第85話 契約と安寧の喪失


 小さな町が燃えている。逃げ惑うような人々の悲鳴等は一切なく、静寂と炎だけが町に広がっていく。その中心で、ひとりの少年が虚しく佇んでいた。激しく燃える町並みの中、燃えるような緋色の髪だけが揺れている。

 そして、少年――アキュラス・フェブリルは全てを喪った。



 ◇



 アキュラスは空き地にある巨木の枝に座っていた。ゆっくり沈んでいく夕陽と、橙色に染まる町を眺めている。すると、雰囲気を破壊するような少女の怒声が響き渡った。


「またそんなところに登ってる! ずるいわ、兄様」

「ならレジェも登ってくればいいだろ」

「可憐でお淑やかな私は、兄様程身軽じゃないからできないの」

「……影では裏番長って呼ばれてる癖に」


 小さな声で言ったつもりだったが、アキュラスの妹――レジェールの耳にはばっちり聞こえていたらしい。自称、可憐でお淑やかなレジェールは手にしていた鞄を勢いよくアキュラスに向かって投げ付ける。突然の衝撃に驚いたアキュラスは、そのまま体勢を崩してしまい――情けない声と共に地面に衝突した。痛みに耐えながら目を開けると、レジェールが楽しそうに笑っている。まるで悪戯が成功した子供のようだ。その悪戯は、少し暴力的だったが。


「帰りましょ、兄様。そろそろ門限の時間よ」

「いい加減、その門限制度廃止しろって……」

「駄目よ。夕飯は皆で食べなきゃ。ソラちゃんだって言ってたもの。どんな事でも、家族全員揃っていれば幸せだ……って」

「そんなもんかよ」


 口ではそう言うものの、アキュラスは自然に笑っていた。気恥かしさから素直にはなれないが、アキュラス自身も今の生活を気に入っていたからだ。


 数ヶ月前、アキュラスたち家族はこの土地へ引っ越してきたばかりだった。仕事の都合で、最初は父親だけが単身赴任する予定だったのだが、レジェールが猛反対。結果的に、全員で慣れ親しんだ土地を離れ、こうして新天地へやってきたのだ。元の土地には特に思い入れのなかったアキュラス的には、割とどうでもいい出来事だったのだが――いざ見知らぬ土地に訪れてみると、自然に心が躍った。真新しい風景、実力が未知数の敵(喧嘩相手)、何もかもが新鮮だった。


 そんな風に、心の内を曝け出さないものの、ニヤリと不敵に微笑む兄の笑顔が、レジェールは好きだった。だから、レジェールもこれ以上追及せずに、短く返答する。


「ええ、そんなもんよ」


 楽しそうな表情を浮かべ、跳ねるように歩くレジェール。それを一歩後ろから追い掛けるように歩くアキュラス。家ではきっと、夕飯を準備した母と、帰宅したばかりの父が待っている筈だ。


「そういえばね、ソラちゃんの兄様はたまに抜けてるけど、凄く頼りになるらしいわ。あと、王子様みたいにキラキラしたイケメンよ。兄様と違ってモテるんじゃないかしら」

「よくわかんねえけど、女連れてる顔だけの野郎とは気が合わねえ」

「あら、僻み?」

「そんなんじゃねえ!」


 穏やかな夕陽を背に、二人はいつのもように帰路に着いた。


 しかし、ある事件をきっかけに――アキュラスを取り巻く環境が一変する事になる。



 ◇



 最初は町で一番と噂される富豪が襲われた事がきっかけだった。そこから立て続けに富裕層の家庭が襲われる事件が多発し、富裕層ばかりを狙う凶悪強盗犯が現れたと噂された。町中が不安感に包まれる中、次に狙われたのは――警察官だった。町を護る警察官が次々と襲われ、誰にも止める事のできない凶悪殺人鬼を前に、一部の警察官は職務放棄で街から逃亡してしまった。


 警察官が居なくなっては、残されるのは力を持たない民間人たちだけ。凶悪殺人鬼は、途端に通り魔と化し――町の人々は無作為に襲われた。瞬く間に殺し、奪う――人の心は持たないような凶悪殺人鬼を前に、人々は絶望的状況に叩き落された。小さくとも、町一つを簡単に手中に収めた凶悪殺人鬼を前に、自分の身は自分で護るしかなくなってしまった街の人々は、恐怖のどん底に包まれていた。


