第2節-B

 「アーエロンが何をする機械なのかをざっくり説明すると、F細胞の無い人間にF細胞を埋め込む機械で、かつそのF細胞をマスターF細胞という上位の種に進化させることも出来る機械だ。お前が過去で二時間程過ごした時、アーエロンを使った事で何か違いは無かったか?」


 「現在を生きている自分からしたら全部過去だから当たり前と言えば当たり前かもしれないけど、これから何が起こるかは集中すれば確かに全部分かるな。そしてもう慣れつつあるが、あなたとテレパシー? か何かで会話が出来るのも二〇一八年じゃあり得なかったよ」


 清田が少し思い出すだけでも、例の襲撃を回避出来たのもセキュリティ達がどう動くか予め分かっていたからだし、些末な例で言えば母親がいきなり開いたドアを回避出来たのも未来が見えたおかげである。そして、未来からのテレパシーを受け取って過去から現在に戻れたのも当然マスターF細胞とやらのおかげなのだ。


 「まあそういう所だろうな。元々F細胞は脳細胞とフューション粒子という特殊な粒子が結合した物で、F細胞を持っている人間同士でと遠隔コミュニケーションが取れる様になる脳細胞の事を指している。要は電話が人体と一体化する、それだけの代物だった」


 現在も二人はF細胞同士で会話を行っているため、部屋の中は馬鹿に静かだった。清田の耳には静寂特有の騒音が鳴り響いているのに頭には西野の声がはっきりと聞こえるせいで奇妙な思いをせざるを得なかったが、確かにこれが出来れば人間は通信機も必要なく、余所に話の内容を盗み聞きされる事も無く安全に会話が出来るだろう、というのは容易に想像がつく。


 「F細胞が発見されたのは二〇二九年。南源という男がこの細胞を発見して、それから私と東雲史郎の三人で、F細胞同士でコミュニケーションを取る方法を研究し始めた。東雲史郎がフューションとかいう社名をつけたのも、おそらくこの頃の経験から来ているのだろうな」


 「いやちょっと待った。西野さん、あなた未来人だったのか?」


 清田にとってはこれが一番の驚きであったが、西野は少し未来から来た程度で何も変わるまいとでも言いたげに「ああ」と返答した。そんな態度を取られては清田もこれ以上追求する事が難しくなって黙ってしまい、西野はまた説明に戻る。


 「もちろん普通の二〇三二年にまだアーエロンは無いし、普通ならF細胞同士のコミュニケーションも取れなかった時代だからな。そもそも私がいた未来である二〇四二年ですらまだアーエロンの過去に記憶を移す機能も実際に使われてはいない。F細胞に特定の周波数を持った電磁波を流し込む事でマスターF細胞というF細胞を統括する細胞が誕生し、これが過去の脳に存在する記憶と記憶を結合、過去へと自由自在に戻る事を可能にするという理論自体は概ね完成してはいたんだがね」


 「じゃあ、何でそんな安全性も確かめられていない物を東雲や西野さんは過去に持ち込んだ?」


 「その話をし始めるとまた長くなるな。そもそも私は東雲が過去を改変するのを止めようとしてアーエロンを過去に持ってきたが、何故東雲が過去を変えようとしているのかは分からないんだ。実は東雲自体、そもそも過去のデータのどこにも存在していない。インターネット上はもちろん、彼の戸籍すら消失している。戸籍の無い人間が誰からの疑問も抱かれず研究し続けられた事も奇妙だし、過去に何も存在していないのも奇妙だが、そんな人間がわざわざ過去に戻るというのも奇妙ではないか。変革すべき過去も何も無いというのに。普通ならどこかに存在しているはずの東雲の出自も無いから、大方彼が過去に存在していた自身を発見しようとしているのが自然なのかな。少々話が脱線したが、確か始まりはアーエロンを過去に持ち込んだという話だったな。おそらくこの話をするならマスターF細胞の画期的だった点を挙げる方が早いはずだ。マスターF細胞が最も画期的であった点は脳細胞に保存された記憶をベースに脳の機能を自由自在に書き換えられる様になった点だ。人間の脳が単なる記録と出力を繰り返す装置から自由自在にプログラミング出来る装置に変わった、とでも言えば分かりやすいかな。脳の機能を大幅に拡張しているからこそ過去の記憶と連携して過去に戻る事が出来る様になった訳だし、人間にとっての時間の法則を取り外す事で実質的に不死となり、普通に生きていては身につかないであろう超常的な能力まで誰もが身につけることが出来た。だが、マスターF細胞は恩恵ばかりをもたらした訳では無かった。過去を変える事で、現在という存在が曖昧になってしまうのだ。そして繰り返しになるが、東雲が過去を改変する事によって私達にとっての過去、君にとっての現在を消滅させる危険性がある為、私もアーエロンを持ち込んで改変された過去を元に戻す必要があるとなった訳だ。過去を改変した結果現在に何が起こったか、という具体例を語るには私よりも適任の仲間がいるから紹介がてらそろそろ呼ぼうと思うが、ここまでの流れで何か質問はあるか?」


