2・月曜・夜〜火曜・朝
五階の営業一課。
午後七時を少し回った頃、仕事が一段落した木下は、やっと帰る準備を始めた。
田中は、
「係長、無理しないで下さいね。偶には可愛い奥さんと子供のために早く帰ったらどうですか?」
などと彼を気遣い、定時でそそくさと帰っていった。
木下はひとり、営業一課の事務室を後にし、エレベーターへ向かう。
家に仕事は持ち込まない主義、木下の手荷物はいつも、愛妻弁当だけ。空の弁当箱をフラフラと揺らしながら、彼はくたびれた白い壁に囲まれた廊下をずんずんと歩いていく。経費節減で廊下の明かりは御法度。あちこちの事務室から漏れる光を辿りながら進んでいく。じわりじわりと一日かけて熱せられた廊下の空気に、事務室のドアの隙間から這い出してくる冷気が混じった。時折ひんやりと木下の靴下を撫ぜ、足を撫ぜ、消えていく。
夜の会社は得てして不気味なものだ。光の加減だけで、全く別の生き物へと変貌してしまう。妖怪の腹の中にもぐりこんでしまったかのように、じっとりして、生臭く、どことなく冷え冷えする。こんなじめじめと暑い日には、何か起こりそうだと、木下は珍しくそんなことを考えた。田中の、「どこかで気を抜かないと、今に大変なことになりますよ」と言う台詞がなぜか心の中にしっかりと浮かび上がり、消えなかった。
(暑い、早く家に帰って飯に風呂に、ビール)
田中の残像を振り切ろうと、木下は何度も何度も呪文のようにそう呟いた。
歩いていく、歩いていく。
エレベーターホールで止まる。下矢印ボタン、乗り込み、一階ボタンを押す。
(飯、風呂、ビール)
木下ひとりだけが四角い箱の中。瞳を閉じ、大きく息を吸い込む。帰りの一人っきりのエレベーターは、木下の
と、どっと眠気が襲う。体が重くなり、ふらふらっと、足がもつれる。
(昼間の暑さが今堪えたか)
木下は寄りかかったエレベーターの壁を突き放し、ぶんぶんと頭を振った。
(疲れたなんて言っていられるか。明日はまた重要な取引があるんだ)
右手に持った空の愛妻弁当をダンベル代わりに、ぐいと持ち上げる。肩をすぼめたり広げたり、気合を入れる。
(とにかく、早く帰って飯に風呂にビール……)
──チンッ
一階。
エレベーターのドアが開く……。
「おはようございます」
ドタドタドタ……。
たくさんの足音がまず、木下の耳に入った。
ざわざわと賑わう、エレベーターホール。自動販売機と、大きな窓。遠くにオフィス街が見下ろせる。
明るい日差しが、爽やかにホールを包み込んでいる。
さっぱり顔の社員達がぞろぞろと階段やエレベーターから現れ、ホールを抜けて事務室へと向かっていく。
「係長、おはようございます。今日の商談もうまくいくといいですね」
右後方から話しかけてきたのは、田中だ。
木下は目をまあるくして、田中を凝視した。
「僕の顔に何かついてますか? 髭剃ったし……、ちゃんと顔も洗ってきましたよ? 大事な商談ですから、気が抜けませんもんね」
「そ、そうだな……」
話をあわせてみたものの、木下は狐につままれた気分を拭えなかった。
(あれ? 俺は今、家に帰ろうと……)
何かがおかしい。
ついさっきまで、外は真っ暗で、自分は家に帰ろうとしていたはずだ、と、木下は首を傾げた。周りはどう見ても、朝の光景。一階に向かったはずが、気付けば元通り、営業一課の事務室のある五階にいるではないか。ホールの隅に置かれたテレビから、間違いなく流れているのは朝のニュース。一晩経っているのに違いはないようだ。
不思議に思いながら、右手を見ると、木下の妻が作った愛妻弁当。いつもどおり、ぎっしり詰まってずっしり重い。
(さっきまで、空っぽだったような……)
しかし、腕に感じるのは、朝の弁当の重さ。
よくよく見てみれば、スーツもしっかり着替えてある。きちんとシワの伸びたワイシャツ、折り目も毎朝の如くピンと張っているスラックス。
どう考えても、一度家に帰ったに違いないようだが、木下には全く覚えがない。
(そういえば、疲労感も少ないし、腹も減ってない。疲れてるのか? 駄目だな……こんなことでは)
木下は勝手に結論付けた。きっと、疲れすぎていて錯覚しているのだと。
気のせいだ、気のせいだ、と繰り返し、木下は自販機に向かう。朝の目覚まし用珈琲を購入し、ぐいぐいとひと飲み。飲み干した缶を暫く無言で見つめ、くずかごへ捨てると、首を捻りながらも事務室へ歩いていった。
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