夏の流星群

美尾籠ロウ

夏の流星群

 約束の十時より二十分も遅れて、水元みずもと佐那さなは〈コスモール・ワン〉の西駐車場に現れた。

「城木って、コーヒー好きな人かわかんなかったけど、二人分買っちゃった」

 水元佐那は、ぼくにアイスコーヒーの入ったプラスチック・カップを差し出した。辺りは暗いのに、ボーダーのTシャツから伸びる腕がまぶしくぼくの眼に飛び込んでしまった。ぼくは視線をそらしながらカップを受け取った。

「ポテチって人選ばないじゃん? でも佐那の好みでコーヒーまで買っちゃった。迷惑だったかなぁ、って」

「迷惑じゃないよ。アイスコーヒー、好きだから」

 汗をかいたLサイズのカップを受け取りながら、カップ以上に、ぼくは汗をかいていた。ほんとうは、コーヒーはあまり得意じゃない。けれどこの駐車場の薄暗がりの中では、ぼくの汗は水元にはバレてないはずだ。

「ガムシロ、一個でよかったよね? あ、二個のほうがよかった?」

「一個で大丈夫」

 作り笑いをして、またもやウソをつく。ガムシロが二個であっても、ぼくはコーヒーが好きじゃない。というか、そもそもぼくはあまりコーヒーを飲んだ経験がなかった――苦いから。でも、そんなことを言えば、「ガキっぽい」と、水元に軽蔑されそうだから、そんなことを言えなかった。

「でさ、城木しろき、持って来た?」

「テント? うん、持って来た」

 ぼくは後ろを向き、膨れた30リットルのバックパックを見せた。

「おっ、本格的。まるでキャンプ行くみたい」

「実際、キャンプみたいなもんだよ」

「なんかドキドキする!」

 水元佐那の笑顔を見ながら、ぼくのほうがもっとドキドキしてる、と思った。

「なんか城木って、見えないよね」

「見えないって?」

「学校じゃさ、いっつもフテ腐れて、なんかスネてるっていうか、機嫌悪そうっていうか、そんなんじゃん?」

「『機嫌悪そう』じゃなくて、ホントに機嫌悪いんだけど」

「でも夜には一人でこういうサバイバルしてる」

「サバイバルとか、大げさだよ。べつにフツーだし」

「あー、また教室の城木の顔になった」

「は?」

「怒った? ごめん」

「怒ってないよ」

 ただ、動揺を隠しているだけだ。

「でさ、どうやって上がるの?」

 水元が一歩ぼくに歩み寄った。ぼくは、ついつい反射的に半歩退いてしまう。

「えーと、あっち」

 ぼくは、水元佐那の顔を直視することができず、視線をそらしながら屋上駐車場へつながる緩やかなスロープを指さした。外壁の三階部分に取り付けられた巨大なCOSMALL ONEの文字を照らすLED照明が、スロープに光を投げかけている。思いの外、明るかった。

 この〈コスモール・ワン〉は、この町でいちばん大きいけれど、世の中的にはむしろ小規模なショッピング・モールだろう、たぶん。レンガ造りを模したその建物は、この町では五百メートル離れた場所からでも見える。それだけ、ぼくたちの住むこの町がちっぽけだ、というわけだ。

「何時だっけ?」

「十時二十五……いや二十七分」

「今の時間じゃなくて」

「え? ああ、極大時刻?」

「っていうんだ。いちばん見える時間」

「明日の三時。夜中じゃなくて、昼の三時っていうか十五時」

「え? 昼とか、ダメじゃん」

「その時間しか見れないってわけじゃないから、今夜ならいつでもいいんだ」

「さすが城木、詳しいね」

 ぼくは上気した顔を見られないよう、夜空を見上げた。看板の光が明るすぎる、と思った。LEDの人工的な光がまぶしすぎる。星が見えなくなってしまうじゃないか。

 水元佐那は先に立って駐車場につながるスロープに向かった。そして、その入り口に張られたチェーンを軽々とまたいだ。七分丈ジーンズから覗くふくらはぎが、不意を衝くようにまぶしくぼくの眼に飛び込んできた。

