第12話
ミラの頭は混乱した。
涙はすっかり収まって、頭は話の意味を掴もうと新たな質問を模索していた。
混乱は限度を越えていて、頭の中で押し合いへし合いして、質問すらもまとめあげることが出来ない。
「……もう充分わかっていただけたでしょう。この世界は、あなたにとっては幻の世界。そしてシルヴァーンはこの村を出ることはない。彼とともに歩むことは、あなたも幻の中で生きるしかないことです。現実の世界を恋いしんで彼を望んだあなたは、おそらくこの世界では生きられないでしょう」
ミラの混乱は収まらない。ただ、生きる世界が違うという意味だけは、何となくわかったような気がした。
しかし、だからといってできないと決めつけられるのはおかしい。それは、やってみなければわからないではないのか? シルヴァーンがこの村を出て行くことだって、皆無ではないはずだ。
幻とのみ生活し、幻とのみ言葉を交わし、ふれあうなんて……。そのような生き方が生きているといえるのだろうか?
「彼はこの生活を自分の使命として受け止めているのです。あなたは彼の揺らぎとなる。揺らぎは禍の元となる。彼は充分そのことを知っています。知っていてあなたを助けた。ですから、あなたが望むのです。帰りたいと……」
「私……望みません」
「いいえ、やがて望みます。やがて訪れる望みならば、今望むのです。それがあなたのためでもあり、シルヴァーンのためにもなる……」
そこまで話すと、突然グリンティアは言葉をとめ、立ち上がった。
ほぼ同時に扉が開き、シルヴァーンが姿を現した。
銀の髪が日に輝き七色に変化する様子は、グリンティアたちと同様で同種族を表していた。
しかし、彼には実体がある。確かな腕と確かな胸。ミラは、すらりとした立ち姿に目をやり、昨夜抱きしめられた感覚を思い出して、顔を赤らめた。たった昨夜のことなのに、ものすごい昔のことのように感じ、彼のすべてが懐かしく感じられる。
ミラは表情を緩ませて彼に視線を送ったが、彼は見返すこともなく、むしろやや不機嫌そうに眉をしかめたままだった。見捨てられたような気になって、ミラの表情はこわばった。
急に夕べのことが、恥知らずなことに思えてくる。
その様子をグリンティアは面白そうに観察して、ややとぼけた口調でシルヴァーンに話しかけた。
「どうしたのです? まだ日も高いこの時間に戻るとは……」
「……外の動きに怪しいものはない。他にわずらわしい存在も感じぬゆえ、早く戻った」
「余計な心労にて感が鈍ったわけではありませんね?」
グリンティアは皮肉めいた笑いを浮かべ、シルヴァーンの頬を撫でた。グリンティアとシルヴァーンは、ふれることのできる間柄だった。
ミラの脳裏に「我がシルヴァーン」と呼ぶグリンティアの声がよみがえり、絵になる二人の姿に心が乱れた。
同族同士の二人は、いったいどのような関係なのだろう?
なぜ、幻であるグリンティアと実体であるシルヴァーンは、ふれあうことができるのだろう?
そもそも、なぜこの村に二人なのだろうか?
考えたくもない想像しか浮かばない。
ミラは唇を噛みしめた。
それならば……亡霊の悪夢にとりつかれ、眠れぬ夜のほうが良かった。きりきりと痛む心臓を、くれてやったほうがましだった。
グリンティアは、美しい微笑みとともに小屋を出て行こうとした。そして最後に振り返った。
「よその方はかなり回復なさったようですわ。彼女の希望通り、国に帰れる日ももうすぐでしょうね」
グリンティアが出て行った後、時間はすっかり止まってしまった。
心など通っているわけではない。ただ、体だけを重ねた。
かつて座長がミラに切々と訴えていたことは、まったくの嘘だ。体を許せば、心もすべて繋がれていくだなんて。
心がなくても体は繋がる。愛がなくても男は女を抱ける。
気持ちを伝える前に体を許してしまったことがひどく重くのしかかり、ミラを罪人のように苛んだ。そして、シルヴァーンも顔をこわばらせたままだった。ミラを見ることもなく、壁の一点を睨みつけている。
望まれたとはいえ、下賎な女を抱いてしまって後悔でもしているのだろうか?
