公民権運動の象徴たるニタムニ語について

 さてここで、「ニタムニ語」とは何なのか、説明をしておきたい。


 紀元前2000年頃、太平洋に巨大な島があった。ちょうど、チュルルク環礁のあたりだ。

 その島こそニタムニ人の故郷たる島なのだが(様々な呼び名があるが、ここでは便宜上「ニタムニ島」と呼ぶ)、この島はおそらく地殻変動のため、急激に陸地を失ってしまう。おそらくと言うのは、この島の痕跡、もしくは遺構であるとハッキリ分かるものが未だに発見されないからだ。


 楽園から追い出されたニタムニ人は、丸木舟など原始的な舟艇にて太平洋沿岸地域に散らばっていったのだが、そのほとんどは原住民との同化と混血が進み、言語や民族の独自性を失っていた。


 ただし、ポリネシア南方にある大型の島、ニュードンスター島のニタムニ人だけは、古来より連綿と受け継がれる文化と言語を残していた。

 1685年にイギリス海軍の冒険提督、ドンスター候ドムドムに発見されたこの島は、ニタムニ人が漂着するまで無人島で、ここに住む民族はドンスター候が上陸するまでニタムニ人のみであった。


 だがこの出会いは、当時の原住民と欧州人の邂逅の例をあげるまでもなく、ニタムニ人にとって絶望的な運命の始まりであった。


 当時12万人いたとされるニタムニ人は、太平洋での植民地建設のため、まとまった労働力を必要としていた欧米人にとっては都合のいい奴隷候補であった。第二の「楽園」であったニュードンカスター島から、各地の植民地へと連行されたニタムニ人は、欧州人の支配地域の拡大に従い、各地に「輸出」されていった。その範囲は太平洋のみならず、インド洋沿岸やその後開発が始まった南北アメリカ大陸にまで及んだ。


 そのような悲惨なニタムニ人の境遇は、第二次世界大戦後の公民権運動により、ようやく終わりを迎えた。と同時に、彼らのつかう言語が、公民権活動家や、その理念に共感する人々に好意的に扱われるようになったのである。


 各地に散らばったものの、ニタムニ人は自分たちの子供を子々孫々に伝えていたのである。

 奴隷制において、奴隷の増加は労働力確保と商品生産という意味で、奴隷同士の生殖行為の強要(つまり「種付け」)が積極的に行われていた。

 その過程でマイノリティであったニタムニ人は他民族と交雑していったのだが、その中でもニタムニ人は、いつか自分たちの国が蘇ることを信じて、自分の子への言語継承を忘れなかったのである。

 同時に、ニタムニ語はマイナーな言語だったゆえ、奴隷同士でコミュニケーションをとるのに都合がよかった。そのため、300年以上、ニタムニ語はニタムニ人の血を受け継ぐ奴隷達によって保存されてきたのである。


「ニタムニ語は、まさに奴隷制と人種差別へのアンチテーゼである。人類の誇りの象徴である。人間の尊厳、そして権利は、あらゆる民族、すべての立場の人々が決して失わない、何者にも侵されない、そして何人たりとも傷つけられないものであることを、ニタムニ語は教えてくれる」


 アメリカの公民権活動家、ドナルド・S・マクダーナルが、1959年にワシントンで開催された人権活動集会の開幕式にて述べたこの言葉は、ニタムニ語が公民権活動のシンボルとして使われるきっかけとなったものとして有名である。


 ニタムニ語とその歩んだ歴史は、進化と機械化を加速していく社会への疑問と、人間の尊厳を強く意識しだした人々の心に、強烈な感銘を与えたのである。

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