「全然楽勝!」

 気を取り直して、遅れてぼくも「よいしょっ」と小声を出して、不恰好にチェーンを越えた。楽勝じゃなかった。

 水元はくるっとぼくに背を向けて、カーブするスロープを駆け上がった。慌てて追いかけようとして、ぼくの両脚はもつれた。

「遅いぞーっ!」

 水元佐那が声を上げる。

「コーヒーこぼれるって」

「こぼしちゃえーっ!」

 水元はもうカーブを越えて、その姿が見えなくなっていた。

 屋上駐車場まで駆け上がると、すっかり息が上がってしまった。今夜も熱帯夜になるのだろう。たっぷりと湿気を含んだ重い空気が、ねっとりと体に絡みつく。全身から噴き出した汗が気持ち悪かった。どうしてロンTに分厚いジーンズなんていう服装で来てしまったんだろう、と後悔する。

「おーそーいーっ!」

 屋上駐車場のど真ん中にすっくと立つ水元佐那の姿が眼に入った。芝居がかった仕草で、両手の拳を腰に当てていた。

「声がデカいって。警備員回ってるし」

 低い声でたしなめた。「マジ?」と慌てた声を上げて、水元はぼくのところまで駆け戻ってくる。

「でもどこにテント張るの? 警備員来るんだったら、ムリじゃん」

「あの上」

 ぼくが指さしたのは、店内と屋上駐車場を結ぶエレベーター室の、さらにその屋根の上だった。見上げた水元佐那は、怪訝そうに眉根を寄せた。

「階段とかある?」

「上れるよ。ちょっとムズいけど」

 ぼくたちは、エレベーター室の脇に回った。急に周囲が暗さを増した。ポケットからLEDペンライトを取り出して、頭上を照らした。

「屋根の上に、水道の貯水タンクがあるんだ。で、梯子はしごが付いてる」

 見上げれば、外壁に錆びた金属製の梯子が取り付けられているのがわかる。けれどその下端は、足元まで伸びてはいなかった。不届き者――ぼくたちみたいな悪い子どもたちとか――が、勝手に上がって来れないように、手の届かない高さで断ち切られるように梯子は終わっていた。

「ジャンプしても……無理かなぁ」

 水元みずもと佐那さなのつぶやきを聞き、ぼくは少し得意げな気分になった。

「無理じゃないよ。ぼくでも上れるぐらい」

 ぼくは外壁に伸びる雨水の排水管をつかんだ。外壁に足を踏ん張る。片手にアイスコーヒーのカップを持っているから、ひどく上りにくかった。上下に伸びる排水管を手がかりに、外壁のデコボコを足がかりにして這い上がり、梯子の下端に取りついた。

「おー、スパイダーマン城木、やるねー」

 下から水元佐那の声が聞こえた。ぼくは梯子を数段上り、体勢を安定させた。

「全っ然、余裕」

 ぼくは強がった。

「これって摑まっても、壊れたりしない?」

「結構頑丈だよ。水元って軽いよね? 体重何キロ?」

「おいおい、それ、女子に訊くかぁ?」

 水元佐那は長い手と脚を使って、ぼくよりも身軽にすいすいと外壁を上がり、梯子のいちばん下の段につかまった。

 水元佐那は、ぼくを見上げて「ほらっ!」と右手を差し伸べてきた。ぼくの脳味噌がそれが意味することを理解するのに、たっぷり三秒、いや五秒は必要だった。ぼくはジーンズの太ももで手のひらをごしごしと拭った。

 そして、水元に向かって手を差し伸べた。

 水元佐那が、ぼくの手を握った――力を込めて。

 軟らかく、そして少しひんやりとして、湿っていた。いや、汗で湿っているのはぼくの手のほうかもしれない――そんなことを思いながら、ぐいっと水元佐那を引き上げた。


「ズルいぞ、城木。こんな絶景ポイント知ってるのに、誰にも言わないんだもん」

 水元佐那がぼくの二の腕を小突いた。

「絶景だから、人に言いたくなかった」

「なんか、空気が地上と違うよね。気持ちいいなぁ。温度も湿度も低いね、ここ」

「気のせいかもしれないけど」

 ぼくが答えると、水元は不意にぼくの顔を覗き込んできた。

「なんで水を差すこと言うかなぁ。城木のそういうクールっつうか、斜に構えたとこ、カッコいいと思ってるかもしれないけどさ、非モテポイントだから直したほうがいいね。厨二っぽいし」

