第1節-C

 覚醒すると、周囲では学生達が授業を受けていた。どうやら清田はこれまで居眠りをしていたらしく、プリントにはよだれが垂れている。慌ててポケットの中に詰められたティッシュで唾液を拭き取ると、辺りをきょろきょろと見渡す。確かに見る限り、自分が高校生だった頃に使用していた教室で間違いない様であった。これが夢であるかどうか確認すべく試しに手元にあったシャーペンを腕に刺してみると、たしかに肌はへこみ刺された様な痛みが現れる。どうやらこれは本当にアーエロンによって記憶を過去に飛ばされたらしい、という事を認識するまでに時間はかからなかった。


 (どうした、キヨ。そんな不思議そうな顔をして)


 隣に座っている男子が清田にひそひそ声で話しかけてきた。記憶を辿ると、この学生は彼が学生時代に仲良くしていた要正浩という男だった事を思い出す。


 (ああいや、別に。ちょっと寝ぼけてたわ)

 (そうか。でもお前寝ぼけてない方が珍しいしな)


 要の軽口を十年ぶりに聴き、思わず清田の目頭が熱くなる。教室でいきなり泣き出したらさすがに不審者になってしまうからぐっと堪えようとしたが、思い出の中にある一番楽しかった高校生活が目の前に現れるとは夢にも思わないし、涙も堪えきれない。もう一枚ティッシュを取り出して頬を伝う涙を拭き取った。日付を確認すると五月八日、もうすぐ授業も終わるところ。

 そして五月八日という日付を確認した時、彼の記憶に一つの記憶が蘇った。ちょうど授業が終わり、時計を見ると三時五分。帰りのホームルームが終わった瞬間、清田は急ぎ階段を駆け下りる。もしかしたらまだ生きているのかもしれない、という一つの希望的観測は果たして彼の眼前に現れる事になるのだ。


 「あ、清田君。今日は遅かったね」


 清田は何度も目を擦った。彼がかつて恋していた女性もまた、この時はまだ生きていたのだった。


 「茜? 茜だよな?」


 「え、そうだけど。そんな泣きながら走ってきてどうしたの、何か嫌な事でもあった?」


 「いや。いや、そんな訳無いだろ。マジでそんな訳ないだろ……」


 「変なの。早く帰ろうよ」


 清田の心中は初恋の人に久しぶりに出会えた感動とこれから彼女を襲う悲劇がごちゃごちゃに混じり合い、何が何だかよく分からなくなっていた。もしも夢であれば寝起きが恐ろしいが、これは確かに過去の自分の身体であるらしいと確認済みであれば悲しさと嬉しさの入り乱れる感情の渦に浸る事が出来る。二人で川岸を歩いて帰るのも十年ぶりだし、彼女の声を聞くのも十年ぶり。全てが懐かしく感じてしまい、しばし天を仰いだ後さらに確認を重ねてしまう。


 「なあ、お前は本当に佐賀茜か?」


 「そりゃ私は佐賀茜ちゃんに決まってるよ。何か今日変だね、風邪でもひいた?」


 「ひいてねえよ! けどさ、花粉が今日酷くて……」


 「もう花粉は飛んでない気がするけど。まあ良いや。模試どうだった?」


 「模試? ああ、あれはそれなりだったかな」


 だが、久々の会話に心を踊らせる事は出来ない。彼女の最後は、今も彼の記憶の中にしっかりと刻み込まれている。五月十五日、ちょうど一週間後に彼女は清田の目の前で電車に轢かれて死亡する事になるのだ。線路で転び動けなくなった老婆を助けようと閉まった踏切の中に入り、老婆を助けだすも茜は踏切を出られなかった。本当ならば清田にもこの時非常停止ボタンを押す事も、一緒に助け出そうとする事も出来たはずだった。しかし清田は腰を抜かしてしまい何の行動も起こせず、動けないうちに茜は死んだ。彼自身この経験が心底情けないと思っているし、この時彼女を助けられなかった事はいつまで経ってもずっと色濃く記憶に残り続けているのだ。


 「今日ずっとぼーっとしてんね。疲れてる?」


 「まあ、確かにちょっと疲れてるかもだ。心配かけてごめんな」


 「あの踏切を越えたらすぐに家だよ。もうちょっと頑張れ!」


 そして気がつけば、茜が死んだ踏切の目の前まで来ていた。当然まだ踏切の隅に花束は手向けられていない。過去を変えて今生きていない人間を助けてしまう事は許されるのか分からないが、このやり直した過去の中では願わくば彼女を助けたい、と清田は心に決めた。未だに踏切の警告音を聞く度に足は震えるし、心臓は激しく動悸し、あの血に汚れた線路を想起し幻視してしまう。だが、何度もチャンスがあるならばどうにかなるかもしれない。今度こそ茜を助け出し、あんな悲劇的な終わりを迎えない様に尽力する。清田の拳は強く握りしめられた。


