First Bullet -1-

 上も下も、右も左も分からないような曖昧な空間に「オレ」はいた。



 そこはどこか懐かしいような、深い水中のような無音の空間だった。



「あたし」の呼吸の音さえ聞こえず、生きているのか死んでいるのかすら分からない。



 よく見知った幾つかの声が聞こえた気がした。

 誰かが「俺」に向かって手を伸ばしていた。


わたし」はそれを掴もうとして―――



 バチン、と激しい電流のようなものが手と手の間を走った。


 その電流のようなものに驚いて「ボク」は伸ばしていた手を引っ込めた。


 そして「僕」は為す術なく、空間の底へと沈んで行った。














「………ここは………」


 気怠い体を起こして周りを見ると、そこは薄暗い路地裏だった。

 埃っぽくて薄汚く、陽の光が当たらないために薄暗い、何処にでもあるような路地裏だった。

 所々にビール瓶だとか、何かの破片だとかが散乱していて少し危ない。

 立ち上がるとくらりと目眩がした。



 特に行く宛もないが、街の雑踏に足を踏み入れてみようかと、路地裏を抜ける。



 そこは高い建造物が立ち並ぶセンター街で、その建物の隙間を縫うように絶え間なくたくさんの人が蠢いていた。


 建物の壁面にはスクリーンが忙しなく広告を映し出し、街の雑踏には意味の無い言葉が溢れかえっていた。


 どれも見覚えの無い景色で、まるでテレビドラマのワンシーンを眺めているような気分だった。



 信号を渡り、2ブロック程歩いてからふと立ち止まった。



 シンプルな服装に眼鏡を掛け、虚無を閉じ込めたような目をした、無表情の、そんな人物がこちらを見ていた―――否、それは建物の硝子に反射した自分の姿であった。


 自分は一体どのような人物で、なんという名前で、どこに住んでいて、どんな事をしていて、どういう趣味で、どういう人物だったのかが思い出せなかった。


 自分の容姿すら今この瞬間まで忘れていた。

 

 何故自分は路地裏で倒れていたのか。


 そして何よりも強い違和感が僕を取り囲んでいた。


 本当は今、何かしなくてはいけないはずなのに、それがなんだったかを思い出せない。

 まるで大事なシーンなのにセリフが浮かばなくて詰まっている役者の気分だった。




 その時。


 トントン、と僕の肩を誰かが叩いた。

「!?」


 咄嗟に僕はその手を振り払い、手首を掴んで建物の硝子に押し付けた。


「……あぁ、驚かせてしまったかな。すまないね」と、笑みを浮かべた老紳士がそこにはいた。


 突然声をかけられ、今しがたしてしまった自分の行為に戸惑い、そしてこの老紳士に少しの不信感をあらわにしながら僕は「いえ…」と返して手を離した。


 すると老紳士は、「君、自分が誰で、今まで何をしていたのか、分かるかい?」と、問いかけてきた。

 何故そんなことを聞くのだろう。

「……いえ。残念ながら、自分の名前も、記憶も思い出せないので」


「そうか。では、私の事も分からないということかな」

 ゆっくりと頷く。

 すると老紳士は少し黙り込んでから、柔らかな微笑を浮かべて、こう言った。


「私は君の事をよく知っているんだ。もし、君が自分の事を知りたいと願うのなら、私について来なさい。

 記憶を取り戻す方法を教えてやろう」

 

 自分の中の危険信号が点滅していた。

 明らかにこの老紳士はおかしい。

 この沢山の人の中からピンポイントで自分に声をかけてきた辺り、面識があるのは本当なのかもしれない。

 けど、如何して最初の質問ができたのだろう。まるで初めから僕が記憶喪失者だと知っていたかのような発言だ。

 それを思うと、彼が言うことは信じ難い。

 これは裏に何かあるのでは無いだろうか……。



「……残念ですが、僕は貴方を信用しきれない。だからついて行くことは出来ません」



「そうかね。では周りを見てご覧」


 周りを見ると、群衆は皆僕に、いや僕達に注目していた。


 好奇の視線が四方八方から突き刺さる。


「君が突然、私を壁に押し付けたりするからだよ。どうせ君には行く宛も何をしたら良いのかも分からないんだろう?

 少しの間、この老人の話を聞いてくれるだけでいい、それにここに留まるのは気まずかろう?」

 暇潰し程度でいいのさ、と老紳士は微笑んだ。



「……では、話を聞くだけ聞きましょう」



 この選択は、後に僕を苦しめる事となった。

 