「中一だよ」

「そうだけど! 確かにウチら中一だけど! 言いたいことわかってるくせに」

 確かにわかっている。しかしもっとわかっているのは、夜の十一時過ぎに水元佐那と二人っきり、並んで夜の町を眺めているなんてことは、ぼくの気分を大いに動揺させている、ってことだ。

「あそこの明るい光、何?」

 水元が暗い町の一角を指さす。

「ガソリンスタンド。ほら、国道沿いにあるセルフのやつ」

「ああ、ルイんちの近くのアレかぁ。じゃ、学校はこっちの方角だね」

 たかだか四階建ての〈コスモール・ワン〉のてっぺんから、町の南側のほとんどを見渡すことができる。明かりの灯った住宅地と、黒く塗りつぶされた農地がくっきりとわかれて見える。規則正しく並ぶ光の点は、町を東西に横断する国道の街灯だ。行き来する車のヘッドライトは、ほとんど見られない。

「こうやって見るとさ、この町ってマジ田舎だよね。田んぼとビニールハウスとちっちゃい家ばっか。あの明かりが国道沿いのラブホでしょ? で、あそこの明るいのが、コンビニ。それ以外、ほぼほぼ真っ暗って、どんだけ田舎なんだ、って話だよ。実はこの町ってさ、全然フツーじゃないんだよね、きっと」

「あんな遠くまで見渡せるっていうのも、都会ならあり得ないかも」

「『かも』じゃないよ。背の高い建物って全然ないし。駅西の十一階建ての、あのマンション一個だけじゃん。マジないわー、この町」

 水元佐那が指さしたマンションには、母さんの職場の「友だち」とかいう男の人が住んでいるはずだ。東京でバリスタの修行をしたらしい「友だち」に、ぼくは一度だけ会ったことがある。すごく若く見えたけれど、実は三十一歳だった。それでも母さんより十歳以上若いけれど。その人の部屋が何階なのかは、知らない。母さんは今この瞬間、あのマンションにいるはずだ。母さんは、マンションのベランダから「友だち」と一緒に流星群を眺めていたりするんだろうか、とふと思った。そしてそのコンマ二秒後には、そう思ってしまった自分自身に、激しく腹が立った。

「どーでもいいっ!」

 意図せず、ぼくの口から強い声が漏れた。

「そうだよ、マジどーでもいい町」

 南西に位置するJRの駅を、貨物列車が通過するのが見えた。数秒遅れて、汽笛の音がぼくたちの耳に届いた。

「あっ、流れた! 今、流れたよね?」

 唐突に水元佐那が声を上げ、ぼくの二の腕を摑んだ。

「あ……見逃した」

 言いながら、水元が摑む右腕のほうが、夜空よりもぼくには気になってしかたがなかった。

「もー、何やってんの! っつーかさ、そのためにウチらここまで上ったんじゃなかったっけ? プロメテウス座流星群」

「ペルセウス座流星群だけど」

 ようやくぼくたちは、本来の目的を思い出した。

 そこで、まずテントを張ることにした。ぼくがおこづかいをためて半年前に買った、一人~二人用の小さなテントだ。二本の支柱となるポールを伸ばし、足元に拡げて敷いたテント本体に十文字に通す。そして、弾力性のあるそのポールを、「せーのっ!」と声を合わせ、二人同時に力を込めてぐいっとU字型に湾曲させて立ち上げ、ドーム状のテントを建てるのだ。いつもは、ぼく一人でテントを建てている。一人でやると、かなり面倒な作業だ。しかし二人で行えば、あっけないほど簡単であることをはじめて知った。

 これからは二人でテントを張らなきゃいけないな、と思った。いや、絶対に二人で張りたい、二人でやるべきだ、と強く思った。

 ドーム型テントが建ち上がるや否や、水元佐那は 「うわぁ、ナツいーっ!」と声を上げ、もぞもぞとテントに潜り込んだ。

「何してんの?」

 ぼくの言葉が聞こえているのかいないのか、水元はテントの暗がりの中で体育座りをして「むふふふ」とニヤけた楽しそうな笑顔を見せていた。

「保育園の頃さ、コタツを横倒しにして布団かぶせて、家を作んなかった? でも、中で何かやるわけじゃないの。座ってるだけ。妙に気持ちよくて落ち着くんだよね、これが。暗いし、狭いし、ここだけ全部百パー自分が支配できる空間って感じがするんだよね。めっちゃナツい! 思い出させてくれて、ありがと城木!」

