第3節 現代への逃避

第3節-A

 東京の夜は2042年になっても明るいままであった。かつては石油燃料が消滅するとか、地球温暖化によって人類は破滅すると言う様な言説まであったのに、世界はそれほど変わっていなかったのである。子供の書いた未来予想図にある様な輝かしい未来も無ければ、終末論に見られる様などうしようもない未来も無かった。ただ、そこにあったのは衰退に等しい停滞である。


 「失礼します、東雲様」


 株式会社フューションの本社ビル最上階、社長室で下界を見降ろしていた東雲史郎に、背後から男の声がかかった。右腕に赤い蛇の刺青を入れた青いアロハシャツを着た男は一応頭を下げている。だがその飄々とした態度に東雲への敬意はあまり感じられない様に見えた。


 「……清田敦は排除出来なかったか」


 「申し訳ありません。木村は次期幹部候補生筆頭だったのですが、少々快楽主義的な面がありまして。実力としては申し分無かったのですが、彼の遊び癖を軽視していました」


 東雲は井上と呼ばれる刺青の男に向き直る。東雲の眼が井上を睨んだ時、井上は烏に狙われた芋虫の様にすくみ上がり、刺青の表面には鳥肌が立ち上がる。


 「油断する程度の人間だった事は、百歩譲って仕方無かったとしよう。清田敦を排除出来なかった事にしても万が一は起こる物、だからこそ許す心構えは出来ていた。だが、あの人質を取るというやり方は感心しないな。それも奴が独断でやったのか?」


 「ええ、奴の独断です! 彼は私が再三イレギュラーが起こる可能性がある仕事だと注意したにも関わらず、新人の相手をするつまらない仕事とまで大口を叩いた上にあんな下策を取った! 至極残念な話ですが、次は……」


 「もう良い。貴様は井上グループの運営に戻れ」


 井上は申し訳ございませんでした、と大声で叫んだ後社長室を早足で出て行った。それから部屋を出て行った井上と入れ替わる様に、ヒールの鋭い足音が社長室にやってくる。その足音の主はモデル体型で色白、かつ痛み一つ無い長い金髪を持ち、碧目をサングラスで隠す美女であった。彼女は深々と一礼した後、口を開く。


 「オリヴィア、ただいま参りました。今日のご用命は?」


 「聞き及んでいるだろうが、木村が清田敦という接続者にF細胞を消去された。お前には清田の元に向かってもらいたい」


 「仰せのままに。迅速に清田敦を排除して参ります」


 オリヴィアは井上より下された指令を聞き届けた後、社長室から足早に立ち去ろうとした。だがオリヴィアが井上に背を向けた時、彼女は井上に呼び止められる。


 「待ちたまえ。私は彼を殺す気は無い。むしろ、我々の仲間に加え入れるべくスカウトをしてほしい」


 オリヴィアが井上に向き直った時、その表情はいくらか驚きの様相を見せていた。彼女にとってその依頼は全くの想定外であった。まさか井上がその様な穏便な手段を執ろうとは夢にも思っていなかったのである。


 「何故その様な事を?」


 「私はあの清田という青年と木村の戦いを観測した。彼はまだF細胞の半分も使いこなしていないがそれを機転でカバーし、見事木村の隙を突き勝利している。彼にとってはあの戦闘結果を不本意極まる物として捉えているだろうが、私にとっては逆だ」


 内心オリヴィアは、この男は何を言っているのかと疑問に思っていた。彼女からすると油断した存在を討ち取ったところで、それを評価するのは早計であると感じてしまったのだ。彼女もまたあの戦いを観測していたが、その勝負と言えばあまりにも粗末である。木村は快楽の為に人質をいたぶる様な態度を隠そうともせず、彼自身が陽動として用いた警報はどこからかアクセスされた他者のハックがきっかけであり清田の実力では無い。そして何よりもっと訓練さえしていれば、あの人質を助ける事もまた容易な事なのだ。プロテクトのかかっていないマスターF細胞を破壊する事など彼女にかかれば1秒とかからない。

 だがそんな本音を表に出す事無くオリヴィアは微笑み、深く辞儀をした。


 「承知致しました。しかし、そんな簡単に彼が我々に所属するでしょうか? 仮にも我々は恋人を殺した宿敵だと思いますが」


 「それに関しては問題ない。彼のバックについている人間達はこういうイレギュラーに対して弱い事は私が一番よく知っているし、彼がほぼ確実にこちらに来てくれる殺し文句も教えておこう。明日午前十時、彼の元を尋ねてくれ」


 命令を聞き届けたオリヴィアはもう一度深く辞儀をすると、社長室を出て行った。そして、一人になった東雲はぽつんと一つ呟いた後、瞼を閉じ過去へのアクセスを始める。


 「西野、貴様では南源を超えられん……」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る