第2節-C

 清田が目覚めると、また周囲は授業の最中であった。黒板に書かれた日付を見ると五月十四日月曜日、時計を見れば短針と長針が共に12を指そうかという所だ。彼は気がつけばもう茜が死ぬ前日に記憶が飛んでしまっていたのである。無論過去を変えるなという西野の言葉はきちんと記憶しているし、今後どうするにしても茜は死ななければならない事は分かっているのだが、それを分かった上で平気な顔をして生きていける気は全くしなかった。


 (僕達の行動目標は二つっす。まずはカオス・モーメントを産み出している原因である人物と東雲史郎をカオス・モーメント直近の時間で捜索し、全員マスターF細胞ごと抹消する事。二つ目は現代の時間で二週間後までにアーエロンスペースを直接襲撃し、これ以上過去に戻る人物が現れない様にする事。西野さんも言ってたっすけど、くれぐれも過去を変えない様細心の注意を払って欲しいっす!)


 清田が北山の大声を思い出すと自然に耳を塞ぎたくなってくる。彼らが過去に飛べないのは現実のアーエロンスペースから過去を改変されない様に常に二人でアーエロンスペースにサイバー攻撃を仕掛けているからで、二週間後までにという期限は何故かそこからはどう頑張ってもサイバー攻撃が通用しなくなってしまったから、という様に説明されたが、清田自身この話をどこまで信じるべきかよく分からなくなってしまう。あまりにも現実離れし過ぎているというか、本当に自分の記憶が自身の過去と全て連結しているのか疑わしく思えてしまうのである。

 だが、確かに彼の知識には随時他者の脳細胞に干渉する方法や逆に他者の干渉から自分の身を守る為にすべき行動が実践的な知識として増え続けているのだ。たった今の自分は重くなる瞼を堪えながら頭に入らない授業を受けているだけなのに、どこかの自分が蓄積している知らない知識がどんどん増えていく気持ち悪さと言ったらなんだろうか! そしてそれらは確実に使いこなせるのだろうし、もし今妙にゆっくりした口調で喋っている教師に細胞ハックを仕掛けたら彼は自身の持ち合わせる知識はもちろん自分の名前や呼吸の仕方すら忘れてしまうだろう。とんでもない能力を持ってしまったのにそれを使って未だに何も出来ていない事に、そしてこの出所の分からない確実な知識に吐き気を覚えてしまった。


 「おーい、キヨ……おい!」


 「え!?」


 「え!? じゃねえんだよ。弁当食おうぜ」


 ぼーっとしていた清田の目の前には要が座っていた。彼の持ってきた弁当はいわゆる日の丸弁当で、米の表面は押し固めたのか潰れて平べったくなっている。そんなほぼご飯の弁当を彼は実に美味そうに食べているが、要も将来は良い人生では無かった事をふと思い出してしまう。そんな事を思い出してしまうと、途中まで開いていた弁当箱をもう一度閉じてから外に散歩でも出たくなってしまった。


 「おいおい、マジでどうした? 今日もお前の漬け物ちょっとくれよ」


 「ああ、そうだな」


 清田の弁当の中身はだし巻き卵とアスパラガス、ウィンナーが三本と大根の漬け物にご飯がぎっしり、といういくらか彩りのある物だった。そして弁当箱を開くが早いか、要の青く透明なプラスチックの箸が漬け物をかっさらうのだ。漬け物を彼が口に入れて、またご飯をかき込み、大きく一息つく。ご飯の量で言えば清田の二倍はある弁当を要はあっという間に完食し、手を合わせた。その時清田はまだ半分も食べ終わっていない。


