第5話

   ファイル三


 さすがに長時間自転車をこいでいただけあって、昨日は部屋の静けさを気にすることなく眠ることができた。わたしは九時ごろ目を覚ました。市の温水プールにでもありそうな水の出がはっきりしないシャワーで体を温めてから、焼いた食パンにマーガリンをぬり、新聞を読みながら食べた。この宿には冷蔵庫と電子レンジ、電気ポット、トースター、キッチンがあり、あるていどの自炊は可能だ。こんな生活的な宿があるとは知らなかった。


 この宿は一泊二千円だから、もし、一ヶ月滞在するとしたら、約六万円だ。水道光熱費はかからないとして、食費などの生活を考えたら? 高い! 手軽に寝る場所を変えることができるにしても、一ヶ月六万円は高い。


 新聞紙の上にパン屑(くず)をポロポロと落としつつ、熱い紅茶を飲んだ。二日続けて自転車を運転したせいか、体がなんとなくだるかった。それに、観光にもすこし飽きた感じもして、遠出する気にもならなかった。


 食事を終え、友人からもらったツーリストマップを広げてどこへ行くか検討した。端々(はしばし)は折り曲がり、ところどころから切れはじめ、マップはしわだらけだった。二条城が宿から一番近かったが、外壁を見るかぎりでは大味な感じがして、まったく行く気が起きなかった。京都御苑も近かったが、やはり行く気がしない。


 わたしは考えをふりだしに戻し、昨日の続きから観光をしようと決めた。伏見で観光を終えたので、その続きとして、あまり遠くなく、有名そうな伏見稲荷大社から見ることにした。


 今日も同じ自転車を借りて、無愛想な若い女性従業員の、「いってらっしゃい」の言葉に反応せず、わたしは南へ向かった。サービス精神のこもっていない機械的な言葉が不愉快だった。


 道の広い堀川通を南へ下がり、線路を越え、十条通を左へ曲がった。京都は道路が広く、整然と縦横にはしっているので、方向音痴のわたしにはとても助かった。


 本町通という車線のない通を右へ曲がり、すこしばかり走ると、左に石畳の細い小道が目に入った。小道に入り、茶屋にいる人の目を気にしながら、自転車をわきに停めた。


 千本鳥居の入り口に立ち、ぎょっとした。異常とも言えるほどの鳥居が並び、血のトンネルが小道の奥まで続いていた。朱色が好きな人や、鳥居に興奮を覚える人なら大きな喜びだろうが、神社の重々しい雰囲気が苦手な人や、人一倍臆病で幽霊に敏感に反応する人は厳しいだろう。わたしは新鮮な鳥居のトンネルを遅い足取りで進んだ。


 紅葉はさほど見あたらなかったが、どこからも清らかな鳥の囀(さえず)りが響きわたり、残された自然を感じることができた。暗黄緑色の小さい池を中央に、道は二つに分かれていた。わたしは人気(ひとけ)のない右の小道を選び、奥へ進んだ。


 鳥居のない土の山道を進むと、竹林の小道にぶつかった。これ以上は本道からはずれてしまうと思い、立ち止まって竹林を見回した。真っすぐな竹の間から光が射しこんでいるのを見て、太陽光がどれだけ景色を左右するのかと思い知らされた。


 立っていると、通ってきた道から一人の男が歩いてきた。紺のパーカーにベトナムタイガー柄のズボンをはき、黒いショルダーバッグをかけていた。短くて茶色い巻き毛の男はわたしに近づくと、面長の顔に微笑(ほほえ)みをうかべ、「ハロー!」とあいさつをした。慣れていない英語にとまどい、わたしはおうむがえしに返事をした。


 顎(あご)のまがった若い男はさらに英語で話し続けた。ゆっくりとした口調で発音もかたいところがあり、なんとか聞きとることはできたが、短い単語で返事をするだけで精一杯だった。男は大げさな手ぶりで話し続け、手に持っていた黒いデジタルカメラの画像を見せてくれた。どうやら京都へ来る前に九州と四国をまわってきたらしい。わたしは四国を訪れたことがないので、興味深く画像を見つづけた。


