第2節-E
教室には誰もいなかった。だがこの時間帯に正体不明の違法接続者がいて、茜の安否が分からない事がひたすらに不安であった。当然放課後になったら自分を待っているはずの昇降口前に、茜の姿は無い。何者かは明らかに彼女を狙っている様だった。
もちろん茜を狙った人間に殺されていなかったとしても、これからみすみす茜を電車に轢かれて死なせたくは無い。しかし彼女の死を全く別の物にしてしまうのもまた清田にとっては不本意だった。
清田は精神を集中させ、いくつかの不確定な未来を同時に観測する。街中にはいない。商店街にも、あの踏切の付近にもいない。そして観測の結果、茜がいたのは清田が全く予想もしていない場所であった。清田の足はまた学校に向き、階段を駆け上る。彼が目指したのは屋上、普段は鍵がかかっていて絶対に立ち入る事の出来ない場所である。だが屋上への行く手を阻む磨りガラスの扉は破壊され、その先にはちょうど夕日を背に二つの影が立っていた。そのうちの片方はセーラー服を身に纏った少女、すでに観測済みの茜である。
「おっ、早かったジャン。清田君よぉ、過去の旅はどうだった?」
「茜を離せ。お前が誰だか知らないが、茜に危害を加える事は許さない」
「へぇ……? カッコいいなァ」
影は茜の首筋にナイフを近づける。清田は茜に接近しようとしたが、そのナイフのせいでそれ以上に近づく事は不可能になってしまう。そしてどんなに未来を見ようとしても、全ての未来は黒いもやに包まれた様になっている。これが西野の語っていたカオス・モーメントである事は清田も感覚的に認識していたし、確実に彼女を救い出す方法は分からないままである。
恐怖のあまり目を見開いたまま立ちすくんでいる茜を、そして未来が見えない故に動きようの無い清田を弄ぶ様に影は首筋にナイフを突き立てた。
「とりあえず自己紹介しとくと、俺は木村徹。東雲さんの指示で今日はお前を殺しに来たんだけど、お前はこのオンナが死んでからずっと何もしねえで生きてきたんでしょ? だからさ、俺はコイツとお前を一緒に殺してやろうと思ったの。お情けで心中させてやろうって事。どうよ、この提案」
清田は怒りに我を忘れ、木村の脳細胞をハックして殺してやろうとした。だが、その直前で彼は思いとどまる。喉元にはもうナイフが数ミリと無い状況でそんな事をしても、敵がハックを感知した瞬間に先手を打って茜を刺殺出来る。そうなれば何の意味も無い。彼は頭の中にインプットされた西野の言葉を思い出した。
(清田。最初に教えておくが、接続者同士の戦いになったらまず先手を取った方が勝つ。この中での先手ってのはハッキングを先に仕掛けた方……ってのもあるが、精神的優位も含めての話だ。例えばお前が人質を取られたなら、その時点で九割方お前は人質の命を捨てなければならないという心構えをしておけ。何故なら人質を取った接続者はほぼ間違いなく、人質を助けようと下手を打ってきた接続者を逆ハックしてマスターF細胞を消去する事を狙って人質を取ってる)
西野の言葉を思い出しながら、清田はじりじりと木村に接近しつつ声をかける。西野の言葉はこの後、こう続くのだ。「人質を取ってる奴は、油断している隙に接続者本体を狙え。人質はハックの瞬間に殺されるだろうが、諦めろ」と。だが清田は、人質である茜をも救うべく完全な隙を作る事を狙った。いかに師がそう説こうが、彼は茜が自分のせいで死ぬ事が絶対に許せなかったのである。
清田はさらに油断させるように言葉をかけながら、そのナイフと注意が完全に別の方向に向かった瞬間を狙うことが最善だと考えた。
「その提案には乗れない。どうしてお前は茜と俺を心中させる事が良いと思った?」
少しずつ接近してくる清田を確認した木村は後ずさりしつつ、ナイフの位置を首下から下にずらしていき、セーラー服を切り裂く。木村は茜が身につけた飾り気の無い白いブラを白日の下に晒しながら、先ほどよりも声を張って清田に呼びかけた。
