第15話
それから……。
話にもならないくらいにミラは幸せの絶頂にいた。身も心も通じた恋人同士が不幸であろうはずがない。
日々は、まるで穏やかに平和に過ぎてゆく。
朝、森へと出てゆくシルヴァーンを見送り、昼は家事をこなす。夕方、シルヴァーンを迎えて、食事を出す。
まるで夫婦のよう。それすらも、かつてのミラには望めぬ夢だった。
足は治らず不自由なままだったが、たっぷり時間はあるので、問題はなかった。ミラは時々、歌を歌いながら洗濯をしたり、掃除をしたり……それが幸せだった。
歌を歌うと、時々それに合わせて体が動きそうになる。
あれほど躍るのが嫌だったのに、幼い頃から叩き込まれたことというのは、すぐに抜けないらしい。ターンをしようとして、不自由な足でよろめき、苦笑いしてしまうこともあった。
シルヴァーンのために何でもしてあげたいのに、動かない足のせいで彼を煩わせることもあった。その時は、さすがに悲しく感じる。
不自由な足のせいで不幸だとは思わないが、自由だったらもっといいと思うことはある。
朝の出がけに。夜の食事中に。時に昼に突然戻ってきて。
シルヴァーンは、時々思い出したように、ミラに聞いた。
「足が動かないのは、辛いか?」
「辛いわ」
いつもは平気……と言うのだが、あまりにしつこく聞くので、一度だけそう言った。
その時の驚いたような複雑なシルヴァーンの表情を、ミラは忘れられない。慌てて言葉を付け足した。
「だって、もっと自由に動けたら、あなたのためになるもの。それに……」
シルヴァーンのために踊りたいと思った。
もっと美しく、人目を引くように踊れと、座長は言った。ミラは、どうしても踊れなかった。
だが、もしも踊りがミラの美しさを引き出すのだとしたら……。
もっともっと美しい自分を、ミラはシルヴァーンに見てもらいたかった。
「ミラは、もう踊らなくてもいい」
「え?」
ミラは、うっかり忘れてしまうのだ。
純血種は、心の表に現れた言葉になりそうな思いを読み取ってしまうことを。だが、リューマ族であるミラには、言葉になりそうなシルヴァーンの思いを読み取ることができない。
もどかしいと思う。
シルヴァーンは、自分の言葉を説明できずに、何度か唇を動かしかけたが、ただ一言。
「もう……いい」
とだけ、言った。
そして、それっきり、ミラの足のことを聞かなくなった。
シルヴァーンは、時々ミラを森へと連れ出した。
「森を一人で歩いてはいけない」
彼は何度も念を押し、ミラに約束させていた。
もとより、ミラは森を一人で歩く勇気はない。亡霊や一角獣に、一人で立ち向かえるはずがないことを、ミラはよく知っている。
「でも……あなたは好奇心が旺盛だから」
信用していないのか、シルヴァーンは不安そうだった。
だが、不自由な足で家事ばかりに明け暮れるミラを、彼は気の毒に思ったのだろう。天気がいい日には、一緒に森を歩いた。
なぜ、グリンティアやシルヴァーンと一緒にいると、一角獣に襲われないのか、ミラにはよくわからない。彼らは、森の守り人たちとの共存関係にあるようだ。
ミラもそれが可能ならば、もっとこの森がすきになれるのに……と思う。
木漏れ日はキラキラと輝き、風はかすかに薫る。透明感のある幹もまるで水晶のように美しく、二人を包み込む空気は優しい。
怖く思えた森ですら、恋人と歩けば美しい風景だ。
ミラは杖をつき、シルヴァーンは歩調を合わせてゆっくりと歩く。手は繋ぎあい、やがて腕を組み、肩を抱き合い、寄り添いあう。
森の景色はいつも違っていて、ミラを飽きさせることはなかった。
二人は、小高い丘の上で休憩を取った。やや木がまばらで視界がよく、風が気持ちいい場所だった。
芝生の上に横になるとミラの汗を風が乾かしてくれる。
緑の香りが濃く鼻をくすぐる。日に照らされて香りたつ。
何かを思い出しかけて、ミラは青い空を見上げていた。その空が銀の波で封じられ、ミラの思考も断ち切れた。空の代わりに青い瞳が目に映る。
――この瞳をどこかで……。
そう思考が動き始めたとたん、ミラの唇は唇でふさがれてしまう。ミラが思っていたよりもずっと彼は無邪気だった。
とにかく、ミラとふれあっていないと心配らしい。
純血種は、ふれあうことを好むという。それにしても、シルヴァーンの態度は、まるで今までの反動のようだった。
