第11話


 喉元をちくりと刺す感覚で、ミラは目を覚ました。

 昨夜の嵐とはうって変わって、明るくさわやかな朝だった。しかし、差し込む光の海の中、冷たい瞳のグリンティアのさらに凍りついた瞳があった。

 彼女はベッドの上にいた。ミラの喉元に、木の槍が突きつけられていて、今にも突き刺そうとしている。

 まったく動けないミラだったが、グリンティアの様子に気がついて、びくりと体を震わせた。その瞬間、槍の先が肌に触れ、かすかにミラの首筋を傷つけた。

 グリンティアは、ミラの上にのしかかっていた。

 しかし、一切の重さを感じない。それもそのはず、彼女の体はミラの体を通り抜け、ベッドの上に手をつき、足を乗せていた。

 一瞬、その事実にぎょっとしたが、昨日のことを思い出した。

「リューマの淫乱女めが! 禍を呼ぶなら、殺すと忠告したはずだ」

 グリンティアは、幻のようにミラには触れることができないらしい。しかし、彼女が構えている槍は本物だった。

「私は……禍なんかじゃないわ……」

 ミラはベッドに張り付いたまま、言葉だけで抵抗した。突き放そうとしたところで、彼女がミラに触れられぬように、ミラも彼女に触れることはできない。

 いったい何が起きているのかもわからぬうちに、このまま突き殺されてしまうのだろうか? 

 ミラの胸が再び痛み出す。一角獣の冷たい刃が、まだそこに残っている。

「おやめなさい。もう無駄なことです」

 名もない女の声だった。

 冷たい目のグリンティアは女を一瞥すると、ちっとばかりに舌打ちし、槍を手放した。

「無駄なんかではない。この女を殺して埋めてやればすむはずなのに……」

 埋めるという言葉に、昨夜の夢がよみがえる。ミラはぞくっとして、とりあえずの殺意は失ったらしいグリンティアの顔を見つめた。

 その視線に感づいて、彼女もミラを見つめ返した。青い瞳と額の水晶が冷たい光を放つ。

「……自分の意思で去ってくれ。少しでも彼を思うならば……」

 冷たさに反し、それは懇願の言葉だった。

 私の意思? ミラは困惑した。


 ――あなたは望むのか?


 念を押すようなシルヴァーンの質問が思い出され、体の芯を熱くさせる。痺れるようなだるさを感じる。

 抱いて欲しいなんて、女性として恥ずべき望みだったかもしれない。そうは思っても、とても一人では過ごせない夜だった。いや、今までの日々すべてが耐え切れなかった。

 シルヴァーンはミラの命を救い、ミラの心を黙して殺し続けてきたのだから。


 グリンティアは諦めたようにベッドを降り、名もない女と目で会話すると、静かに小屋を出て行った。

 名もなき女は、グリンティアが出て行った扉をしばらく見つめていたが、やがて歩み寄るとベッドの横に腰をおろした。

 差し出された手は、ミラの髪を撫でるようなしぐさをしたが、実際はグリンティア同様に触れることなく素通りしていた。

「ミラ……あなたはよその方なのです」

 女は初めてミラの名前を呼んだ。

「……よそからきた者は……あの人にはそぐわないと?」

 声が震える。自分で口にしても悲しすぎる言葉だった。

「そうです。よその者は、この森に必ず禍いをもたらすのだから」


 ――そんな!


 否定したい言葉は、ミラの喉元で留まった。この人たちに訴えたところで所詮無駄なことだと胸がうずく。

 純血種は、常に汚れた血筋を忌み嫌うのだ。

 ミラを肯定しつつ、ミラの血を否定する言葉が、優しい響きをもって紡がれる。

「あなたが悪いのではありません。血の宿命というものは、誰しも乗り越えることができないものなのです。我々とあなたは、生き方がちがいます」

「……でも……愛しているんです」

 自分でも驚いてしまうほど自然にその言葉は唇から漏れ、ミラはほろりと涙をこぼした。

 だから、抱いてほしかったのだ。

 一角獣に刺されて空いた胸の隙間に、詰め込まれたものは愛だった。それがたとえ死にかけた者への同情であっても、胸を埋め尽くしたものは、今まで生きてきた間にミラが受けた事のない、まぎれもない優しさであった。

 その優しさを、もっともっと……ほしいと願った。

 優しい心、優しい言葉、優しい手、優しい瞳を、切なく望んだ。

 それはあるまじき願いだろうか?