 一部の人々は一心不乱に町外、もしくは国外へ逃げていたが、どうしても貧富の差が出てしまう。そう簡単に逃げる事ができない者たちも多かった。最初に富裕層が襲われたのは、この為だったのかもしれない。


 そして、絶望の魔の手はアキュラスの家庭にまで手を伸ばす事になる。


「あなた!」

「大丈夫、大丈夫だから……」


 そう言ってアキュラスの父は玄関前にまでやってきた男と対立する。彼は宅配業者を名乗っていたが、本当か否かはわからない。それに、荷物が届くような心当たりもなかった。カタカタと震える手で護身用のナイフを握りながら、アキュラスの父はドア越しで訴える。


「荷物は……ドアの前に置いておいてくれ」

「しかし受け取りにはサインが――」

「頼む! 帰ってくれッ!」


 声を荒げた刹那、宅配業者は大人しくなった。もしかしたら指示通りに帰ってくれたのかもしれない。一瞬だけ安堵した後――ドアに衝撃音が響いた。


 ――――ドンッ! ドンッ!


 ドアが破壊され、こじ開けられようとする音と共に、男の狂気的な声が木霊する。


「困るんですよぉ、ちゃんと受け取ってもらわなきゃ! 恐怖という名の、宅配をね!」

「お願いだから出て行ってくれ……この家には、お前の求めるものは何もな――」


 勇敢で悲痛な叫びが、途切れた。アキュラスの眼前には、鮮血と共に倒れる父の姿が飛び込み、その向こうでは男――凶悪殺人鬼がケタケタと笑っている。その手に持っている包丁には、父の血がこびり付いていた。


「親父ッ――」

「父、様……」

「いやぁぁあぁッ!」


 恐怖で足を震わせながらも、アキュラスの母は最愛の夫の元に駆け寄る。彼は最期まで家族の身を案じ、力ない声で「逃、げろ……」と懇願し続けた。

 しかし次の瞬間、すぐ側から甲高い悲鳴が聞こえる。アキュラスが顔を上げると――母が血を吐き、レジェールが血だまりの中央に倒れる地獄絵図が視界に映し出された。

 何故か、こんな時に限ってレジェールの言葉が脳裏に過ぎる。


 ――「どんな事でも、家族全員揃っていれば、幸せだ……って」

「――ッ!」

「兄、様……逃げ、て」


 家族の無残な姿を見たアキュラスは、頭の中が真っ白になった。目を背けたくなるような悲しみと、何もかもを捨てて逃げ出したくなるような恐怖と、自分の身を犠牲にしてでも目の前の男を殺してしまいたいような憎しみがぐるぐると渦巻く。そしてアキュラスは、本能的に悟った。


 ――次に殺されるのは……俺だ。


「さあ……さあさあさあッ! お前もさっさと……家族の元へ逝きなぁぁあッ!」


 ――殺られるッ!?


 するとアキュラスは父親が握っていた護身用のナイフを拾い上げ、強く強く握りしめる。


 ――嫌だ、嫌だ、嫌だッ!


「うわぁぁぁあああぁ!」

「ッ!?」


 自分が殺人鬼より小柄な体格だった為、殺人鬼の懐の中へ即座に潜り込み、その切っ先で思い切り心臓部分を貫いた。不愉快な程に生温い返り血を浴び、緋色の髪が更に濃いものへ染まっていく。殺人鬼が動かなくなってからも、アキュラスは狂ったように何度も遺体をナイフで貫いた。何度も、何度も。その回数が九に達する時、アキュラスは手を止める。


「に、い……さ……」

「……レジェ!? レジェール!」

「わた、し、ね……とう、さま……か、あ……さま……」

「レジェール! おい、しっかりし――」

「に、さ……ま、と……かぞ、くで……しあ、わせ……だった」


 レジェールの言葉に、アキュラスは言葉をなくした。声を出したくても、上手く声が出てこない。そしてレジェールは、最期の力を振り絞り、アキュラスに対して微笑みかけた。


「わ……たし……にい、さま……の……わら、った……か……お…………す、き…………わら、って……に……さ、ま…………」


 息絶えてしまった両親と妹、殺人鬼を見て――アキュラスは暫く放心状態で固まり、声を押し殺して泣いていた。



 ◇



 その後、アキュラスは家族との幸せを奪われた上、凶悪殺人鬼の仲間たち――強盗殺人集団に狙われる運命を送る事になる。死に物狂いで逃げ続け、殺さなければ自分が殺される理不尽の中で生きた。何度も「もう全部諦めて死のうか」と思ったが、何度もレジェールの最期の言葉が蘇る。