 高い場所から写した瀬戸内海の画像や、神輿(みこし)をかついだ人々の画像、その人達と一緒に写った男の画像があった。イワンと言う名前のオランダ人は、アジアを約一年ほど旅行をしてから、二ヶ月前から日本をまわっているらしい。それまではインドをまわっていたようで、タイとラオス、ベトナム、カンボジア、ネパールなど、旅行の話をいろいろとしてくれた。言葉ははっきり聞きとれなかったが、目を大きく開き、手ぶりをつかい、声色をかえて話すイワンの姿を見ていてなにか純粋なものを感じた。わたしは会話は嫌いだが、新鮮な話を聞くのは好きだった。


 イワンと一緒に行動した。鳥居の道に戻り、階段を上がって頂上を目指した。 その間もまがった長い顎を休ませることなく、イワンはたえず話し続ける。わたしから話す必要はなく、返事をして、短い質問をするだけで十分に会話は成りたった。


 イワンの足取りは軽く、わたしも歩くのは自信があったので、お互いの歩調は合った。腰をまげて竹の杖をつく中年女性を追いこし、上着を腕にかけ顔を赤らめて歩く太った若い男を追いこすと、夏に嗅ぐようなすっぱい汗の臭いと、湿気をふくんだぬるい空気を頬(ほお)に感じた。


 イワンは細身の体型で、背は高く、顔が小さかった。顎は左にまがっていたが、ひげはきれいに剃られていて、とても四十三歳だとは思えなかった。外見にともなうように中身にも若さが見られた。


 京都の街が見渡せる場所に着き、ベンチに座って数分休憩した。空はふっくらした雲におおわれていて、太陽は隠れ、宿を出た時よりも青空は見えなかった。


 わたしもイワンも疲れていなかったので、伏見稲荷大社の看板地図を見て、一周できる道を進んだ。


 鳥居の大きさは小さくなっていたが、あいかわらず小道の両わきに太い二本の足をおろし、下をくぐる人間を見おろしていた。道ぞいにいくつもの塚を見かけ、そのたびにお稲荷さんの石象が目についた。イワンは大げさな動作をとっては、なんども、「グッド!」と言っていた。あまり見かけなかった紅葉も多く見るようになった。


 再び見晴らしのよい場所に戻ってきた。飲み物をおごってくれるとイワンが言うので、赤い炭酸飲料をたのんだ。イワンは茶色い茶を買い、茶屋の前のベンチに座って休憩した。時刻は昼を過ぎていて、空腹を感じたが、わたしはおにぎりを持っていなかった。だからといって、高い食事を食べる気もなかったので我慢することにした。イワンも同様に金をなるべく使わないように心がけているらしく、食事はいらないと言った。


 山を下りることにして、先を急ぐように歩いた。イワンの口数は減り、無言の時間が多くなった。わたしはなにかしら話したいとは思ったが、言葉が浮かばず、頭の中で考えつづけた。たまにどうでもよさそうな質問をしては、その返事を聞いてうなずくだけで、会話を発展させることはなかった。


 英語を話せないことがもどかしく、ついに話そうとする気もなくなった。イワンの話す言葉が聞きとれない場合はわかるまで聞き返していたが、その回数が多くなり、どうも気がひけてしまい、聞き返すこともしなくなった。それに、イワンの言葉もどうでもよくなりはじめ、好奇心は失われていた。わたしの嫌いな雑談になりはじめていた。


 本殿に着くころには、イワンから離れることばかり考えていた。別れるタイミングをいつ切り出そうとイワンのようすをうかがっていると、イワンは迷彩柄のうしろポケットに手をつっこんでから、あわただしく左右のポケットを調べだした。イワンは財布がないと言いだすと、黒いショルダーバックを地面に置き、かきだすように中を探す。わたしは無言でその姿をじっと見つめた。


