのは簡単だ。茜の死をフラッシュバックさせてやれば奴は行動を停止するんだからな」


 西野はそう言い残し部屋を後にした。コンピューター室に残った北山は、おお、恐い恐いと呟きながらパソコンに向かい続ける。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る