「笑えっかよ……家族が殺された、こんな世界で……」


 完全に強盗殺人集団から標的にされているアキュラスを、近隣の町の人々は次第に疫病神のように忌み嫌い、殺人鬼同様に恐れ始めていた。

 そしていつの間にか付いた通り名は“殺戮の炎”、“鬼の子”等の、心ない通り名。


「俺は……生きる為に……なのに……どうしてッ!」


 アキュラスの慟哭が夜闇に木霊する。誰もアキュラスを理解しようとする者は居なかった。



 ◇



 あれから何度、一睡もできない夜を明かしただろうか。アキュラスはその日、近くの廃れた祠で休む事にした。暗闇に染まる夜は、一番警戒すべき時間。彼は獣のように目を光らせながら、常に周囲の様子に集中している。

 そんな時、彼は自分の運命を変える一つの声を耳にした。


《理不尽に普通を奪われ、異常の中で生きる事を強いられる。俺が言うのもあれだが……哀れだな、アキュラス・フェブリル》


「!?」


 直接脳内に響いてくる声に、アキュラスは鋭い眼光で持っていた短剣を身構える。それに反応するように、廃れた祠の中がぼんやり光り出し――突然、燃え盛るような炎が現れた。何故かひとりでに現れた怪火のようなものと謎の声を前に、アキュラスは警戒心を絶やさない。目の前に現れた炎は次第に人形のようなものに変化し始め、廃れた祠の主は低い声でアキュラスに語りかけていた。


《へー、俺の声が聞こえるのか》


「何者だ……」


《俺? 俺は火炎。火炎を司る守護精霊だよ》


 すると火炎はアキュラスを見つめ、《こんなガキが今までよく生き伸びたもんだ。運が強いんだか、悪運が強いのか。寧ろよっぽど運が悪いのか》と感心しながら呟く。それに対しアキュラスは不愉快さを感じ、ずっと奪い取った短剣を火炎に向けて振り上げたのだが――その攻撃は簡単に見切られ、かわされてしまった。


《おっと。人間じゃない俺にすら刃を向けるなんて、度胸あるじゃねーか》


「黙れ。消えろ」


 未だに警戒心むき出しのアキュラスに対して火炎は軽い口調で笑うと、挑発するように淡々と言葉を並べる。


《お前さ、俺と契約する気ないか?》


「…………」


《俺と契約したら、お前はあの敵集団を根絶やしにできる力を手に入れられるぜ》


 最初は胡散臭いと感じていたアキュラスも、憎き強盗殺人集団――自分の敵を根絶やしにできる力という条件を聞いて、表情と身体を固めた。


 自分の敵を根絶やしにすれば――本当の安息を手に入れられるかもしれない。

 レジェールが望んだように、また笑えるかもしれない。

 そうすれば、自分も――。


《そうだ、あの憎くて殺したくてたまらない殺人鬼共を根絶やしにできる。それがお前の一番の願いだろ?》


「……条件は?」


《おお、単細胞に見えて意外に話が早いじゃねーの》


 アキュラスは自分にだけ条件がいい話はないだろうと思い、火炎に無表情で投げかける。その態度が気に入ったのか、火炎はニヤリと笑いながら宣告した。


《契約に必要なのは代償だ。お前の代償は……そうだな……その右目をもらおうか》


 右目、と聞いてアキュラスはその場で考える。片目を失うという事は、完全な死角を作るようなものだ。戦闘時において、かなりのリスクを伴うだろう。一瞬だけ迷っていたアキュラスに対し、火炎は《確かにリスクは伴うだろうな。だがお前にとっては安い買い物だろ? 例え死角が生じたところで、お前はそれ以上の強さを手に入れる》と交渉を続けた。


「……本当に、あいつ等を根絶やしにできるんだろうな」


《ああ、それだけは保障してやるよ》


 アキュラスは静かに口元だけを吊り上げる。これは、レジェールが好きだった笑みではない。これは、まるで――。


 ――あいつ等に、報復を。


 全てを喪い、復讐の炎を燃やすアキュラスにとって、今はもうその事しか考えられなくなっていた。これは悪魔との契約かもしれない。これによって、今後の人生が今以上に悪い方向に転ぶかもしれない。それでも、アキュラスは火炎の手を取る選択肢以外の考えが、既に頭の中から消えていた。


