第6話 運命の選択 北村太一の場合


 屋上の扉をゆっくりと閉め、太一と氷華はその場に倒れるように座り込んだ。自分たちの身に起こった、非現実的だが紛れもない現実。緊張の糸がふっと解けた二人は、虚空を見るようにぼうっと階段を見つめている。


「夢じゃ、ないよね」

「夢だったらいいんだけどな」


 太一は腕に付けたリストバンドで、ぎゅっと額に流れる冷や汗を拭いた。いつも見せる余裕は一切なく、焦りと興奮、戸惑いが頭の中でぐるぐると廻っている。

 氷華もぎゅうっと自分の頬をつねってみるが、残念ながらはっきり痛みを感じていた。少し涙目になりつつ、強く引っ張りすぎた頬を撫でている。


「救世主、かぁ。昨日のゲームの続きみたいだね」

「だけど、ゲームじゃない」

「これは……現実」


 頬をつねれば痛みを感じる。カイの水だって本物だ。ゼンの言葉も。だとしたら、間近に迫る世界の危機も? そう考えた途端、氷華はとてつもない不安に襲われた。もしもゼンが破れ、最悪の未来になってしまったら――その想像をしただけで、酷い動機に襲われる。

 ゼンたちと出会わなければ、未知の力を認識しなければ、こんな不安に襲われる事はなかっただろう。しかし、太一と氷華はもう彼等と関わってしまった。ゼンが言っている“世界の破壊”は、現実に起こる可能性があるという事を知ってしまった。


「氷華、大丈夫か?」


 顔を真っ青にしながら押し黙る氷華を不審に思った太一は問いかけると、氷華は無理矢理首をぶんぶんと振って「何でも、ない」と強がっていた。パシンと自分の手で両頬を叩いて気分を切り替えると、氷華はゆっくり立ち上がる。


「ちょっと考え事してた。ほら、さっきの」

「ああ、闘う力って奴?」

「そう、それそれ」


 氷華は誤魔化しながら「私たちの闘う力って何だろう」と思案するように考え込むと、どこからともなく頭の中に声が響く。先程まで聞いていた、優しい声だった。


《氷華、そのまま精神を落ち着けるんだ》


「え、ゼン? 一体どこから!?」


 氷華は咄嗟に口にしたが、途中から考える事を放棄した。頭の中で「ゼンならばこのくらいの事は朝飯前だろう」と自己解決したからだ。隣の太一にはゼンの声が聞こえていないようで「どうした?」と氷華に問いかけるが――氷華はそれに答えず、頭に響いた言葉だけに集中する。


 ――精神を落ち着けるって言ったって……。


《お前の場合はそうだな、氷をイメージすればいい。氷点下の日、屋根には巨大な氷柱が伸びている》


 ――氷点下、氷柱……氷柱。


 そのまま氷華は頭の中で氷柱を必死にイメージした。寒空の下に現れる、傘程の巨大な氷柱。鋭く尖った氷。無意識に、だけど自然と腕は前方に突き出され、ぎゅっと握り拳を作る。無意識というより、まるで魂が覚えているように――身体が自然に動き出していた。

 そんな氷華の行動を、太一は少し緊張しながら黙って見つめている。


《そのまま魂を込めてはっきりと唱えるんだ。『ジーヴル』と》


 次の瞬間、氷華は目を見開いた。同時に掌をばっと開き、はっきりと、迷う事なく唱える。


「『ジーヴル』!」


 ――――ピキピキィッ!


 氷華は突然の光に、小さな悲鳴を上げながら目を瞑った。何が起きたか自分にも理解できず、氷華は恐る恐る目を開けると――その先には、不自然に凍りついた水道の蛇口があったのだ。


「な、何これぇ!?」

「すげー……」


 氷華が呪文を唱えると、開いた掌は光と共に氷の刃を発し――蛇口に向けて放たれたそれは、対象物を即座に凍らせてしまった。

 自らの目で一部始終をはっきり見ていた太一は、顔を引き攣らせながら再び冷や汗を流す。自分がよく知る幼馴染が、急に人間業とは思えない神業を行ってしまった。それは、彼女が“只の人間”ではなくなってしまった事実を突き付けられたようで、ほんの少しだけ恐怖を覚える。自分たちは「もう逃げられない」と宣告されてしまったようにさえ感じられた。