 「頑張ってみるよ、ありがとう」


 「うんうん。ようやく笑ってくれたね」


 「あれ、ずっと笑ってなかった?」


 「そうだよ。ずっと暗いんだか明るいんだか分からないビミョーな顔してたからすっごくやりづらかったんだけど」


 踏切が開き、車や自転車、歩行者が線路の上を走り始める。先ほどまで震えていた清田の身体はようやく落ち着きを取り戻し、力強く線路を踏んだ。

 その時、踏切のバーが突如爆散する。爆発によって茜の身体は吹き飛ばされて動かなくなり、爆風の中から時代には明らかにそぐわない、白く丸みを帯びたフォルムを持つ装甲を纏った三人の人間が現れて清田は捕縛されてしまう。


 清田の眼球にはこの悲劇的な光景がまじまじと映し出された。これがアーエロンによる未来予知なのか、過去への遷移機能なのかは分からない。だがこの予測によって、爆発から茜を守る事に成功した。まず線路に足を踏み入れる寸前で茜の右腕を強く引き戻し、彼女が爆発の圏内から逃れる様に屈ませた。そしてやってきた装甲を右側に身体を反らして回避する。それからすぐに逃げられる様。屈ませていた茜を引き起こす。

 煙の向こうから現れたのは、先ほどから未来視で確認している装甲を纏った三人の人間である。彼らは銃や剣の様な武器は持ち合わせていないが、明らかに何らかの攻撃手段を持ち合わせており危害を加える気でいるのは間違いない様に見えた。


 「違法アクセス者、清田敦を発見した。我々はアーエロン・セキュリティ。これより捕縛する」


 セキュリティ達はいかにも鈍重で動けなさそうな装甲を身に纏っていたが、いざ動き出すと彼らの移動速度は常人のランニングよりもいくらか速い程度の速度で二人を取り囲もうとする。敦の脳には恐れと、これから自分が逃げ切らなければ恐らく自分は死ぬというハッキリした確信、そして茜の身も無事では済まないという意識が駆け抜ける。気がつけば敦の手は茜の手を握り、装甲の包囲をくぐる様に突破した。


 「清田君、あんな漫画に出てくる様な奴らに追われる様な事したの!?」


 「知らねえよ! とにかく逃げよう、もう少し先にある警察署まで走るぞ!」


 二人は背後から近づいてくる衝突音、そして飛来するコンクリート片をどうにかかわしながら逃げた。例の三機の武器は何か、と言う事は依然不明だが、ちらと背後をみるとアスファルトがめくり上がり、交通標識が持ち上げられて振り回され、行く手を阻む対向車はタイヤを潰されスピン、民家に突っ込んでいく異常な光景が広がっていた。もし立ち止まれば、電車の事件が起こる前に二人とも死ぬ。


 「ねえ、後ろじゃ何が……」


 「見ちゃダメだ! とにかく走れ、警察署も見えてきたぞ!」


 敦が茜の手を引く力はさらに強くなり、それに比例する様に後方からやってくる攻撃も熾烈さを増す。泥は固形となって蛇の様にうねりながら襲いかかり、水たまりは足をもつれさせ、誰も乗っていないバイクが彼の右腕のすれすれを通過し大怪我をするのではないかとひやひやさせられる。理屈は分からないが、超能力の様な物を行使しているらしい事は思考が混乱している状態でも認識する事が出来た。明らかに背後から迫ってきているのはナイフや拳銃の様な武器よりも殺意を持った攻撃であるし、何より普通ならいきなりアスファルトやバイクが手も触れずに突っ込んでくる訳が無い。この様な状況では恐怖よりも先に立ち止まったら死ぬという漠然とした、それでいてかつて遭遇した事の無い切迫感しかやってこなかった。

 しかし警察署まであと100メートルを切ったかという所で敦の足が何かにひっかかり、彼は顔面から地面に叩きつけられた。そして強く握っていた手を離す事が出来ず、茜までも一緒に転ぶ事になってしまう。足下で長く伸びた雑草が靴紐と複雑に絡んでいる先には、猛スピードで二人にセキュリティが迫ってきていた。おそらくこの草もまた彼らのコントロール下に置かれた存在で、これ以上逃げようにも地面に存在する全ての物が清田達の行く手を阻むであろう事はこれまでの攻撃から明らかであった。


 (もうダメだ――)


 二人は共に目をつぶった。次の瞬間考える事は二人とももう私は死んだだろう、と言う事だったし、まさかここから何者かが助けに入るなどとは思ってもいなかった。

 だが、そのまさかも起こりうる物である。次に耳に入った轟音は明らかにあの装甲がひしゃげた音であり……そして目を開けて何が起こったか確認すると眼前には痩せた白衣の男が立っていた。


 「すまん、少々助けに入るのが遅れた。これからこの西野雄三がこいつらの倒し方を教えるから、お前はよく見ていろ」

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