第9話


 ミラの意識は、風の中、遠のいた。

 必要以上に気を張っていた。そして、体力も限界だった。

 ぼんやりと薄目を開けた中、落ち葉が舞っているのが見えた。


 ――我々は同士だ。忘れるな――


 亡霊の言葉が舞っているのだった。


「ミラ!」

 誰かの声がした。誰だろう? 

 誰もここでは、名前など呼んではくれなかった……。


 誰かが助け起こしてくれる。腕に抱き、胸に抱きしめてくれる。

 ミラは視線をかすかに移す。青い瞳と重なった。

 今まで冷たく感じて直視できなかった瞳だ。しかし、今は不安そうに揺れている。サークレットで抑えられた銀の髪が、風に舞ってミラの視界全体に広がった。

 落ち葉の声はさえぎられた。

 ミラの耳に響くのは、ただ、自分の名を呼ぶ声だけ。

 それも、どこかでこの感覚をおぼえている。


「……シルヴァーン……?」


 ミラは信じられないような気持ちで、彼の名を呟いていた。思えば、自分もはじめて彼の名を口にしたのではないだろうか?

 名前の呼びかけの答えは、きつい抱擁で返ってきた。

 ミラは結界に包まれたかのように安心し、ついに意識を手放した。



 夢を見ていた。

 光を浴びてほの青白く輝く木々の中、シルヴァーンが歩いてゆく。彼の足音は、落ち葉を踏みしめて不思議な響きを立てていた。

 森の木々は、彼を愛しむように時に枝をよけ、時に幹すら捻じ曲げた。

 ミラは……その様子を第三者のようにして見ていた。だが、実際は彼の腕の中にいた。

 抱きかかえられ、運ばれていた。

 顔色が悪いようだ。まるで死人のような顔をしている。

 銀色の髪の女たちが、木々の間から湧き出るようにして、シルヴァーンの行く手を遮る。

「どうしたの? どうするつもりなの?」

 女たちの囁くような質問に、シルヴァーンは答えようとはしない。ぐっと唇を引き締めている。

「その女は……禍だ」

 グリンティアの声だ。

 女たちをよく見ると、小さなグリンティアだったり、冷たい目のグリンティアだったり、名乗りもしない女だったりする。

「穴を掘って埋めてしまおう。誰にも見つからないように……」

 グリンティアの冷たい目が光り、シルヴァーンは歩を止めた。

「この人を助ける」

 はっきりと言い切る彼の声に、グリンティアは眉をひそめた。

「その出血を止められまい」

 少女が伸ばす手の先に、シルヴァーンの血にまみれた銀の髪があった。

「この人は助かる」

 髪に触れた手を振り払い、彼は再び歩き始めた。


 ――血? 


 ミラはそっと目を開けた。

 真直ぐに前を見て歩きつづけるシルヴァーンの瞳に、堅固な意志の輝きを感じるとともに、何か孤独な影を感じる。

 そして、髪にねっとりと付いた血糊に、ぞくりと震えがきた。いったいなぜ血にまみれているのだろう?

 そして……気がついた。自分の胸に、大きな穴があいていて、血が滴り落ちていることを。

 振り返ると、森の小道に転々と血の花が咲いている。


『我々は同士だ。胸の穴を確かめるがよい』


 風に乗って、落ち葉が揺れた。




 けたたましい悲鳴をあげて、ミラは暗がりの中、目を覚ました。

 激しく心臓が打っている。間違いなく本物の心臓だ。


 ――あぁ、私の心臓だ……。


 鼓動こそがミラを安心させる。あれは夢だったのだと。

 どろりとした血の感覚が、まだ体に残っている。手でぬぐって汗だと気がつくのに時間がかかった。

 灯りがともった。

 銀色の影が近づいてくる。無表情な顔は、ほの明るい蝋燭の灯火にもかかわらず、青白く瞳の色をうつしてるかのようだ。シルヴァーンだった。

 いつもの部屋だ。天井が光を反射して白く輝いている。

「悪夢は去ったはず。安心して眠れるはずです」

 彼の言葉は相変わらず短い。あの名前を呼んでくれた声は、別人だったかと思うほどにそっけない。

 あの抱擁も、すべては幻。夢だったのだろうか?

 すがるような眼差しで、ミラは彼を見つめていた。が、彼は答えることはなく、目線を外した。そして、部屋の奥へと姿を消した。

 灯りがともったとはいえ、一人きりの部屋は怖かった。

 揺らめく光が、壁の木の凹凸を浮かびあがらせ、はかない世界に取り残されたような錯覚に貶める。

 ミラは震えながら、自分の肩を抱いた。

 亡霊の声が、今だ耳に残っているようだ。また眠りについたら、同じ夢を見てしまいそうだった。

 やがて、奥からシルヴァーンが戻ってきた。

 薬湯の香りがする。安眠を誘う薬だろう。ミラの不安を無視したわけではなかったのだ。

 彼は、冷たいタオルを手渡した。汗を拭けということらしい。そのタオルにも、香りの高い水分が含まれていて、血糊にも似た汗の感覚をぬぐい去るものだった。

 ミラが体を拭いている間、シルヴァーンは窓辺にたたずんで外を見ていた。風が強く、亡霊のような声がする。

 今夜は嵐になる。

 ミラの体にふれ、胸のけがを癒してくれた彼だが、自分で動けるようになってからは、彼はミラにふれないようにしている。外を見ているのも、ミラの裸身を見ないようにしているからだろう。

 このようにして、ミラは少しずつ彼から離れていき、やがて自分の国へと戻ってゆき、森へは二度と踏み込まないのだろう。

 かつては飲ませてくれた薬湯も、今は自分で手を伸ばし、自分の手で器を支えて飲むのだ。一口飲んで苦い……と、ミラは感じた。

 すべて飲み干し、ため息をつく。なぜか目頭が熱くなる。

 シルヴァーンはミラが薬湯を飲み終わったと判断すると、再びベッド脇へと歩み寄り、器を片付けようとした。

 このまま、彼を行かせたら、この恐ろしい夜をたった一人で耐えなくてはならない。

 そのような気持ちが、ミラを突き動かしていた。

 それとも、別に意味があったのだろうか?

「いかないでください……。一人にしないで……お願い……」

 ミラは、シルヴァーンの服の端を知らないうちに握りしめて懇願していた。

 涙が頬を伝わった。なぜ泣いているのか、ミラは自分が不思議だった。

 シルヴァーンは、不思議そうにミラを見つめていた。そして、そっと手を取ると、ミラの指を開き、服から手を放させた。

 ミラの手は震えていた。一度彼は強くその手を握り締め、放すと、器を持って立ち去ってしまった。

 心臓が裂かれたように痛んだ。

 ミラは耐え切れず、奥に消えてゆく影に向かって小声で叫んでいた。

「……助けて……」

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