 未だに自分の掌と蛇口を交互に見つめる氷華の傍ら、太一も深刻そうな表情で氷華をじっと見つめる。


「どうして、そんな。ありえない」

「いや、ありえてるよ。すっげーな、氷華……お前もあいつ等みたいなびっくり技を使えるなんて」

「たぶん、あの時の――ゼンが言っていた闘う力ってのだと……思う……あはは」


 氷華自身も信じられないように乾いた笑いを漏らしながら答えた。すると次は太一の頭の中でも、先程氷華が体験したような怪奇現象が起こる。


《太一も、闘う力なら既に手に入れているぞ》


「……マジかよ」


《お前は――風をイメージしろ。何でも吹き飛ばすような、鋭い空気の刃》


「突風とか、かまいたちみたいな?」


《それでも問題ないだろう》


「風、風、風……」


 声に反応するように、太一の身体も自然に動き始める。自分の意思とは裏腹に、まるで心の奥底で覚えているような。無意識に空中に描いた陣のような、文字のようなものを描く動きを、太一自身も信じられないように驚いていた。そのまま勢いよく両手を眼前に掲げる。


《この場合は、呪文はいらない。強く念じろ!》


 ――よくわからないが……風、突風、カマイタチ!


 ――――バキバキィ!


 太一の身体が、小さく後ろに押し出されるような衝撃を感じた。すると前方から妙な破壊音が鳴り響き、音の方向へと視線を向ける。そこには粉々に砕け、無残な姿となっている――水道の蛇口“だった”ものが存在していた。


「風が起こった?」

「何だよ、この力……」


 氷華も太一の事を唖然と見つめている。自分が凍らせてしまった水道の蛇口を、次は太一が刃のような突風で破壊してしまったのだ。目の前で、自分たちの手で繰り出される人間業とは思えないような――常識離れした神業に、暫く目を疑ってしまう。


「今更全部夢でした、とか言わないよね?」

「まさか、な」


《氷華は現象を操る“魔術(マジュツ)”。太一は物質を操る“魔役(マエキ)”の能力だ》


「魔術と……」

「魔役?」


《お前たちは人間の持つ心の強さ、魔力(マリョク)を利用し、それぞれの術を発動した。初めに氷華が行ったのは魔術。魔力による方法だ。原理の詳細は省略するが、今のは水分を凍らせた感覚でいい》


 魔術なんていうものは物語の中だけの存在で――例え数千年前の欧州で起こっていたものとしても、せいぜい黒魔術や占い程度だろうと氷華自身考えていた。しかし、そんなイメージとは大きく異なる、本当に物語の中で行うような魔術そのものを氷華は行ってしまったのだ。


《次に太一が行ったのは魔役。魔力による使役だ。風が蛇口を破壊したように見えただろうが、正確には蛇口に風を纏わせた感じだな。まだ力の制御ができてないから破壊してしまったが、かなり極めれば蛇口を槍に変形させて風を纏わせる、なんて事も可能だ》


「漫画の錬金術みたいだな」


《近い感覚と思ってくれて構わないぞ》


 物質を使役し、操る。大気中の空気を突風に変換して、鋭い刃を作り出す。それを何かに使う。そんな奇跡のような技を太一も簡単に行ってしまった。

 魔術も魔役も、現代においてはありえない技術の筈だ。しかし、太一と氷華はいとも簡単に、現実にそれをやってのけた。


《私はきっかけを与えたにすぎない。この力とどう向き合うか、どう使うか、生かすも殺すもお前たち次第だ》


「「…………」」

「こら! 北村太一! 水無月氷華!」


 戸惑いを浮かべる太一と氷華を現実へ引き戻したのは、担任の怒声だった。その声に太一と氷華は焦りながら振り返る。


 ――見られてたり……してない、よね?


 氷華は不安に思うが、担任の「二人共、始業式はどうした?」という笑顔で大丈夫だろうと安堵した――が、これから安堵できない説教が始まろうとしていた。


「もしかして、もう終わっちゃった……とかですか?」

「そのまさかです」

「あ、そ、それは――えーっと」


 ヤバい、と太一と氷華は顔を見合わせて悟る。彼等は新学期で登校初日から遅刻、そして始業式まで不参加を決め込んでしまったのだ。


 ――それもこれも何もかも、全てゼンたちのせいだ!