 「申し訳ないが、ここまでの話を短くまとめて欲しい」


 「東雲は何故過去を変えたいか分からない。だが私は過去を変えられるとまずいと思っているから過去にアーエロンを持ち込んだ。過去を変えるとどうまずいか、その詳細をこれからもう一人の仲間に喋ってもらう。どうだろう」


 「まあ、分かった。いざとなったらまた聞き直させてもらうさ、過去に戻れるんだしな」

 

 「そうか。それじゃあ、紹介させてもらおう。彼が私の助手をすると同時に私よりもさらに先の未来からやってきた青年……北山孝治君だ」


 研究室の扉が開くと、二十歳程度に見えるラフな服装の青年が現れる。清田からすれば西野よりもさらに未来の人間だと言う事がそもそもどういう事か理解しがたかったし、何より遙か彼方の未来から来た割には同年代だと言われてもおかしくない様な見てくれをしている事にやはり騙されているのではないか、といういささかの疑念を抱かざるを得なかった。


 「お初にお目にかかるっす! 僕は北山孝治、二〇六四年では二十三歳で研究者やらせてもらってたんすけど、色々訳ありで過去に逃げてきたっす! よろしく!」


 北山は勢いよく清田の右手を両手で握り込み、上下に激しく握手した。その勢いに圧倒されて清田が応答に窮していると、西野が北山をなだめながら彼の座るもう一つの椅子を用意する。それからしばらく北山は喋りたくてたまらない様子で足をばたばたと動かしているのだが、まずは西野が口を開いた。


 「さて、まずは君が間違いなく抱いた疑問から解決しようか。思った事を言ってみたまえ」


 「北山さん、二〇六四年ってどういう事だ?」


 「ざっくり言って未来っすね! 皆さんの言ってるアーエロンは世界中の誰もが使っていた時代っす。そんでこのまま行くと二〇六四年の未来が消失するんで、僕が生まれる前に戻って来たって寸法すね」


 清田は頭を抱えた。北山の声が馬鹿に大きいのもあるが、それ以上にこのまま行くと未来が消えるという突拍子もない話をいきなり理解しろという方が難しい。疑問点が山積し次に何を聞くべきか考えていると、西野がフォローに入る。


 「まあ色々と分かりづらいろうし、細かい事はおいおい話そう。今一番重要なのは未来が消失した、という事。アーエロンによって多くの人間が過去を改変した結果、彼らにとっての現在は不確定な未来に戻ってしまい、二〇六四年が消滅したのだ。マスターF細胞はインターネットに接続出来るコンピューターの様な働きが出来たが、過去は自由に改変が出来て変化し続けられるインターネットとは違った。当たり前の話ではあるがな」


 「それじゃあ、今俺が過去に接続してるのもマズいしあのアーエロンスペースとかって施設も相当やばいじゃねえか!」


 「一応補足しておくと一人や二人過去を変えようとするくらいならまだ未来が消えたりもしないし、何なら余程の事をしなければ改変される前の歴史とそれほど変わる事も無い。ただ、人間が大きく過去を操作し始めるとカオス・モーメントという歴史の空白が出来てしまう。そして歴史の空白が増えれば未来は土台を失って消失する、という事だな」


 しばらく頭を抱えていた清田はようやくこのアーエロンという機械がはらむ危険を理解し始めた。東雲という社長が語る過去を改変しても未来は変わらないし何の問題も無いという理屈はごく少数の人間が過去を変える場合であり、大勢で変えるとカオス・モーメントなる歴史の異物が増えてしまって過去が消失してしまうという事。

 だがこの時、彼の脳には嫌な予感がまるで這い回るゴキブリの様な感覚と共に現れた。そしてその質問は、自分のしようとしていた事がばれない様に表出する。


 「じゃあ過去に戻ってかつて死んだ人間を死なない様にした奴とか、過去にした失敗を成功に変えたりした奴にはそれだけ大きなカオス・モーメントが出来てるって事か?」


 「そうだ。清田、一応念押ししておくが過去を変えようとするなよ。過去を変えるとそれだけ未来が消滅する危険も増える。……さて、そろそろ北山に今後の行動を説明してもらおうか。それからは、君にカオス・モーメントが存在する直近の過去に戻ってもらおう。我々に時間は無い」

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