第2節 曲がる、過去 

第2節-A

 清田はやや緊張した調子で自宅の扉に手をかけようとすると、扉が突然勢いよく開いて彼の眼前に迫ってくる。無論これもすでにこうなる事が分かっているから扉を開こうとした瞬間に一歩引いた。だが扉の向こうから母が何か急いだ調子で現れた理由に関しては察することが出来ず、ひとまず挨拶をする。


 「ただいま」


 「おかえり。遅いじゃないの、お弁当は机の上置いといたからね」


 「は? 弁当?」


 「とぼけたって塾は無くならないし、もうすぐに出ないとアンタ遅刻するよ。じゃあね、頑張って来るんだよ!」


 そう言うが早いか、母はパート先のスーパーに出勤してしまった。この時になって清田はようやくかつての生活がさらにはっきりと思い出されてきた。例の事件が起こるまで平日の放課後はほとんど塾が入っていて、そのお陰もあって成績はそこそこ良かったのだ。そして塾は夜の九時まであるから、母が塾のある日は欠かさず青いプラスチックの弁当箱に夕食を詰めておいてくれていたのである。靴を脱ぎ室内に入ると、小さなアパートのリビングに似合わない白いクロスの敷かれたテーブルの上に案の定弁当箱が置かれていた。


 「ああ、そうそう!」


 清田が過去を懐かしみながら弁当箱を手に取った瞬間、母がどたどたと自宅に帰ってきて彼の身体は大きく跳ね上がる。この母の再来は清田にとって全く見えていなかった。過去に戻ったり行ったりするにも多少集中を向けないとすぐには対応出来ないのだろうか、と思いながら玄関で何かを探している様子の母に声をかける。


 「何だよ、忘れ物でもしたの?」


 「今日の職場で使うエプロンを忘れた。今度こそじゃあね、今日の弁当はシュウマイ弁当だよ」


 母は慌ただしく自宅を出て行き、また時計と隣室のテレビのかすかな笑い声ばかりが響く自宅に戻った。それからため息をつき、改めて部屋の中をまじまじと観察する。確かに記憶の中にあった自宅と全く同じである。最初はこの過去でまで塾に行く気はあまり起こらなかった。大体この過去をもう少し懐かしむ余裕くらいくれたって良いではないか、という思いの方が強かったのだ。

 だがもしもここで塾をサボってしまった場合、今の自分が消えて無くなってしまうのではないか。こんな恐れが頭をよぎった瞬間、もう清田は着替えて塾用の荷物を持った後玄関まで小走りで向かい、扉を開いた。しかしまた扉の先には母が立っていて、もう一度身体を飛び上がらせる羽目になる。清田もここまで母に驚かされては、一体どういうことか突っ込んでしまった。


 「今度は何を忘れたんだよ!」


 「伝え忘れてたけど、明後日は父さんの命日だからお墓参りに行くからね。絶対に予定を空けときなさいよ」


 「分かった分かった。てか、急がないと二人して遅刻するんじゃないの?」


 「全くよ、最近は物忘れがひどくて嫌になっちゃう。それじゃあ気をつけて行くんだよ。音楽を聴きながら自転車には乗らない様にね」


 「はいはい。それじゃ、行ってきます」


 母が慌てて階段から降りていくのを横目に見ながら、清田はアパートの三階からエレベーターを使って外に出て、自宅から数分で到着するであろう塾へと足を運ぶ。自宅から塾まではそう距離がある訳ではないが、押しボタン式の信号機が中々青にならない事があって、その青にならないパターンを引いてしまうと徒歩五分の道のりが十五分ほどに感じられてしまう。そして今日はその青にならないパターンを引いた挙げ句、彼が来る前から待っていた中学生がボタンを押し忘れていたせいで余計に待つことになってしまった。何故ボタン式信号機でボタンを押し忘れる奴は一週間に一度は見かけるのだろうか。などとしょうもないことを考えていると、突然頭に西野の声が響く。


