帰宅不可症候群
天崎 剣
1・月曜
じりじりと夏の日差しが照りつける。アスファルトに溜まった熱は上昇し、ビルの照り返しと混ざって、更に街を燃え上がらせる。嫌な季節だ。誰もがそう思う。
こんな季節でも、スーツをピシッと着込んで営業に出かけるのは、サラリーマンの宿命とも言うべきか。世の中クールビズだの何だの騒いでいても、所詮ビジネスマンというやつは、スーツという鎧に身を固め、営業という名の戦地へ赴くのだ。紳士服屋で新調した最新の軽量型清涼スーツがなければ、今年はとてもじゃないが外回りなんてやっていられなかっただろう。清涼、というのはもしかしたら気休めかも知れない。都会の空気は澱み熱され漂っていた。スーツを通してじっとりと湿った妖怪が張り付き、午後の営業を終える頃には背中じゅうがべっとり汗まみれになる。
木下はハンカチを取り出し、汗を必死に拭った。三十代半ばの男の汗はべたべたと粘着質で、拭っても拭ってもさっぱりしない。それでも滴り落ちる汗を何とか拭き取る。
(今日も何とか終わった)
ふぅと溜め息を吐いた木下の後ろから、部下の田中が言った。
「木下係長、もう社に戻るだけなんですから、いい加減上着脱いだらどうですか。熱射病になりますよ」
社屋までの帰り道、歩道橋の上までやっと昇りきったところ。日が傾きかけて、蜜柑色のヴェールが
歩きすぎてふくらはぎが
「『会社に戻るまでが営業』、そういう真摯な態度で行かないと。いつどの会社の誰がどこで俺達を見ているか、わからないんだからな」
木下は自分に言い聞かせるように言う。
振り返ると田中は、歩道橋の橋げたの半ばで力尽き、黒い営業鞄を足元に置いてぐんと背伸びをしていた。あーあと気持ちのよさそうなふぬけた声を出し、涙を浮かべてコリコリと肩を鳴らしている。
「係長、真面目すぎですって。どこかで気を抜かないと、今に大変なことになりますよ」
入社二年目の田中は、まだ学生気分が抜けないのか、軽々しい喋りをする。木下は、自分も十数年前は同じような──どこかゆるい生き方をしていたものだと思い出す。だが、それはそれ。今、多少なりとも責任のある立場になったからには、そんな気持ちでは到底仕事に向かえないことを知っている。
元来生真面目な木下は、手を抜くことが大嫌いだ。曲がったことも、勿論嫌だ。どんなに苦しくても、彼は自分がこうと決めた道は突き進むし、頼まれた仕事は責任を持って最後までやり遂げないと気が済まない。どこか、潔癖症染みたところがあった。
長所と言えば長所なのだろうが、短所と言えば著しく短所であるこの性格は、結婚しても直らなかった。
三年前に彼は会社の同僚、愛子と結婚した。彼女は仕事を続けたいと言ったが、その意思を無視して無理矢理退職させた有様。木下の中では、妻は家を守るものと言う意識……固定観念がなかなか消えなかった。
幼い頃両親が離婚した木下は、家族と言う存在に一種の憧れを抱いていた。家に戻っても誰もいない、幼少時代。寂しさと心細さに打ちひしがれた日々。木下少年が当たり前の家族を夢見ることは許されなかった。女手一つで育ててくれていた母に対して申し訳なく、心の内でいつか自分が理想の家族を作り上げるのだと誓うばかり。心労が
そればかりではない。
木下の家族観は徹底していた。
専業主婦であるからとスーパーやデパートの惣菜は一切禁止。手作り料理こそ最もよいものと、常に口を挟む。それこそが、彼の過去になかった、彼が最も欲していた、家族の温もりの形なのだ。更に、先月産まれた長男
型にはまったような木下の生き方は、団塊世代の頑固オヤジのようだと皆陰口を叩いた。木下はそれを知っていて、それでも、どうにもこうにもこの生き方を変えることが出来ないでいた。四十前なのに年寄り臭いとよく言われる。だからどうだと木下は言う。彼は自分の生き方を曲げようというつもりは一切ない。人は人、自分は自分。そう信じていたからだ。
だらだらと流れる汗が頬を伝い、
歩道橋から、株式会社ヤマカワの看板が見えた。六階建てのビル、木下の勤め先だ。
(さあ、戻ったら、今日の商談の内容を整理して、課長に連絡。それから明日の資料を準備して……。まだまだ仕事はたんまりある)
木下はよいしょと重い鞄を持ち上げ、歩道の先にある自社ビルへと向かっていった。
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