二節、空の旅
ゆっくりと降りて行くに連れて島は遠退き、小さな陰となるその姿は無数の巨大な雲に覆われて見えなくなっていく。
実の所、テオルドフィーが島を抜け出したのはこれが初めてでは無い。 子供の頃にこっそり近くの別の浮島へ遊びに行った事があった。
島で暮らす人間は皆、移動手段の一つとして飛行魔術を使うものなのだがしかし、それでもこれ程の長距離を飛んだことはテオルドフィーとて一度も無かったし、雲の下など見た事すら無かった。 浮島はその姿が地上に露呈しないように、そして島で暮らす天上人が地上に興味を抱かぬように、常に人工的に作り上げた雲で周りを囲まれているのだ。
「おかーしゃま、まっしぉみえないでしゅよ」
「今ここは雲の中なのです。 間も無く視界が開けますよ」
「くも~?」
テオルドフィーは行った事が無いが、知識としてなら多くを知っている。 島の真下には険しく高い山が聳え、それを取り巻く広い大地が海という名の巨大な水溜まりに根差しているらしい、とか。
島から直接は雲海に阻まれて見える事は無かったが、貴重な歴史や地理の資料には目を通せる立場にあったので、ある程度の事は承知しているつもりだ。
「粒が見えない程細かくなった水の集合体を霧と言います。 その霧が寄せ集まり空に浮かんだ状態を雲と言うのですよ」
到底解っていそうも無いが、アルフェネリアは楽しそうに笑い、厚い雲を潜り抜けた先に広がる初めて見る景色に目を輝かせる。
「あれ、なぁに~?」
「私達の目的地です。 まずはあの、中央の山へ向かいます。 下の世界は魔力が薄くて飛行できないそうです。 あの山は唯一、島と魔力で繋がる霊峰。 降りたら人里まで沢山歩きますから、母と共に頑張りましょうね」
「あ~い!」
地表へ近付くにつれ気温は高まり、体に掛かる圧力が増していく。 今はクオリネスの効果で負担になる程の変化は起こっていないものの、暫くは順応に時間を掛けるのが良いだろう。
飛行するだけでなく光を屈折することで周囲から中の姿を見えなくし、匂いや音までも最小限に封じ込めてくれる。 クオリネスを掛けている間は近くに寄られない限り誰にも気付かれる事は無い。 テオルドフィーの血族にのみ伝わる秘術だ。
今の様に逃げ隠れしたい時に最適ではあるのだが、如何せん維持するための消費魔力が高くてどれだけ掛け続けられるのか、テオルドフィーには自信が無い。 気圧や気温の変化を遮っているのはクオリネスの効果と言うよりも、大量に込められた魔力の濃度そのものに由る位だ。
まだ三歳になったばかりと幼いアルフェネリアを連れているので本当は出来る限り人里に近い場所へ降りたいけれども、もう既に魔力の消費量と周囲から吸収可能な供給量の乖離が激しくてテオルドフィーは息苦しさを感じた。
天上人にとって魔力とは生命力に等しい大切なエネルギー。 枯渇すればそれは則ち外敵から身を守る盾を失うのと同義で、そのまま緩かな死へと繋がる。
人里へ着いたところで大変なのはそこから生活基盤を作る事であり、辿り着けばそれで終わりではないのだから、とても無茶はできない。
ーー山の麓……までは行けなくても、中腹くらいまでならこのまま頑張れるかしら。 そこからはクオリネスの代わりに、もう少し燃費の良いシルフィンを使って体を軽くすれば、何とかリアを抱いても下山くらいは……。
テオルドフィーは山の木々の形が見える程に降りて来たところで、何処かに建物が見えないか必死に目を凝らす。
大きな街は上空からでもよく見えていたが、大陸中央の山からは何れも遠い。 物価を考えるなら首都や貿易拠点などは近かろうと論外と言えるが、かと言って余り小さな村では余所者を受け入れてもらえない可能性が高い。 そういう意味では大きな街の方が余所者に寛容だと考えられるだろう。
正直、知識だけでは適当な町など判らないな、とテオルドフィーは思った。 判らないと言えば大陸を二分する王国と帝国についてもそうだ。
大陸は霊峰に連なる峰々とそこから流れる大河によって、真っ二つに別れている。 その左右がそれぞれ王国と帝国と言う事なのだが、この二国が昔からいがみ合っているらしい歴史は知っていても、どちらの国に降りるのが良いかまでは判断がつかない。
孤立した天上の島にとっては無関係な他人事でしかないので、大まかな歴史や地理しか知り得なかったのだ。
さて、困った。 そうテオルドフィーが内心で大きな溜め息を吐く頃には山頂の岩の輪郭までもがはっきりと見える程地上に近付いて来ている。
「あっ!」
「リア? どうかして?」
何かに気付いた様子で声を挙げたアルフェネリアは、テオルドフィーの腕の中でもぞもぞともがいて胸にへばり付いていた体勢を変え、溢れ落ちそうな瞳で何処か一点を見詰めながら首を傾げた。
「おこえがきこえました。 たしゅけてって」
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