「いや? 別に俺は心中だけが良いとは思っていないね。俺はお前の目の前でこのオンナを寝取りながら両方殺したって良いし、彼女がストリップショーをしたくなる様に細胞ハックをして、彼女にあられも無い姿をさらさせながらお前を殺した後正気に戻してから彼女を自殺に追い込んでやっても良い。選択肢はいくらでもある。俺はさ、お前みたいな新人の相手なんかしたくもねえんだよな。普通にやったら俺が一方的に勝つに決まってるんだぜ? こんなつまらない仕事を任される俺の身にもなってくれや」
清田はなおも漸進を続ける。実戦に慣れていない彼にさえ、目の前でゆらゆらとナイフをちらつかせる木村が清田を舐めてかかっている事は明白であった。その証拠として、木村は距離を詰めるべく動く清田に対応して後ずさりする事すら既に放棄しているのだ。だからこそこの油断を決定的な隙に出来る、大きな注意を引ける別のアクションを取る事が次の行動目標になった。
屋上を注意深く観察すると転落防止用のフェンスに周囲を囲われている事、そしてその先に発電機が設置されている事に気がついた。あの発電機をいじって爆発でもさせれば、決定的な隙を露出させるだけの注意を引けるかもしれない。そう思いついた瞬間、清田は木村に声をかけつつ西野に助け船を出してもらう様依頼する事にした。
「じゃあ何だ? お前は俺をオモチャにして楽しみたいのか?」
「そりゃそうだ! こんな力があるのに面白い仕事が無くてよぉ。俺もアーエロンスペースの防衛に当たる予定だったがな、何でもあそこの機能がどこからかハッキングされて停止に追い込まれてるらしいじゃねえか。バカバカしい話だ! だから暇してた所に来た仕事がお前の討伐って事だ! それよりお喋りにも飽きてきたしさ、そろそろこのブラを切り裂いてやろうかなぁ~?」
木村が笑いながら喋っている最中、西野からの返答が来る。爆発までは行かないがバレない程度に念動力を送る事で発電機に設置された警報器を鳴らす事は出来る、と。その一報を聞いた清田は、警報器で注意を逸らした瞬間にハッキングを仕掛けるプランで行くのがベストだと考え、十秒後に警報器を鳴らす様西野に連絡した。
この時清田は不自然にならない程度に会話を続けつつ、既に大きく踏み出して五歩で茜をナイフから離しつつ木村を脳細胞ハックによって潰せる、という所まで距離を詰めていたのである。
「やめろ! 俺はどうなっても構わない、まず茜を解放してくれ!」
「その必死な顔! それだよそれ、それが見たかったんだ! どうしよっかなあ~? でも清田ァ、俺が今茜の生殺を握ってるって分かってんのか? 頼むなら頼むなりの態度って奴があるんじゃ……」
そこまで言いかけた所で、木村の背後で発電機の鍵が外れる音がした。それと時を同じくして警報器が作動し、学校全体に警報が鳴り響く。そしてこの瞬間、木村は背後を向きナイフを下に向けてしまった。とうとう訪れた完全な隙を、清田は見逃さない。一気に駆けだしながら木村の脳細胞に接続した。訓練時には現れなかった緑色の光が眼球の奥にまで差し込んできて思わず目を閉じそうになるが、なおも彼の奥底に存在するマスターF細胞を捜索する。
この時木村はもう一度前を向くと、大きく接近してきた清田に目を見開かされる事になる。完全に後手になってしまい、ここから彼の脳細胞にハックを仕掛けてもただ一方的にマスターF細胞を破壊されて終わりである。あるいは茜の脳細胞の機能を停止させるという方法もあったが、この状況で茜に攻撃を仕掛けた所でそれは清田に未然に防がれて終わりだと彼はその経験からコンマ秒で推察した。そしてこうなった場合の最善策は何か、と考えた時、彼が思考した手は一つしか無い。
ここで茜を物理的に殺し、清田の精神を壊す。
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