あれほど頑で冷たかったのに、たがが外れてしまったようだ。
ミラは、その落差に半ばあきれて、半ば愛しさをつのらせていた。
その心を読み取ったのか、シルヴァーンはやや頬を紅潮させて、言い訳のようにつぶやいた。
「……ひとりが長かったのです」
シルヴァーンの口調は、時々大きく変化する。命令調に言い切るときと、姫君に話しかけるような丁寧な言い方と。
言い切るときは、これ以上ミラに話をしたくないときで、逆に丁寧なときは、話を聞いて欲しいときらしい。
「この村から出たことはないの?」
ミラの質問に、すでに返事は不要だった。彼はこの世界から出たことはないのだ。
「でも、外のことをまるで知らないわけでもありません。兄弟姉妹がたくさんいて、いろいろ教えてくれるので」
「家族? いるの?」
ミラには家族がいなかった。シルヴァーンに家族がいるということが、なぜか意外だった。
「リューマにも、ウーレンにも、エーデムにも我が兄弟姉妹は存在します。彼らは旅をして、時々この森を訪ねることもある。我らが結束を確認するために」
不思議だった。
ミラと同様に、シルヴァーンの家族は外の世界にいる。では、なぜ、彼とグリンティアだけがこの世界にいるのだろうか? 二人……いや、一人だけの世界に。
その疑問を先読みして、シルヴァーンはミラの髪を撫でながら囁く。
「父が不慮の死を遂げて、兄弟の中で我がグリンティアを守るべき者が必要だったのです。私がその役を受け、兄弟は皆、去りました……」
――我がグリンティア?
ミラは、その言葉の意味を聞き返そうとした。
今ならば、秘密で覆われた彼らのことを、シルヴァーンは教えてくれそうな気がした。
しかし……。
蹄の音に最初に気がついたのは、純血種のシルヴァーンではなくミラのほうだった。
あの不穏な音を、ミラが忘れるはずはなかった。
「シルヴァーン、あれを!」
彼は後ろを振り向き、ミラの指が示すほうを見た。
丘の下方、わずかなところを白っぽい影が渡ってゆく。木々の間を走り抜けていく馬の群れ。いや、一角獣の群れだ。
大地を揺らす音。まるで水が流れてゆくようだ。
ミラの呼吸は乱れた。
胸を貫く刃の冷たさを、ミラは忘れることができない。
冷たい氷のような瞳に射抜かれ、刃のような角で刺された日のこと。
ここは恐ろしい一角獣が守る森――幸せすぎて忘れかけていた。
シルヴァーンがいれば大丈夫……という安心感は、一体どこからきたのだろう? 彼に聞いたこともないし、誰にも言われたわけでもない。
あの大群が、二人を見つけたとしたら、その場で命を奪われるだろう。
すぐにでもこの場所から逃げ出したかった。いや、もう逃げられない。
銀の波が怒涛の蹄音を響かせて、青白き刃を掲げている。まるで凶暴な軍団の行進だった。ミラをまるで探して追い詰めていくように……。
ミラは強くシルヴァーンの胸元を握りしめた。
そのまま、胸の中で融けて消えてしまいたいと、強く願った。心臓の傷が痛み出し、引き裂かれたままに戻りそうになり、ミラは呼吸を整えることができなかった。
シルヴァーンは、その手を握り返すと、落ち着き払った声で言った。
「大丈夫……彼らは襲ってはきません。ここでじっとしていたら、皆、通り過ぎてゆきます」
彼は微動だにせず、一角獣の群れを見つめている。
群れも流れに変化を見せず、緑の狭間に白い泡のような影をちらちらと光らせている。
一角獣は、二人に気がつかないのか? それとも襲う気がないのか?
群れはやがて森の向こうに吸い込まれ、見えなくなっていった。
最後の一頭だけが立ち止まり、こちらをじっと見ている。ぞくりとするほどの冷たい視線がミラを刺した。
しかし、それも一瞬で、一角獣は鬣を翻して消え去った。
かすかに大地に蹄音のみを響かせた。それもやがて消えていった。
これがシルヴァーンの結界なのだろうか?
存在を消し去ってしまい、相手に気づかれないようにすること。そうしたのでなければ、どうして襲われなかったのか、ミラには思いつかない。
ミラは不思議そうにシルヴァーンを見あげた。
風が、まるで波のように彼の銀髪を揺らせている。やや尖った耳だけが、ぴくりと風音に反応して動いた。
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