《力を得たければ俺の手を取れ、アキュラス・フェブリル。僅かに残された“安寧”を俺に捧げな。そうすりゃお前は全てを焼き尽くす炎を手に入れるだろう》


「これ以上何を失ってもいい、俺はもう何も残ってねえ……だから、生きて、生き延びて……親父と、お袋と、レジェの仇を討つ……その為なら、俺は安寧なんていらねえ。右目でも何でもくれてやる。俺に……俺にその力を寄越せッ!」



 ◇



 アキュラスたちが住んでいた小さな町は、既に強盗殺人集団の手に落ち、数々の殺人鬼たちが巣食うアジト状態になっていた。町人は死に、家は壊され、全てが廃墟と化した。

 そして、その町が――真っ赤に燃えていた。

 全く消える気配を見せない地獄のような業火を前に、殺人鬼たちは逃げ惑うが――それを緋色の少年が――火炎の力を手に入れた、アキュラス・フェブリルが許さない。


「ひぃッ!」

「死ね」


 アキュラスは燃え盛る炎を自由自在に操りながら、無表情で殺人鬼たちを見下した。それを見て怯えた殺人鬼たちは「人殺し……」と罵るが、アキュラスは「ふっ」と鼻で笑いながら手を掲げる。


「てめえ等人殺しが何言ってんだよ」


 そして文字通り、“殺戮の炎”と化した少年の手によって――殺人鬼たちと小さな町は、一夜にして消し炭となった。


 朝方、アキュラスは灰色の空を見上げた。人間や建物が燃えた事で焦げた臭いと刺激臭が入り混じり、アキュラスは眉間を顰める。殺人鬼たちは全て一掃した。よって、もう自分の命を狙う敵は居ない。

 それは紛れもなく嬉しい事の筈なのに――アキュラスの心は全く晴れなかった。


 ――どうしてだ。


「死ねぇえッ!」


 その時、殺人鬼の生き残りが最期の力を振り絞ってアキュラスに銀の刃を向ける。しかし幾多の戦火を潜り抜けてきたアキュラスは全く動じず、冷静に刃を受け流して頭蓋骨を掴んだ。数秒後、それは一瞬の内で人間から消し炭に変化する。


「…………」


 アキュラスが静かに手を離した瞬間、目線の先にある水たまりの中に映る自分の姿を見た。返り血と煤に染まった、酷い顔だ。自分では絶望と空虚感しか残っていないと思っていた筈のその顔は――何故か、いつの間にか笑みを浮かべている。これは、まるで――あの時アキュラスの家族を手にかけた凶悪殺人鬼のような、狂気染みた目を輝かせた笑みだった。


 ――俺は……喜んでいる……?


 彼は生きる為に必死で、いつも戦場に居るかのような人生を送っていた。家族と安寧が喪われた、物騒で息苦しい日常。その原因となった全ての敵も、遂に壊滅へと陥れたのだが――残ったのは虚しさだけだ。仇が消えた満足感や安堵感なんて、微塵も感じられなかった。

 そんな中、先程の生き残りに刃を向けられた時――自分はどうして笑みを浮かべていたのだろうか。


 ――まさか、俺は……闘いを、殺し合いを、楽しんでいる?


 闘いの中を生きていく内、彼は闘いの緊張感でしか生きた心地を感じなくなってしまったのだ。未だに燃え盛る炎と大量の血だまりの中、アキュラスは渇いた笑い声を上げる。

 これは、レジェールが好きだった笑みではない。まるで、レジェールを殺した男の笑みだ。


「俺は……俺は……ッ!」


 ――これから、何の為に生きるればいいんだ……闘いの中でしか生きられない……俺は……。



 ◇



 数年後、アキュラスは自然に闘いを求めるようになり、彼は自ら戦場に身を投じる事で生きた心地と更なる強さを手に入れていた。新しい戦場でしか、アキュラスの心は躍らない。既にアキュラスは普通や安寧から脱却し、闘いの中で生きる事に快感を覚えてしまっている。アキュラスの世界は、完全に変わった。

 そして――。


「お前が“殺戮の炎”……アキュラス・フェブリルか」

「誰だ……」

「俺と共にこい。お前の心を満たす――最高の闘いを用意してやる」

「――相手は?」

「世界だ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る