ことほぎの呪詛
平月るな
プロローグ
幕開けに赤色を添えて
「本日の稽古はこれまでとする、礼ッ!」
「「「ありがとうございましたっ!」」」
日も山向こうに隠れる夕暮れ時、道場に大きく声が響き渡る。
拳聖曰く、「肉体と精神への奉納」と呼ばれる稽古は、片方の欠けた虎耳が特徴的な、強面の師範代の号令によって締められた。なんでも、先の戦争で凄腕の剣士と死合った時の勲章だそうで。
嬉しそうに語る師範代を見ながら、「自分ではこうはなれまい」と、そう思いながら早々に道場を後にする。
夏も深まって、益々暑くなってきた今日この頃。
本日、七月二十二日は記念すべき十六歳の誕生日だ。家に帰れば、両親が祝いの準備を済ませて待っているだろう。唯一残念なのは妹が合宿により不在という点だが、一足先に祝いと謝罪を合わせた手紙と、祝いの品である白狐の根付が届いていた。
鞄からその手紙を取り出して読み返す。少し形の歪んだ文字は、彼女の大雑把な性格がよく出ている。そんな妹なりの祝いの文章を読んでいると、自然と頬が緩んでしまいそうだった。
そうしている内に家へと着く。
手紙を懐に仕舞い、扉を開けた。すると奥から漂ってくるのは、菓子や豪勢な料理の匂い……ではなく、錆びた鉄と腐った油を混ぜ合わせたような、鼻の奥にこびり付く独特の臭い。
その臭気に驚き、思わず手で口元を覆ってしまう。
「なんっ……なんだよ、この臭い……!」
母は料理下手ではないし、そもそも料理に失敗したとして、こんな異臭が出るものなのか? それにこの臭い……おそらく誰もが知る臭いによく似ている。
嫌な予感がする。頭の中で警鐘が鳴り響き、心臓は長距離を走った時のようにドクドクと喧しい。汗が、冷ややかに喉元を伝った。
……まさか。
ただの思い過ごしだろう、悪い妄想だろう。これは現実だ、そんな物語のような事が起こるはずがない。
汗を拭い、不安を打ち払うように頬を吊り上げ、奥へ踏み入った。
そこにあったのは――
「ぁ……あああ……っ!」
そこにあったのは、ただひたすらに悪夢だった。
崩れた机に割れた食器、荒れた部屋。それらに染み入る床一面の赤黒。
捻じ曲げられた手足に裂けた肌。想像を絶するモノだったのだろう、両親の表情は苦悶と恐怖に満ち溢れている。
――望んだ幸福は、何一つありはしない。
その光景に頭が……心が追い付かず、ひたすら声にもならぬ息を吐きながら涙するしかなかった。
膝をついて崩れ落ち、ただ茫然と見ていることしか出来なかった……そんな時、
「おや、キミはここの子かい?」
知らない声が耳に届いた。
声のした方へ目を向ければ、そこには長い黒髪の見目麗しい男。
薄く紫掛かった白い着流しの下には、昨今流通し始めた洋服を着ている。
こんな男、見覚えなどあるはずがない。
「何なんだよ……誰だよ、お前……お前が……ッ!」
「家族を殺したのか、かい? ああ、そうとも」
――気付いた時には、すでに飛び上がっていた。
自分でも訳が分からないほどに、すべてを支配されている。
ただあるのは、怒りだ。憎悪だ。この男の四肢を引き千切って滅茶苦茶にしてやりたい。
暗い暗い感情だけが内から、底から湧いて溢れかえっていた。
男の整った顔立ちに、硬く握りしめた拳を伸ばす。
「――ふ」
ゾクリと、冷ややかな何かに身を包まれる。
咄嗟に拳を戻し、転げるようにその場から離れた。直後、その反応は正しかったと知る。
男の足元から、黒い棘のようなモノが現れ、先程まで頭があった場所を通過したのだ。
「ッ――お前、導士なのか!? なんで導士がオレのっ」
「惜しい、私は導士ではないよ」
不気味に微笑む男は、おもむろに手を懐へと伸ばす。
何をするつもりなのか皆目見当もつかないが、ともあれ男より先に動けばいい。
疾く駆け出し、鳥の飛翔のように鋭く拳打を繰り出す。
拳に衝撃が走った。
入った! そう思った瞬間だった。
「あッ――ぐ……」
今まで味わったことのない、射抜かれるような激痛。
痛みを辿れば、そこには黒い棘に貫かれた拳があった。たまらず絶叫してしまう。
だが、悲鳴を上げる時間なぞ一瞬でしかなかった。
ぞぶり、と異物が腹を裂き入った。
みしりぺしり、と巻き込まれた肌に押しつぶされた骨と臓物が歌う。
目映い閃光が視界をうねり、嗚咽の代わりに命が漏れる。
悲鳴を、声なぞをひり出す暇すらない。
瞬く間の出来事だった。
この身を貫いた棘は、役目を終えたとばかりに男の影へと潜り込む。
支えを失った身体は、両親の亡骸のように床へ崩れ落ちた。
「私はね、世間一般では呪術師と呼ばれるモノなんだよ。まぁ、導士と大した違いは無いんだけどね」
そんな、男の声が頭の中を通過していく。
目も耳も、置き去りにされたように遠くなっていく感覚。
……あぁ、死ぬのか。
そう考えることさえ億劫になっていく。
どうでもいいわけじゃない。
まだまだやりたい事だってある。
友達と山で遊ぶことも、妹の誕生日を祝うことも……見知らぬ誰かと恋に落ちることも。
悔しいのだろうか、それとも悲しいのだろうか。
冷えた気配の中、目のあたりがとても暖かい。
ぼやける視界の中、手紙が映りこんだ。
妹が送ってくれた誕生祝いの手紙だ。
いつの間にか零れ落ちたのだろうか。
最後の、最期の力を振り絞って手紙を掴み取る。
……お前を一人で置いていく兄をどうか――
◆◆◆
暗闇があった。
ただの真っ暗闇ではない、おどろおどろしい赤黒に塗れた暗闇だ。
形容するなら、地獄。地獄の入り口のような暗闇と言える。
若くして死んだ罰なのだろうか、妹を残して先に死んだ罪なのだろうか。
後悔ばかりだ、怒りさえある。
どうして、自分達がこんな目に遭わなければならないのか。
そんな考えを映すかのように、気付けば周りは怨嗟を表すかのような赤黒の液体に満たされていた。
見たこともない人間の顔や動物の顔が、浮かんでは消えていく。
そのどれもが、悶え苦しむような表情をしていた。
自分もこうなるのか。コレと一緒になるのか。
嫌だ、嫌だ嫌だ。みっともなく泣き喚いてしまう。
しかし、現実は非情なものだ。
手が、足が水に入れた砂糖のように、崩れていく。
痛みではない、苦しみではない。それすら超越した何かに侵されていく感覚。
溶ける、融ける、解ける。
叫ぶことも許されぬ、まさに地獄だった。
――オレは、死んだのだ。
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