「愛を軽々しく口にしてはなりません」

 優しい眼差しとは裏腹に、女の言葉はぴしゃりと響いた。

「あなたの世界は広く、開かれた世界なのです。我々の世界は狭く、閉じられている。あなたは、突然異質な世界に迷い込み、死の恐怖と孤独から逃れるために、彼を求めたに過ぎません」

「! 違います!」

「違いません。あなたの愛は幻にすぎません」

 なぜにそこまで否定されてしまうのだろうか?

 たしかに、寂しさに負け、優しさに屈したことが、彼を愛するきっかけだったかも知れない。でも、今となってはそれはどうでもいいことに思えた。胸に一つ、ずっしりと存在する想いがある。

 ミラは混血のよどんだ血筋の女だ。生れも育ちもわからない。下賎な一座で邪魔者にされながらも、懸命に生きてきた。尊い生き方ではなかっただろう。誇れるものは何もない。

 でも、今胸の奥にあるものだけは、宝石のように美しく感じられるのだ。人生すべてを否定されても、この想いを汚されたくはない。

 震える指先に力をこめて、ミラは小さく呟いた。

「幻は……あなたのほう! あなたはここにはいないもの」

 女は同情するような眼差しで、ミラの涙を見つめていた。しかし、それをぬぐう手を持っていない。

「あなたの愛は彼を傷つけ、やがて彼の一番大事なものを壊すでしょう」


 ミラは生きていた。

 たしかに肉を感じ、心臓の鼓動を実感した。幻ではない自分を見出していた。

 そして、シルヴァーンの鼓動もおぼえている。彼も、この世界に実在している。

 しかし……。


「あなたは……いったい誰?」

 ミラは何度しても答えてもらえなかった質問を繰り返した。

 愚問極まりないだろう。

 女はしばらく黙っていたが、これ以上何も言わないのはミラを納得させられないと判断したのか、重い口を開いた。

「……私はグリンティアです」

 ミラは、驚いて女の顔を凝視した。

「私たちは、というべきかしら? 私は自分が自由に生きていた頃の夢を見ている」

 そういうと優しいグリンティアはあたりを懐かしそうに見回した。

「この村は、グリンティアの幻とシルヴァーンだけの世界。たくさんの私がいる世界。子供の頃の私、少女の頃の私、大人になった私の幻が、我がシルヴァーンとともに生活する村なのです」

 そして再びミラを見つめた。額に埋まった青水晶が煌いた。

「ミラ、あなたのいる場所はここにはありません」

「い、意味がわかりません」

 だから……と言わんばかりの顔をされた。

「わからなくても仕方がないわ。あなたはよその方ですから」


 一人と幻のみの世界……。

 そのようなことがあるのだろうか?


 ミラは軽く頭をふった。同じ人物であろうはずがない。

 冷たい目のグリンティア。幼いグリンティア。優しいグリンティア。

 ミラの前に現れた名乗らない女、名のない女、すべてすべて……。

 彼女たちは互いに会話し、時には言い争ったり、考え方が違ったりしている。間違いなく一人ではない。

 でも……。

 たしかに似すぎている。同一人物と思えるほどに。

 自由に生きていた頃の夢?

 それではグリンティアという存在はいないのだろうか? すべては幻だとでも言うのだろうか?

 それが可能なのは……。

「……死人?」

「いいえ、私は、あなたの目にふれないところでひっそりと眠っている。そしてこの村の夢を見ているのです」

 ミラの無礼な一言を、優しいグリンティアは微笑すら浮かべて否定した。

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