 財布は見つからなかった。イワンがクレジットカードや銀行のキャッシュカードなど、大切な物が入っていると苛(いら)だたしそうに声をあげた。わたしが最後に確認した場所を尋(たず)ねると、イワンは目線を小鳥のように動かし、ぶつぶつとつぶやいた。すぐにイワンは頂上付近の茶屋で見たのが最後だと言い、ベンチに置いたと言った。イワンはすぐに茶屋へ戻ろうとしたが、わたしは茶屋に向かう前に、落し物で届いてないか確かめようと言った。


 おみくじを売っている人から落し物が届く場所を聞き、イワンに境内にある小屋へ行くことを目と手で伝えた。イワンは顔をゆがめ、理解できていないように見えた。


 小屋に入ると、中年の男性が四人座っていた。わたしは立っていた小太り気味の男に事情を説明し、イワンに何度も目線をやった。中年の男性は不審そうに細い眼でわたし達を見て、「財布は届いていない」と言った。「茶屋に確認はできるか?」とわたしが言うと、電話番号を教えてくれた。わたしはイワンの顔を見て、親指と小指をたてた右手を耳のそばでこきざみに振り、左手で携帯電話のキーを押した。


 茶屋の人が、財布は預かっていると言った。それを聞いてわたしはほっとしたが、表情には表さなかった。「本人の物か確認できないと渡せない」と言うので、「わたしが落としたわけじゃないので、あとで落とした本人と一緒に確認しに行く」と伝えた。


 イワンに伝える前に、電話の会話を聞いていたまわりの人が、財布はあると伝えていた。イワンはうれしそうに礼の言葉を連呼していた。まわりの人も反応するように笑顔で声をかけていた。


 茶屋へ戻ろうとイワンに伝えて外に出ようとすると、小太り気味の人が茶屋までの近道を教えてくれた。わたしとイワンは中にいた人全員に頭をさげて礼を言った。中年の男性達はそれぞれ、もう落とさないように気をつけるんだよ、とやさしく言った。


 イワンの歩調に合わせてわたしは歩いた。イワンがうれしそうに話していたが、まだ財布が手元に戻ったわけではないので、わたしは素直に喜ぶことができなかった。


 茶屋に着き、従業員の男に事情を伝えた。わたしと男の会話を邪魔するように、イワンは息を切らしながら英語で猛烈にまくしたてた。老人らしき男は聞きとれていなかった。男は、持ち主かどうか確認したい、と言うので、わたしは財布の色、形、金銭のおおよその額、名前などの質問をイワンに通訳した。イワンは男の言動に理解しかねるようすだったが、自分をおちつかせるように丁寧に答えた。男は急に笑顔を浮かべ、二つ折りの皮財布をイワンに渡した。イワンは爆発したように声をあげて男の手を握り、激しくゆすりながら礼を言った。わたしの手も同様につかみ、くったくのない笑顔で礼を言った。手が痛かったが、イワンにわかるように微笑みを浮かべて、首を縦に数回振った。


 わたしが店の人と談話していると、イワンは近くにいた白人の若い男女に話しかけ、ことの一部始終を語っていた。端正な顔の白人の男女は、人のよさそうな微笑みを浮かべていた。


 再び下に向かって歩いていると、イワンは何度もわたしに礼を言った。「日本語が話せないわたしだけだったら困っていた」みたいなことを言い、わたしに会えたことを神様にも感謝していた。わたしは素直に礼の言葉を喜んだが、わたしに会ったからこそ、財布を紛失したのではないかとも思った。


 そのことを口にしないでいたが、本殿に近づくと、イワンはわたしが考えていたことを口にした。心を見透かされたようでわたしは驚いたが、意地の悪い笑みを浮かべて、「会えて残念だったね」という意味の言葉を言った。イワンはうれしそうに笑い、「会えて良かった」としか言わなかった。わたしも同じ言葉をイワンに言った。


 わたしはイワンとの出会いをきれいに残したかった。意味のない雑談でわざわざ思い出を汚したくはなかった。本殿の前で、「昼食を一緒に食べよう」と言うイワンの言葉を断り、親しみと感謝をこめて別れの言葉を言い、わたしはイワンと握手をした。


 自転車をこいで東福寺へ向かった。自転車のペダルがなつかしく感じられた。

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