 教師に引き摺られながら太一と氷華はその場をずるずると後にする。担任から怒られてはいるものの、自分が手に入れた闘う力の事と、これからの事で頭が破裂しそうだった。

 ゼンたちに協力し――救世主になるか、ならないか。太一と氷華は今後の人生を左右するであろう、究極の選択する必要がある。


 ――これから、どうするべきか……私にしかできない事、かぁ。


 ――俺と氷華が救世主……世界を救う、ゼンを救う……救世主。


 氷華と太一が悩む傍ら、何も知らない担任の教師は「何であそこの水道はあんな不自然な壊れ方を……後で事務の先生に見てもらおう」と考えるのだった。



 ◇



 始業式後のホームルーム中も、氷華は机に顔を伏せてずっと沈黙を貫いている。

 始業式すら不参加だった太一と氷華は、その後少しだけ担任の教師に怒られた。始業式から逃げた事よりも、教室を抜け出してうろついていた事に対してだ。真剣な表情で「不審者に侵入されている状態で、何かあっては手遅れになる。もう少し身の危険を弁えなさい」と怒られた。


 ――私たち、その噂の不審者と会っていたんだけどね……。


「救世主、かぁ」


 突如出会った謎の二人組。第一印象は水を操る不良青年と瞬間移動少女。そしてゼンと呼ばれる神様だった青年。

 氷華は無神論者だったが、目の前で起こった――自分自身でも扱えるようになった不思議な力を体験してしまっては――神の存在を信じるようになった。というか、流石に信じるしかない。更にゼンは、自分たちにしかできない事だと説明し、世界の危機を教えてくれた。


 ――私たちは選ばれた存在、私たちにしかできない事。


 確かに、このままではゼンと対立している、ゼンが“あいつ”と呼ぶ存在に世界を破壊されてしまうのは時間の問題なのかもしれない。ゼンの焦った表情、声。あれは紛れもなく本物だ。それが示す事は、全てが真実だという事。再び襲われる不安感の傍らで、氷華は思案していた。


「闘うのは怖い。世界が壊されるかもしれないのも怖い。とてつもなく。でも、この怖いは……きっと……」


 最初は闘う事に対する怖さだった。次は“世界が壊されてしまう可能性がある”不安だった。だが今、自分と冷静に向き合ってみて、違う恐怖心が大きい事に気が付いた。


 ――世界が壊れるって事は、皆死んじゃうって事でしょ? 家族が、友達が、大切なものが壊されるのは……それだけは、絶対に嫌だ。


 氷華は不安だった。自分は何の取柄もない普通の学生で、そんな人間に救世主が務まるとは思えない。他人だったら、そんな人間に世界の命運を託したくない。もしも、万が一――世界を護る事ができなければ、確実に自分の力不足が原因になるだろう。


 ――私に救世主なんて大役ができる? 私なんかが、世界を救える?


「だけど、これは私たちにしかできない事。私がやらなきゃ、このまま黙って世界が壊れていくかもしれない。私がやらなきゃ、あんなに必死なゼンたちを見捨てる事になる……この世界を見捨てる事になる」


 一度関わってしまえば、もう逃げられない。一度知ってしまえば、もう後戻りはできない。氷華は自分に助けを求める彼等を見捨てられる程、非情にはなり切れなかった。


「大切なものを護る為なら、私は……」



 ◇



「俺が、救世主……信じられない」


 ホームルーム中、担任の話には耳をくれずに太一は窓の外を眺めていた。太一が考える事は氷華と同じく、先程自分の身に起きた摩訶不思議な出来事だ。


 ――このまま世界が壊されるのを、何もしないで黙って見るのは嫌だ。俺にしかできないなら……闘う力だって手に入れたなら……やるしかない。


 太一は、既に自分の気持ちを固めていたのだが――。


「だけど」


 一つだけ迷いがある。


 太一は過去、陸上競技とは違うある事に熱中していた。時には氷華を巻き込み、優秀な成績を収め続ける。将来は有望、スポーツ推薦で学校に編入できるとまで称される程の実力だったのだが、ある事件をきっかけに太一はそれを辞めてしまった。辞めた、というより“できなくなった”という表現の方が正しいかもしれない。

 その事件は、ある人物たちを救いたいという一心で太一が暴走してしまった事だ。太一は単独で敵地に乗り込むものの、その技術を闘いに駆使してしまい、太一は他人を圧倒。その時の太一は頭に血が上っていた為に冷静な判断ができず、力の加減どころか善悪の判断ができなくなっていた。

 結果、必要以上に他人を傷付けてしまった。例え“誰かを救う”という名目でも、自分の技術を乱用し、暴走してしまった。中には太一と同じ道場に通う者も居り、その選手生命や将来を奪う程、酷く傷付けてしまった。

 そして、その事件以来――太一は“それ”を握っていない。

 その後、太一は酷いトラウマに恐怖しながらも紆余曲折を経て、自分の青春を陸上へ移した。その才能も幼少期同様に余す事なく開花させ、陸上部で期待のエースという肩書きを成すままにしている。