それとも、やはり禍だと思われているのだろうか?
ならば、ミラにできることはひとつしかない。
ミラは、ベッドから体を起こした。しかし、シルヴァーンの顔を直視できない。足は自由にならないが、杖さえあれば歩けるだろう。
「……おかげさまで、すっかり良くなりました……。もう……」
――もう、旅立つことができます。
言葉が続かなかった。
体ががくがくと震えた。そのような心にもないことを、言えるはずがない。言いたくはない。
それでも……。
冷静を装って、一夜の戯れと割り切るしかないのだ。
おそらく、俗世に戻った後に命があれば、戯れの夜ばかりが待っているだろう。他の年長の一座の女たちが、客に連れられて闇にまぎれていくように。
一座にいた時……。
座長がいやらしい目つきでミラを見ていることに、まったく気がつかなかったわけではない。必死に逃げてきたのだ。彼はミラが好きで抱こうとしているわけではない。ミラはそれも知っていた。
一座の踊り子を客が欲したら、座長は差し出す。そのときに生娘であれば、どのような無礼を働くかわかったものではない。まずは、男を教え込む。それが座長の仕事だった。
純血種たちは血の混じった女を嫌う。だから、女を欲する事はない。しかし、混血のリューマ族たちは、人間同様好色で女を買いたがる。施しの少ないガラル以東で稼ぐには、女は有用な手だった。
ミラは美しい女に成長した。やや小柄なものの立ち姿が美しく、踊りさえ上手ければもっと人目を惹きつけただろう。
しかし、ミラの手はかじかんで美しく舞うことはなく、足はいつもとまどっていた。まったく目立たない踊り手だった。演じ手としても目立つ存在ではなかった。
人並みではあったが、それ以上には上手くなれずに怒鳴られ叩かれる毎日。客に求められることもない。
飯炊きの子供が増えると、ますますミラの居場所はなくなっていった。
座長があまりの役立たずに、ひとつの仕事を教え込もうとするのも、当然といえた。
――それでも……。
帰るべきミラの世界はそこなのだ。そうして生きてゆくしかない。
ここは美しい夢の世界。幻だ。
しかし、重たい空気を引き裂いたのはシルヴァーンのほうだった。
ミラの言葉を聞いたとたん、いきなりつかつかと歩み寄ったかと思うと、ミラの手首を取った。
ミラはおどろいて彼を見つめたが、彼はミラの瞳を見てはいなかった。冷たい瞳に怒りを浮かべてミラの首筋を睨んでいた。
「グリンティアに何を言われたのです? 何を聞いたのです?」
ミラは自分の首筋に手を当てた。かすかに湿った感触と痛みが走った。すっかり忘れていたが、冷たいグリンティアが残していった傷がある。
「……何も……。あの人たちは、何も話してはくれません……」
「あなたに何かを話したはず……」
「私、何も……」
「あなたは何かを隠している!」
今まで声を荒げた事のないシルヴァーンが、強くミラの手首を掴んだまま詰問した。その言葉を受けて、ミラも思わず声があがった。
「何も知りません! あなただって何も話してはくれないではないですか!」
勢いよく振り払った手に、シルヴァーンは呆然として、ミラを見た。
「……所詮は低俗な種だと思っているのでしょうが、私にだって心はあります。命を助けていただいたのには感謝しますが、巣から落ちた鳥じゃない。羽が癒えたら、それでいいわけじゃない……」
シルヴァーンの前では泣くまいと我慢していた涙が、再びこぼれた。
彼はミラの涙を見て、信じられないほど動揺したようだった。視線がおぼつかなく空中をさ迷い、ついにはミラに背を向けた。そして小さな声で言った。
「……そのように思っていたわけではありません」
彼の背中を睨みつけていたミラだったが、かすかにその背中が震えているのに気がついて、肩の力がすっと抜けた。ミラにとっても、彼の反応は意外だった。
「……そのように思っていたわけではありません」
無口な男が、同じ言葉を二度繰り返した。
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