 「全く、食うのがおせえんだよな。だらだら食べると太るんだぜ」


 「生憎俺はダイエット志向の女子じゃねーの。だいたいお前の日の丸弁当とか栄養バランスって言葉に喧嘩売ってんだろ」


 「あー、やだやだ。栄養バランスなんてせせこましい事言ってたら茜ちゃんに嫌われるぞ」


 「なんでそこで茜が出てくるんだよ!」


 「別に良いだろ~。男は黙って日の丸だぜ」


 要は弁当を畳んで鞄に入れ、しばらく清田が弁当を食べているのを見ていた。だが、たった数分も見ている状況に堪えきれず、また声をかける。


 「おい、キヨ。いつまでお前食ってんだよ」


 「うるせえな、まだ三分も経ってねえぞ」


 「しょうがねえだろ、暇なんだから。……そうだ、お前に頼んでたアレ、もう出来上がったか?」


 清田はこの時、は? という言葉が自然と口から突いて出た。自分はそんな何かを作っていただろうか。そう彼が自問自答する暇も無く、要は正気かと言いたげに驚く素振りを見せる。それから要は耳元でほら、アレだよ、絵だよ、とさらに情報を付け加えてきた。ここでようやく清田は何を求められているかを思い出した。この時、要には彼が片思いしている椎野という少女の絵を描く様に頼まれていたのである。

 何故この時清田が依頼を忘却していたかと言えば、単純に彼自身長い事絵を描いていなかったからである。本来の歴史であれば清田は茜が死ぬまでは絵を描く事が趣味であり特技であったのだ。中高と美術部に所属し、中学生の頃は文化祭のポスターのイラストまで描いた経験もあった。だが茜が死んでからというもの、突然描く気が失せてしまったのである。その理由は彼自身分からないが、まるでろうそくに点された火が突然風に吹き消された様に描かなくなった。そしてそれが全てに波及していき……引き籠もりになった。


 結局家を追い出されてからは母の仕送りも含めて安アパートで工場の軽作業系のバイトを続けていたのだが、当然その仕事は面白くもなければ何かが身につくものでも無い。体の良い機械と同じ扱いをされる日常が続いていたが、彼自身その現状を変えられなかった。輝かしい自己アピールが存在していない人間にとって、就活とは苦痛である。脳裏にはいつだって佐賀茜の最後が刻み込まれていたし、どんなに絵を描こうが努力をしようが彼女は帰ってこない、という失意しか彼の胸中には残っていなかったのである。


 そして何より過去で新しく細胞ハックの技術を身につけている分、絵を描いていた時間が全てその技術習得の時間に充てられている事も原因になっている様だった。空き時間に好きで描いていた絵の記憶も題材も技術も消えていて、そこには他人の記憶をいじくり回す物騒な技術が代入されていっている。この事実に気がついた時、清田はさらに過去に戻ってこの技術の習得を辞めようかとも思った。だが、もうここまで進んでしまった時間をまた戻すのには大変な手間がかかる。そう思うと、おそらく本来の歴史では言わなかった言葉を言わざるを得なかった。いくら過去を変えるなと言われていても、出来なくなってしまった物は出来ないままなのだ。


 「ごめん、ちょっと今日は無理だ。もう少し待ってくれねえ?」


 「えー? そう言って何日お預けにされてると思ってんだよ! もう一週間だぞ、三作目までは調子よく俺にくれたじゃん……」


 要がぼやいている内に、もう昼の休憩は終わっていた。清田は次の授業の間、こっそりとノートの隅に佐賀茜の似顔絵を描いてみる。線はぶれアタリは揺れ構図は想起出来ず、かつて手なりで描けていたであろう部分が全て描けなくなっていた。自分の描いた自分の物では無い落書きを見ていると何やら彼に突然行き場の無い怒りだか悲しみだかが入り交じった衝動がやってきて、もう一度ノートの隅に落書きを始めた。

 気がつけば、茜が死ぬまであと一日を切ろうとしている。当然これを回避する方法も、清田は分からない。新しい事を覚えているはずなのに、気がつけば余計に何も分からない状況に追い込まれている状況が彼にとっては嫌で嫌でならなかった。思えば何故自分がそんな過去を守るとか、過去を違法に改変しようとしている他者を始末しなければならないのか。それすらも彼自身完全に理解し納得出来ている事も無いのに、そんな任務を任されても面白いはずが無い。

 結局この時間はずっと絵を描き続けたが、清田の絵は下手なままだった。

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