3・火曜・夕方〜水曜・昼

 商談が成功し、木下と田中は夕方悠々と社に戻ってきた。


「流石係長、尊敬しますよ」


 プレゼンがうまくいき、思ったよりも好条件で取引が成立したことを、二人は喜んだ。


「お前のサポートのお陰だ。今夜一杯、飲みに行こうか」


 木下は気前よく田中を誘う。


「ありがとうございます。助かりますよ、給料日前なんでー」


 田中のニコニコ顔と一緒に、木下は事務室を出てエレベーターホールへと向かった。右手に空の弁当箱を引っ提げて。

 薄暗くなった社の廊下を雑談しながら歩く木下の脳裏に、ふと、今朝のことが思い出される。


(あれは、何だったんだろうな。何かがおかしかったような気がしたんだが……)


 それでも、きっと疲れのせいだから飲みに行けば吹っ切れるだろうと、木下はそのことを口に出さず、いつものようにエレベーターに乗り込んだ。田中が隣で、今日の商談の内容を振り返って、べらべらと喋りまくっているが、木下の耳には殆ど聞こえない。


(三階……二階……一階……。ほら、いつもと同じだ。何も、気にすることなどないさ……)


 すうっと、浮き上がるような独特の感覚の後、いつもの音。


 ──チンッ


 ザワザワザワと、群集の気配。

 顔を上げると、五階のエレベーターホール。


「あれ?」


 木下は思わず声を上げた。

 辺りを見回せば、明るい日差しに、朝のニュース。それから、事務室へ向かう人の波。


「おはようございます、木下係長。昨日はご馳走様でした〜。助かりましたよ」


 田中だ。

 木下は慌てて、田中を人の群れから、自販機側の空間へ引きずり出した。無理矢理腕をつかまれ、急に荒っぽく扱われた田中は、それこそ目を丸くして、木下を見ている。


「係長、どうしたんですか? おかしいですよ?」


 田中の言うとおり、木下は興奮していた。ここ数日、疑問に思っていた、そのことがどんどん真実味を帯びてきたからだ。


「田中、昨日、俺はお前と本当に飲みに行ったのか?」


 突飛な質問に、田中は目を見張り、眉をへの字にして、


「何言ってるんですか。行きましたよ! 明日に持ち越すと大変だから、この辺でやめましょうって俺が言うまでずっと飲んでましたよ。帰ったのは日付け変わってからで、マンションまで送ってったら、奥さん酷く怒ってましたよ。大変だったんですから。やだなぁ、係長らしくないですよ、記憶がなくなるまで飲むなんて!」


(昨日……そんなに飲んだのか? 言われてみれば頭がガンガンする。少しぼーっとするのも、そのせいか。飲みすぎて記憶がなくなった……? 普段そんなに深酒なんてしないんだが……)


 あごを触りながら、しきりに記憶を辿る木下の姿を、田中は不審に思った。懐から胃腸薬を取り出し、木下に差し出す。


「係長、二日酔いは不味いですよ。シャッキリしないと……って、俺の言う台詞じゃないですよね。それじゃ、先行ってますから」


「あ……ああ。ありがとう」


 渡された胃腸薬の箱を左手に持ち、カサカサと振る。


(午前様なんて、したことはないんだが……)


 田中の言う、昨夜の自分の行動に、納得できないでいた。


(何かがおかしい。でも、それが何なのか、俺にはわからない……)


 目の前の自販機から、いつもの珈琲を買う。もたれた胃に珈琲の苦さが染み込む。缶を捨て、人の群れに混じって事務室へ向かう木下の右手には、朝、間違いなく自宅から出勤したことを示す、愛妻弁当の重みがずっしりと感じられていた。



 *



 昼休み、どうしても気になって、木下は自宅に電話をかけた。

 昨日の記憶、断片すら思い出せないことに、胸騒ぎがしていた。


「もしもし、俺だけど……」


 屋上で誰にも聞かれないように、こっそりと電話する。

 夏の日差しはじりじりと今日も容赦なく照り付けていて、貯水塔の日陰にいても汗が大量に噴き出るほどだった。


『どうしたの、何か用?』


 妻の愛子の声だ。そっけない上に、怒っているようだ。

 遠くで息子の泣き声がする。


『ちょっと今、ご機嫌が悪くて……。あまり待たせるとかわいそうだから、手短にして欲しいんだけど』


 離乳食に切り替わったばかりの息子は、よくご飯時にごねて時間がかかるのだと愛子に聞かされていたことを、今になって木下は思い出した。


「あ、ああ。済まない。昨日のことなんだけど、悪かったな。随分遅くまで飲んでしまったみたいで」


 木下は田中に言われたとおりのことを、愛子に話した。


『──別に、私はそのことに怒っていたんじゃないわ。前々からの鬱憤うっぷんが溜まっていたのよ。渡した書類にキッチリ判子押してね。今、家事の合間を縫って荷物をまとめているの。週末には出て行くつもりだから』


「出て行く?! どういうことだ!」


 ざぁっと、血の気が引く音がする。木下の携帯電話を持つ右手が、ひざが、ブルブルと震えだす。


『どういうことって、あなたが言ったんじゃない! 俺の言うとおりに出来ないなら出て行けって。そう言って私を殴ったくせに! だから出て行くのよ。もう、雁字搦がんじがらめの生活は懲り懲りなの。勇人は連れて行くから。そのつもりでね。そうそう、書類、忘れられても困るから、ジャケットの内ポケットの中に差し込んで置いたわ。私の判は押印済みよ。あなたの欄記入してね』


「ちょ……ちょっと待て、俺はそんなこと、言った覚え──」


 ツー、ツー

 愛子が電話を切った。

 木下の手から携帯電話が滑り落ちて、屋上のコンクリの上に転がった。

 無常に、回線の切れた音が漏れた。


(何が起きているんだ、俺は、何をしたんだ……?)


 木下はがっくりと肩を落とし、取水塔にもたれかかったまま、ずるずると座り込んだ。放心状態で空を見上げれば、雲ひとつない、青空。

 生ぬるい風が吹く。

 木下は無心に、愛子の作った弁当を頬張った。いつもと変わらぬ味。数日前までいってらっしゃいとにこやかに送り出してくれていた愛子の笑顔と、あどけない息子の顔が、木下の身体一杯に広がっていった。

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