「まぁ、座り給え」


「……失礼します」


 連れてこられたのは市街地から少し外れた所にある落ち着きのある佇まいの洋館で、どうやらこの老紳士はここに1人で住んでいるらしかった。


「そう固くならずに。寛いでくれて良いのだよ?」そう柔らかく微笑む老紳士は、先程自分と僕の為に用意した茶を優雅に啜っていた。


「……僕は茶を飲みに来たのではありません。貴方の話を聞きに来たんです」


「つれないね、今の若者は」

 そう言って目の前の老紳士は静かに笑ってまた茶を啜った。


 とりあえず老紳士に倣って茶を啜り、彼が話し出すのを待っていた。

 すると暫くして、老紳士は茶を飲み終えたらしく、ゆっくりとティーカップを机に置いた。

 僕もティーカップを置き、老紳士の言葉を待つ。


「私は君の事をよく知っている。先程そう言っただろう?」


「……ええ」


「更に言うと、君が記憶を失った原因も知っている」


 一言で言うと、めんどくさい。

 回りくどい、そんな感じがした。


「……はぁ、それで?」


「驚かないのか?私は君の記憶を奪った張本人かもしれないし、君の敵かもしれないのだよ?」と、クツクツと笑いながら老紳士が問いかけてくる。


「少なくとも、それは今の僕にとってどうでもいい事です。

 もし貴方が僕にとって害を成す人物なのだとしたら、記憶を取り戻したあとでどうにでもしますよ」


「全くその通りだよ。私も君の立場ならそうするだろう。やはり君は賢い。

 では、本題に入ろうか。

 まず君の記憶についてだが、確実に取り戻す方法がある」


「……どんな方法ですか」


「まあ、それはまだ言えないよ。

 ……それでね、私はその方法で君の記憶を戻すと約束をする。必ずだ。

 だけど、対価なしにこの約束を果たすつもりは無い」





「……分かりました、では貴方の望む対価とやらを払いましょう。で、貴方の望みはなんなんです。僕に何をさせたいんですか」



「5人の殺人鬼の討伐、かな」


 リアリティーのない、ゲーム世界での出来事のような内容を彼は軽い調子で、まるで

 母親が朝食のメニューを聞かれて答えるかのような調子で答えたのだ。



「殺人鬼と言うと語弊があるかなぁ……。まあ、取り敢えず簡単に言うと、君に殺人を依頼したいという事さ」


 殺人、そう聞いて僕は強ばった。


「……その殺人鬼とやらを殺して、僕にとって何の得があるんだ。ただ僕が貴方の代わりに罪を犯して汚れ役を引き受けるだけじゃないか!」


「罪に関しては心配ないよ。全て私が揉み消すし、」

 そう言った老紳士の言葉を遮り、


「そういう話をしてるんじゃない、どうしてそんな事を頼むんだ!


 ……僕には、記憶喪失の僕は身元不明だから罪を被せるのに丁度いいと貴方が思っているようにしか考えられない」



「まぁ、そのように考える程私の事が信用出来ないのも無理はないさ。

 君の事をよく知っていて、しかも記憶を戻してあげるだなんて、胡散臭い話だろう。

 それに、君のような少年に殺人を頼むだなんて普通の大人ならしない事だ」


「じゃあなんで……!アンタはなんで僕にそんな事……」


「……理由はまだ言えないよ。私は言ったはずだ、対価なしにはこの約束を果たすつもりは無いと」


「……僕に殺人を頼む理由は、記憶と深く関係があるから言えない、という事ですか」


「まぁ、そうだね。……君の返事はYesでもNoでも構わないから、取り敢えず先にこれを渡しておくよ」


 そうして老紳士は机の上に拳銃を置いた。



「ただの回転式拳銃だ。少し古めかしいものだけど。装弾数は6発。……これを君にあげよう。用途は自由だ」


「6発……」



「銃弾は予め込められているから気にしなくていい。だけど、私はこれ以上君に銃弾を渡さない。もし依頼を受けてこの銃を使うんだとしても6発で彼らを殺すように。……あぁ、勿論この国で銃弾の換えを用意しようだなんて、そう簡単な事じゃない。何せこの国は一般人の銃の所持を禁止しているような国だからね」

 そう言い切ると老紳士は銃を指で弾き、こちらに寄越した。



「……そんな国で、なんで貴方はこれを用意出来たんですか」


「細かいことは良いじゃないか。で、どうするんだ。……君はこの銃を、どう使う?」



 数秒間の重たい沈黙がその場に流れた。




「……もし僕が、今この銃を持って記憶はいらないから依頼も受けないと言って逃げたらどうするのですか」


「その時は、私は君を逃がさない。

 記憶喪失の人間が逃げ回ることの出来る範囲なんて大したことはないだろうから、裏から手を回して必ず見つけ出す。君はこの依頼の話を聞いている時点でもう秘密を共有しているんだ。その秘密がもれないようにする」


 老紳士は最初の優しい笑みではなく、冷徹で、黒を纏った支配者のような嘲笑を称えてそう言った。


 その時の老紳士の目は何処までも昏く、拳銃は僕の手元にあるのに、まるでそれを僕に向けられているような気分になった。



 その時気づいた。

 最初から、この老紳士に着いてきた時点で既に僕からは選択肢が奪われていたのだと。


 ――ならば、僕が生き残るためにはもうやるしかないのだと。


 そして僕は肯定の意を込めて、銃を手に取った。




「……分かりました、貴方の依頼を受けましょう」



 その言葉を聞いた時、老紳士は満足そうに微笑んだ。


 そして、期待しているよ、と呪縛のような言葉をひとつ、僕に吐いた。

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