「あ、あぁ」

「城木もおいでよ、ここ!」

 水元佐那は体育座りをしたすぐ右隣を、手でぽんぽんと叩いた。

「流星群見るんじゃないの?」

 ぼくは、肋骨の下で揺れる心臓の動きを悟られないように、できるだけイラだった声音を装った。

「つまんないなぁ! 城木ってさ、ホントに微妙な情緒を理解しないよね」

 口を尖らせながらテントから這い出てきた水元佐那に、ぼくは畳んだ銀色の断熱マットを「水元も手伝ってよ」突き出した。

 二人で、テントの隣にキャンプ用の断熱マットを拡げた。二畳ほどの広さで、もともとはテントの中に敷くためのものだ。ぼくよりも先に、水元佐那がごろんと断熱マットの上に仰向けに横たわった。

「こんなふうに夜空を見るのって、ひょっとすると生まれてはじめてかも」

「え? マジで?」

 信じられなかった。どうして星を見ずに、毎日を過ごせる? 晴れていれば、ぼくは夜空を眺めないではいられない。地上を見回したって、ありふれて、薄汚れていて、つまらないものしか眼に入らないんだから。

 ぼくは断熱マットの脇に立って、天頂を見上げた。

 本音を言うと、夏の空はあまり好きじゃない。冬のパキッと透き通っていて、はるかに高い夜空とは違っているからだ。夏にはモヤッとした塵だらけの空気が地上と天球のあいだに充満し、ぼくと星たちのあいだを邪魔する。

「わー、スゴイスゴイ!」

 仰向けの水元佐那が不意に声を上げた。

「空見てるとさ、だんだん見える星が増えてくる。さっき二、三個しか見えなかったのに、今は……えーと、二十個くらい見える!」

「頭のテッペンからちょっとズレたとこに見える明るい星、わかる? それが、ベガ」

「あ、あれかぁ、見える見える!」

 水元佐那の少々大げさなほどのリアクションが、ぼくには妙にうれしかった。

「こと座の一等星で、日本語で言うと、七夕の織女星しょくじょせい

「あー、乙姫おとひめだよね。じゃあさ、彦星ひこぼしも見える?」

「うん、あそこらへん」

 ぼくが南の空に向かって人差し指を突き出すと、不意に足元で水元佐那が「くくくっ」と笑い出した。

「その体勢、首痛くない?」

「うん、確かに痛い。かなり痛い」

「だったらさ、城木も佐那と一緒に寝ればいいじゃん」

 平然と言う。

 その台詞に他意を嗅ぎ取ってしまうぼくのほうがどうかしてるのだ。ポケットからタオルハンカチを引っ張り出して、額の汗を拭った。蒸し暑くはないはずなのに、なぜ汗が出る?

 ぼくは、おそるおそる断熱マットに近づいた。そして、そのギリギリ端っこに、できる限り水元佐那から体を離して、仰向けに横たわった――視界いっぱいの天球。その片隅に見える水元佐那の横顔。

 ぼくは南の空を指さした。

「彦星は、あそこ。わし座のアルタイル」

「わー、はじめてリアルに見たよ。あっちの明るい星は?」

「はくちょう座のデネブ。デネブとベガとアルタイルの三つの一等星で、夏の大三角を作るんだ。デネブって白鳥のお尻んとこにある。周りの暗い二等星や三等星と一緒に十字架の形になってるんだけど、わかる?」

「なるほどね、あれが白鳥になってるってわけかぁ! 昔の人のイマジネーション、ハンパないね!」

「ちょうど白鳥が、天の川の上を飛んでるんだ。もっと空気が綺麗な山奥とかだったら、天の川がちゃんと見えるはずなんだけど」

 ぼくは腕を伸ばし、視界の上から下へと、天の川を指でたどった。

「天の川、見えないのかぁ、残念」

 水元佐那もぼくを真似て、長い腕を天球に向かって差し伸べた。

 今度は二人同時に、この小さな町では見えない天の川を、指先でゆっくりとたどった――上から下へ、天球を横切って。

「あ、流れた!」

 水元佐那が短く声を上げた。

「え? 流星?」

「もー、また見逃したの? 何やってんの、星座オタクのくせに!」

 水元佐那が、拳でぼくの肩を軽く殴る。

「オタクってほど詳しくないよ」

 ぼくは、ただ星を見るのが好きなだけの、中途半端なド素人だ。深い天文の知識なんか持っていないし、勉強しようとも思ってない。ただ夜の町を徘徊し、誰もいない場所で空を見上げながら、テントで一夜を過ごすのが好きなだけだ。