 「塾に向かっている所悪いが、これからお前は現在に戻ってもらう。どうだ。戻れそうか?」


 これに驚いた清田は周囲を見回すが、西野の姿はどこにも無い。故に、ひとまず戻り方を聞くべく独り言を呟いてみる。


 「いや、過去から現在に戻る方法なんか分からないぞ」


 「お前はまだマスターF細胞のコントロール変更を行ったことが無かったか。なら今覚えろ。まず目を瞑れ」


 清田が目を瞑ると、目の前には光の波動の様な物が一冊の書物を象り始めていた。確かにこれまでも瞼を閉じれば光の点滅の様な物を感じることはあったが、この様にはっきりと形を持って彼の前に現れるのは初めての経験の様に思われた。その書物はパラパラと風に煽られる様にめくれては、数字だけが描かれたページを彼の視界に投影している。だが基本的にはある一つのページで開いたままの状態になっている様であった。


 「目を閉じたら書籍のイメージが出てきたはずだ。それの一番最後のページをめくる様に念じてみろ」


 告げられるがままに念じると、勢いよく本が最後のページに向かってめくられていく。そして奥付らしいページで本の動きがぴたっと静止すると、またふらふらと風に揺られているような挙動を取り始める。


 「よし、目を開いて良いぞ」


 瞼を開くと、そこは過去に行く直前に清田が立っていたアーエロンが二つある部屋だった。相も変わらずパソコンとアーエロンだけ、一応過去に行くまでは無かった椅子が二脚置かれてはいるが、それでも殺風景な部屋である。彼は目をつぶって念じるだけで過去から現在に戻ってこれるという手軽さに内心驚愕を覚えていた。


 「それがマスターF細胞本体の時間軸を移動させる基本的な方法だ。慣れれば瞼を閉じたり本のイメージを投影しなくても過去に戻ることが出来るだろうが、当分はそうやった方が色々と楽だと思う。というか、慣れてもこれでやった方が確実で良い」


 「一応聞くが俺は本当に過去に行って、あのよく分からないセキュリティとかいう連中から逃げて、あんたに助けてもらったのか?」


 「無論本当だよ。そして、過去の君は現在勉強や日常生活を送りつつ過去の私からF細胞を使う上でのレクチャーを受けている。もう一度君が過去に戻る時、君はそれなりにF細胞を使って己の身を守る事が出来る様になっているだろうね」


 「じゃあ俺は本当にさっきまで二〇一八年五月八日に戻っていて、今は二〇三二年ということ?」


 「ああ。一応補足しておくと今日は二〇三二年三月二十日、過去への接続から経過した時間は二時間程度かな。その二時間の間、一四年前に君は戻っている。今の君は三十歳だが、ちょうど君にとって思い入れが最も深い時期がが五月八日なのだろう。最初の過去への接続は大抵そういう思い入れの深い時期になるものだ」


 そう言われて清田が思い返してみると、なるほど二〇一八年のあの時期は一番思い入れが深く、そしてやり直したい時期である。親友が多く、まだ全てが正常に動いていて、茜が生きていた。もしも過去で茜の命を救えたならば、人生自体が一八〇度転換する。アーエロンで過去の成績が上がるとか、受験を何度もやり直すとか、失敗した重要な発表をやり直すとかそんな小さな転換点では無い。精神的に救われるにはここしか無く、彼女を救う為に過去をやり直したいと幾度夢想したことか。


 先日アーエロンが発表した当初は、彼自身あまりにも突拍子も無い夢物語を聞かされて当惑している面もあった。過去など易々は変えられないという根拠の無い確信と、そんな機会があってもどうせ自分は何も変えられないという卑屈な諦めもあった。だが清田は実際に時間を遡行し、過去の茜を助けた時に確信したのだ。これは本当に過去を変えられる。そして過去を変える事で、この鬱屈として失敗に満ちた人生をもう一度やり直せる。そう考えた瞬間、彼の握り込まれた左手がより強く握られるのを感じた。


 「それじゃあ君にこれから、そもそもアーエロンはこれからどんな影響を与えるのか、何故あのセキュリティは君を襲撃したのか、我々が今どの様な状況に置かれているのか、これから何をするのか、順を追って説明したい。少し長くなるが、水でも飲みながら聞いてくれ」


 西野はペットボトルを懐から取り出すと清田に投げる。清田はそれをキャッチしてキャップを開いた。過去の水と未来の水には何の違いも無いはずなのに、この水は妙に透明すぎる様な錯覚を覚えながら水を飲む。清田の頭にきんと鋭い痛みが走ったところで、西野は説明を始めた。

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