第1節-B

 テレビの中ではコメンテーターが何かもっともらしい事を喋っているが、彼の頭には入ってこなかった。内心ではアーエロンを使いたいという思いもあれば、こんな事絶対に成功するはずが無いとすでに彼の中で諦めの思いもあったからだ。それを打ち消すべくアルコール度数の強い安酒を飲んでみても酔えるはずが無い。


 情報に踊らされる人々を見ながら、清田敦は気づいていた。百歩譲ってアーエロンで過去を変えられるのが本当だとして、もしこの日本にいる全員がアーエロンを使ったらどうなるか。確かにそれが一人だけなら未来から来た優位を活かせるだろうが、クラス三十人中三十人がアーエロン使用者なら結局差は出ないし、何度リセットしても意味が無い。それどころか好きに何度も過去を変える事でどんどん全員が100点満点に近づいていくのだから、むしろ使っていない方が一方的に低スペックな人間だと言われて終わりである。つまりこれからの社会はアーエロンを使っている事が前提になるだけであり、使っていない人間が一方的に追い落とされるだけだ。だから最終的にはどんな強気の料金プランでも商売が成立するだろうし、変に意地を張った方が不利益を被る。


 だが同時に馬鹿馬鹿しさも覚えずにはいられなかった。結局人生の逆転、希望の象徴の様なアーエロンとやらも新しい必要最低限の人権に過ぎないのである。だから清田自身も後々過去に自身の記憶を赴かせるつもりではいたが、本当に少しだけ期待していたサクセスストーリーは存在しているはずも無かったのだという虚脱感もあった。ふと窓の外を見ればもうこの近辺に生活する人々が車に自転車、徒歩にセグウェイと思い思いの移動手段でアーエロンプレイスに向かっているではないか。空を飛ぶヘリコプターや旅客機ですら目的地は彼らと変わらない様に見えてしまう。


 「それでは一旦CMです。……我々井上グループは株式会社フューションが運営するアーエロンの使用を積極的に支援し、世界中の人間が幸福な現代を掴み取る事を応援しています……」


 清田はもうアーエロンの広告を打っているメディアに呆れながらテレビの電源を切ると外行きの衣服に着替え、過去を変えようと試みる群衆とは逆の方向に歩き出した。この調子では自身の記憶を過去に飛ばせるのはずっと後の話の様に思えたし、朝から晩まで一人で順番を待つのも退屈なのは間違いない。だから反対側の道路を歩いていたはずなのだが、その反対方向にも黒山の行列が出来上がっているではないか。どこもかしこも混雑しているし、もうこの機械に対する反対行進も始まっているしでもう通りは滅茶苦茶になってしまっていた。

 人の山をかきわけて、ようやく一息つける公園が見つかったと思ったらそこも彼と同じような思考を持って休憩しに来た人間でごった返している。彼はため息をこぼしながら、とぼとぼと自宅に戻った。気が滅入ってしまうと思って散歩に出たはずが、余計に気が滅入る羽目になるとはなんとツイていないのか。普段は閑静なベッドタウンのはずなのに、こんなに騒がしい場所になってしまうとはアパートを契約した当初は夢にも思っていない。家に帰るルート取りもあえて人を避ける様に路地に入って人気の無い道へ、裏道へとどんどん入っていく。完全に人のいない路地裏に入る事が出来たのは歩き出して十五分が経った頃であったし、気がつけば自宅からもそれなりに離れた場所にまでやってきていた。ようやく一息つけると思い自販機で飲み物を買おうとしたら財布も忘れ、喉の渇きに苛立ちと軽い生命の危機を覚えながら空を見る。マンションで切り取られた空に雲は一つも無かった。


 「もしもし、そこのあなた。どうしたんです、こんな所で。もしやアーエロンを使おうとは思っていらっしゃらないのですか」


 「ああ? そりゃ使いたいけど、こんなに混んでちゃ今から並んでも熱中症になって終わりだろうよ」


 清田が振り向くと、そこには緑色の林檎をかじる中年の男が立っていた。ちょうどこの時間この場所にはこの二人しか存在していない様に思えてならなかったし、遠方からやってくるどんちゃん騒ぎもずいぶん静かになっていたせいで街から全ての人間が消滅してしまったかの様にも思えた。


 「とりあえず立ち話も何だし、私の家に来ませんか。冷たい飲み物もありますし、何なら特別にあなたも自分の記憶を過去に飛ばしても良いんですよ」


 路地裏に一陣の風が吹く。清田の表情は明らかに硬直し、狼狽と警戒が露骨に顔に表れている。だが西野は眉一つ動かさずじっと清田を見つめていた。まるでこれからお前は絶対に俺についてくるとでも言わんばかりに。


 「は? いや、そんな事で俺を誘拐しようとでも思ったのか。というかいきなり話してきたが、お前は何者だ?」


 「私は西野雄三、とでも名乗っておきましょうか。あまり時間が無いのでもしアーエロンを使いたいなら早く来て下さい」


 西野という男の言葉に誘われ、気がつけば清田は彼の後をついて行っていた。彼の言葉は妙な切迫感と緊張に包まれていて、喉の渇きも忘れる程の有無を言わせぬ圧があったのだ。西野はまたさらに路地裏の奥の奥の奥へと立ち入って行き、とうとう日の光も欠片程しか入らない暗所に立ち入っていた。西野は一つの錆びた扉を大きな音を立てて開き、また電気も無くじめじめした急な階段を懐中電灯で照らして歩いて行く。清田は足を滑らせない様湿った壁に両手をつき、一歩一歩確実に歩を進めた。それから暗い道を右折したり左折したり、ドアを開いたり閉じたりと複雑な道を歩き続けて清田の息があがってきた頃になってようやく西野は立ち止まる。


 「ここからは傍聴の危険も無い、語調を崩そう。お待たせした、ここが私の極秘研究所だ」


 光一つ無い廊下に強い光が飛び出し、思わず清田は目をつぶる。ようやく目が慣れると、目の前には薬品臭い、そしてアーエロンらしき棺桶が二つ置かれた小さな部屋に出た。それ以外にこの部屋に置かれている物はパソコン一つしか無い、ミニマリズム溢れる一室だと清田が思う前に画面の中にあったアーエロンらしき物を彼はしばらく様々な方向から見つめた。


 「おいおい、マジでアーエロンがあるじゃねえか」


 「その理由は後で説明しよう。君はこの機械がどの様な社会をもたらすか想像がついているかね?」


 「そりゃ皆がメチャクチャに知識を持って、アーエロンを使っている人間と使っていない人間で格差が生まれるんだろうな、ってくらいは考えたさ。少なくとも俺が成功者になれるとは思っていないよ」


 「そうか。まあそれくらいは少し察しの良い人間なら気がつく。だがな、これはとんでもない事だ。少なくとも人間の生死に関する概念や人類のスペック、そして生き方まで全てがアップデートされるだろう。とりあえず説明は現在では無く過去でしよう。さあ、早く入れ」


 「もう入るのか!? さすがに心の準備ってのが……」


 男の右腕にちくりとした痛みが走る。右目の視界の端に注射器の様な物が見え、やはり何かを企んでいたと思い逃げようと考えた。だがもうその思考が脳から身体に信号として発信された時には、既に身体が地面に倒れ込んでいたのである。

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