「水元は、時間大丈夫? もうそろそろ十二時過ぎるけど」

「平気。どうせママは夜勤だし、家に誰もいないし」

 お父さんは?……と訊こうとしたが、何かがぼくをためらわせた。

「城木こそ大丈夫?」

「いつものことだし、誰も心配してないよ」

 そう言いながらも、ジーンズのポケットから携帯電話を引っ張り出した。小学生が持つようなキッズ・ケータイだ。人に見せるのが恥ずかしいから、学校で使ったことはない。

 切っていた電源を入れると、ほどなくして震動した。父さんから留守電が六件入っていた。最初の着信が22時03分で、最後の一件は、22時31分の着信。父さんは、諦めるのが早い。

「やっぱ、心配してんじゃん?」

 水元佐那が上半身を起こした。

「いいよべつに。どうせうちの親、今ごろは呑んで寝てる」

 ぼくは携帯電話の電源を切り、ポケットに突っ込んだ。

 どちらともなく黙り込んだ。気温が下がってきているらしい。涼しい風がぼくたちの上を吹き抜けて行った。ぼくは五回連続でくしゃみをした。くしゃみと一緒に、どういうわけか涙も出た。

 不意に、水元佐那が手を伸ばし、ぼくの肩をつついた。

「気のせいかなぁ、見える星、減ってる気がしない?」

 気のせいではなかった。ぼくたちの頭上に拡がる天蓋を、薄いグレイの雲がみるみるうちに隠しつつあった。今まで輝いていたベガも、アルタイルも、デネブも、その光を弱めていた。

 一瞬後、額に冷たく鋭い何かが額にぶつかった。

「雨……?」

 ぼくと水元佐那は、同時に同じ単語を発した――それから五秒を待たずして、水滴が連続してぼくたちの頭上へ降り注ぎ始めた。

「もうーっ、サイアク!」

 水元佐那がうめく。

 その単語を発する数秒の間にも、頭上から落ちてくる雨粒は急速に数と勢いを増して、叩きつけてくる――ゲリラ豪雨というやつだ。

 ぼくと水元は、コトバにならない甲高い悲鳴を上げながら――同時に、なんだか楽しくなってしまい、笑い声を上げながら、テントに潜り込んだ。


 狭いテントの中で二人、体育座りをして、自分の両膝をぎゅっと抱きかかえた。天井からぶら下げたLEDペンライトからの揺らぐ光が、水元佐那の華奢な顎のラインをちらっちらっと照らし出した。降り注ぐ雨粒は、遠慮もなく激しくテントを叩いている。ひっきりなしにテントに降り注ぐ雨音が、耳の近くでうるさいほどだ。

 水元佐那が、膝を抱えたまま「くふっ」とぼくの脇で笑いを漏らした。嬉しそうに、テントの天井を見上げている。

「もし晴れてたらさ、他にどんな星が見えたの? 教えてよ」

 そう尋ねる水元の声に、ぼくはハッとした。

「えーと、たぶんあそこらへんに赤い星が見えるはず」

 ぼくは腕を伸ばして、天球の南の低い位置に人差し指を向けた。指先が、テントのポリエステル樹脂に触れた。

「ふーん、名前あるの?」

「あるよ。さそり座のアンタレス」

「えっ、さそり座って今見えるの? 佐那って、十一月生まれの『さそり座の女』だよ? 十一月にさそり座見えないの?」

「星占いの誕生日とは違うって。黄道こうどう十二宮じゅうにきゅうってのは、太陽の通り道の……」

「出た、専門用語! さすが星座オタク!」

「星座オタクじゃないってば!」

「あ……また怖い顔になった」

「べつに怒ってないし」

 そう、全然怒ってなどいない。水元佐那になら、茶々を入れられてもイヤな気分にならない。それはどうしてだろう?