「闘うとなったら、また確実に“あれ”に頼るようになる。というか……俺は“あれ”しか考えられない」


 誰かを救う為に、他人を傷付けるまで暴走してしまった過去を思い浮かべる。あの時は“救いたい”という善行一心で、それが悪行だとは気付けなかった。全てが終わった後、傷付けてしまった他人の脅えた目が忘れられない。ショックで塞ぎ込んでしまった過去の自分が右手を引いている。


「たぶん俺はまた、あの技で……何かを救う為に、何かを傷付ける。今回の闘うってのは、たぶんそういう事だ。昔は背負い切れなくて、逃げた。それを背負う覚悟が、今の俺にはあるのか?」


 ――“あれ”を再び握る覚悟、俺にはちゃんとあるのか?


「でも俺は……このまま何もしないで破壊を見過ごすのなんてごめんだ」



 ◇



 長かったホームルームが終わるという事は、本日の授業の終了も意味する。久々に再会した友人たちと遊びに出かけたり、熱心な生徒はそのまま部活に励んでいたりと、クラスではそれぞれ帰り支度を始めていた。そんな中、氷華は真剣な面持ちで隣の席の太一を見つめる。


「太一は、どうするの?」

「さっきのアレ?」


 太一は氷華に向かい、いつもとあまり変わらない笑顔を向けた。太一は必死に考え、かなり悩んだ末――既に答えを導き出している。


「俺はさ、やってみようと思うよ。救世主」

「本当に?」

「ああ、決めた。俺は世界を救いたい。このまま世界が壊されるのを見ていくだけってのは嫌なんだ。どこまでできるかわからないけど、人間代表として全力で足掻いてやる。それに俺たちにしかできない事ときたら……それは俺がやるしかない。何でも他人任せじゃあ駄目だと思うから。それが世界を救うっていう大事でもさ」


 決意を秘めた目で、太一は氷華に自分の想いをぶつける。その力強い眼差しを前に、氷華は目を逸らす事ができなかった。かなりの負けず嫌いの太一にとって、負ける以前に勝負を投げ出す選択も頭にないのだろう。しかし太一なら、世界が相手でも勝利を収めてしまうかもしれないという錯覚すら覚える。


「って偉そうな事を言っても、救う覚悟とかはまだ完全にはないんだ。だけど、背負う覚悟はある。今度はもう逃げない。何かを救ったとしても、何かを傷付けてしまったとしても――俺は全てを背負う」


 その言葉を聞いて、氷華は「太一はさ……やっぱり強いよね」と呟く。太一に感化されたように、氷華は静かに自分の想いを語り出した。まるで自分自身に言い聞かせるように。


「私、闘うのが怖いよ。子供の頃に怖い事もあったけど、これから先はきっと、もっと怖い事が待っていると思う。だからってどんな闘いが待ち受けているのかはわからないけど――もしかしたら誰かを傷付ける事になるかもしれない。酷い怪我を負って凄く痛い思いをするかもしれない。考えたくないけど、死ぬかもしれない。そう考えると、とても怖い」


 ゆっくりと閉じていた目を開き、氷華はまっすぐ太一を見つめた。曇りがなく澄み切ったような強い眼差しで。氷華も太一と同じように、決意を秘めた目だった。


「だけどね……私、それよりもっと怖い事があるんだ。大切な人たちが生きるこの世界を壊される方が怖い。大切なものを護れない方が、闘う事なんかよりもっと怖い。何の取柄もない弱い私でも、闘う力を手に入れた。この力をきっかけに、私は強くなりたい」

「氷華ならきっと強くなれる。俺が保証するよ」

「ありがと、太一。私、大切なものを護る為に闘う。救世主を目指しながら!」


 そして、太一と氷華はガシッと手を握り合った。何もかも吹っ切れたように、清々しい笑みで。


「いっちょ、やってやりますか!」

「ゲームの延長戦だけど、これはゲームじゃない!」

「でも、俺たち二人なら絶対にクリアできる!」



 太一は心の内で考える。


 ――俺は今、確実に一生に一度ってくらいの分岐点に立っている。だったらもう少し慎重になって考えるべきなのかもしれない。


 ゼンの手を取る事で、誰かの手を離す事になるのかもしれない。

 自分が闘う事で、何かが壊れるかもしれない。


 ――この選択で、何がどう変わるかなんて俺にはわからないけれど。でも、そう悠長に世界は待ってくれないから。


 太陽を掴むように手を伸ばし、太一は未来に希望を抱きながら叫んだ。


「待ってろ、世界!」


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