 ぼくは考えることをやめて、夜空の奥に向かって手を伸ばした。さそり座の赤い一等星を指さす。あれが、アンタレス――英雄オリオンを刺したサソリの心臓。

 東から昇りつつある四角形の星座がペガススの胴体――ペルセウスが駆る天馬。そのすぐ隣に、アンドロメダ――母カシオペアの怒りから、巨大鯨ににえにされようとする王女。彼女を救ったのが、ペルセウスだ。天蓋では秋の星座が姿を見せ始めていた。いつの間にか、季節は変わりつつある……

 はっとして口をつぐんだ。また、ぼくはしゃべり過ぎてしまった。

 いつもそうなのだ。周囲を見渡すことなく、ついつい自分の視界の奥へ奥へと没入してしまう。ぼくの悪い癖だ。

 一学期の初めにも、同じことをやらかした。ようやく仲が良くなりかけた後ろの席の男子が、ぼくが星座の話をするうちに、一気にのけぞるように引いていった様子が忘れられない。

 相手には扉を開けて欲しいのに、開きかけた扉をぼくのほうから閉じてしまう。小学生の頃から、いつも同じことの繰り返しだ。腹が立つほど、ぼくは不器用なのだ。そんな眼の前の現実に気づくと、声を上げて泣きたくなってくる。でも泣くことなんてできないから、ますます一人で空を眺める時間が増えるのだ。

「どうしたの?」

 思いがけなく近い距離からの水元佐那の声に、ぼくは我に返った。

 上体を起こした水元が、怒ったように口を尖らせてぼくの顔を覗き込んでいた。

「ストップしないでよ、聴いてたのに」

「あ、ああ、聴いてたの? ぼくの話」

 ぼくは、断熱シートの端へ体をじりっとずらした。体の側面がテントに密着した。外側を流れ落ちる雨粒のおかげで、ひんやりとする。

「ふつう聴くでしょ。一生懸命、佐那さなに教えてくれてるんだから。でさ、ほかにどんな星が見えるの? 南十字星とか、出てない?」

「南十字星は、もっともっと南に行かないと、見えないよ」

「ハワイとかなら?」

「あー、だったら見えるはず」

「城木は行ったことある、ハワイ?」

「ないよ。だいたい、海外に行ったことない」

「佐那も。東京にも行ったこともないし。っつーか、県外に出たことないってさ、ありえなくない?」

「京都とか奈良は? 小学校の修学旅行で」

「あー佐那ね、そんときノロウィルスにかかっちゃって、行けなかった。せっかく県外に出られるチャンスだったのに」

 しばらくぼくたちは無言のまま、雨粒が叩くテントの天井を――その向こうに拡がっているはずの夜空を見上げていた。

「ねえ城木、一緒に行こっか?」

 唐突に、水元がはるか向こうの天蓋に向かって言った。

「行くって、どこ? ハワイとか?」

 冗談めかして半笑いで訊いたが、水元佐那の横顔は真面目だった。

「ハワイじゃなくていい。とにかく……どこか。遠くなら」

 ぼくは、自分の口元に浮かびかけた笑みを奥歯で噛みつぶした。少し苦い唾を飲み込んだ。乾いた唇を舐めて湿らせた。水元佐那に顔を向け、勇気を振り絞って、言った。

「実は、おんなじこと考えてた。今日は水元が来なくても……ぼく一人でどっかに行っちゃおうと思ってた。テントはあるし、お金も……」

 ぼくはジーンズの尻のポケットを探り、父さんの財布から抜き取ってきたクレジット・カードを取り出すと、宙でひらひらさせた。

「すごい! 準備万端じゃん! で、どうやって行く?」

「歩いてもいいし、朝まで待ってから、始発電車に乗ってもいい」

「それとも……ヒッチハイクとかどう?」

 水元佐那がぱっと笑顔を弾けさせて、ぼくを覗き込んできた。

「知らない人に乗せてもらうの? ぼくたち中学生だよ。乗せてくれるかなぁ」

「きっと親切な人がいるよ。世の中捨てたもんじゃないって」

 疑いなく笑顔で言える水元佐那が、羨ましい。「悪い人間も同じくらいいる」なんてことを口に出すと、冷たくて夢のない性悪説せいあくせつの人間だと思われそうだった。

「雨上がったら、国道に出てみようよ。親指立てて車を停める役、佐那がやる」

「そうだね、雨が上がったら」

 どんな人が車を停めてくれるのだろう――漠然と抱いていた問いが、にわかに実感をともなってぼくに迫ってきた。

 ぼくたちは、どこへ連れて行ってもらったらいいんだろう? 駅? 空港? それとも直接、東京に?

 その行き先には何があるんだろう? いや、ほんとうにぼくたちはこのちっぽけでつまらない町から出ることができるんだろうか?――いろいろな思いがあとからあとから浮かんでは消えた。期待よりは不安が大きく、興奮よりは小心さが勝っていた。その点で、今のぼくと水元佐那の心持ちは、決定的に違っているはずだった。立ちすくむ気持ちを押し殺した。

「早くやんでくんないかな」

 つとめて明るい声を装って、テントの闇の中につぶやいた。


 雨は、すぐにはやまなかった。

 ぼくと水元佐那のどちらが先だったのかはわからないが、いつの間にかぼくたちはウトウトと眠りに引きずり込まれていた。

 眼を覚ますと、水元佐那は断熱マットの上にいなかった。もう雨音はしなかった。ポリエステル樹脂の向こうから、うっすらとした光を透過している。

 テントの外に這い出ると、水元佐那が屋上の縁ギリギリに立っていた。朝の色に染まり始めた町を見下ろしている。

「危ないよ」

 ぼくの声に振り返った水元佐那の両眼は、少し濡れているような気がした。しかしそれは昇りかけた朝日を反射しただけなのかもしれない。

「なんか……ごめん」

 水元佐那が言った。

「何が?」

「なんか、いろいろと……佐那だけ一人で流星見ちゃったりとか」

「うん、確かにそれはズルい。テント畳むの、手伝ってよ」

 二人の手を使っても、ずぶ濡れになってすっかり重たくなったテントを畳み、バックパックに押し込むのには、思いの外時間がかかった。〈コスモール・ワン〉の屋上から地上の西駐車場に降り立ったときには、もう完全に夜が明けていた。時間は五時半を過ぎている。雨のお陰で気温はまだ低かったけれど、すでに空に雲はなかった。気の早いクマゼミが、もう鳴き始めていた。今日もまた暑くなりそうだ。

 二人とも黙ったまま、ノロノロと歩き始めた。なんとはなしに、ぼくたちの足は国道には向かなかった。ぼくたちは、お互い口にすることもなく、自分たちの家へと歩いていた。

「今夜もどっかにテント張って、空見るの?」

 水元佐那が口を開いたのは、ぼくの家まであと三ブロックほどまで来たときだった。

「さあ、どうしよっかな。極大時刻は今日の昼だから、今夜でもまだ充分見れると思うけど。水元も来る?」

 ふた呼吸ほど遅れてから、水元佐那は「やめとく」と小声の返事を返した。

「そっか。ぼくも、今夜はまあいいや」

 二人とも、それから無言で、さらに速度を落として歩みを進めた。

「じゃ、またね」

 ぼくのアパートが見えるところまで来ると、水元佐那は手の平を胸の前でひらひらさせた。

「うん、また今度」

 ぼくもちょっとだけ手を振った。急に背中がむずがゆいような気持ちになった。水元に背を向け、アパートに向かって駆け出した。父さんはまだ寝ているだろうか、と思った。母さんは「友だち」のマンションから帰って来ているだろうか?

 アパートのすぐ前でふと振り返ると、まだ水元は同じ場所に立っていた。ぼくは、今度は大きく手を振り返した。

 手を振りながら、もしも夕べ雨が降らなかったら――と思った。ぼくと水元佐那は、見知らぬ人の車に乗って、この町を捨ててどこか遠くに行けただろうか? いや、雨が降り込められたからこそ、ヒッチハイクの話題が出たのだ。降らなければ一晩中空を見上げていたはずだ。そうしたら、ぼくはいくつの流星を見られただろうか?

 わからない。

 ぼくにわかっているのは、朝が来てしまったということだ。ぼくと水元佐那には、またこの町でクリアすべき「今日」という日が与えられてしまったということだ。

「ねえ城木!」

 唐突に水元佐那が声を上げた。

「佐那、気づいてたよ!」

「何に?」

 大声で訊き返しながら、ぼくには他にわかっていることがあった。

「ホントは城木って、アイスコーヒー好きじゃないでしょ。バレバレだった!」

 濡れたテントから沁み出した雨水が、ぼくの背中とお尻を濡らしてひどく気持ち悪いということを、ぼくはわかっていた。

「気づいてたんなら、言ってくんないかな、超恥ずいから!」

 ぼくは叫び返した。

 けれど、その気持ち悪さなんて、今のぼくには全然平気だっていうことも、ぼくには何よりもはっきりとわかっていた。

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