第8話


「……そんな……」

 ミラは、思わず呟いていた。

 グリンティアが消えた森の手前、ミラの目の前に男は残されていた。

 彼はゆっくりと立ち上がると、胸に突き刺さった杖を抜き、捨て去った。

 死んでからどのくらいの月日が過ぎたのだろうか? 服は布切れと化していて、土に汚れて元色がわからない。

 しかし、体は本物ではなく、死んだ時のままの幻影なのだろう。土色の生気のない肌をしていても、無駄のない体は動きが機敏そうだ。妖しい赤い目が光る。

 ウーレン族の盗賊の仲間だ……。持っている知識を総動員して、ミラは推測した。

 ウーレン魔族は力のある純血種で誇り高い種族だが、やせた砂漠に住を置くため豊かさに恵まれず、時々盗賊に身を落とす輩もいる。

『同士よ、おまえも水晶が目的だったのだろう? 途中でヤツラにやられたのだな? 残念だな』

 男は妖しく笑った。破れた服がはだけて、胸元があらわになった。

 思わずミラは目をそむけた。男の胸には大きな穴があり、貫通していて背後が見えた。そこに心臓はなかった。

『恐れることはあるまいぞ、おまえの胸も確かめるがよい。我々は同じだ』

 ちがうと言うかわりに、ミラは自分の胸の傷を抑えた。明らかに心臓が激しく鼓動している。

「亡霊はさっさと昇天しなさい!」

 立たない腰のまま、後ずさりしながらもミラは叫んだ。

 亡霊は大声で笑った。

 あまりの勢いに風が起き、あたりの木々がざわざわとなった。ミラの胸も音を立てて不安に揺れた。

『昇天? 心臓を失ったままか? この恨み、晴らさぬではおられぬわ。それに……』

 男の赤い目が光った。

 彼はゆっくりと歩みより、ミラを苦もなく捕まえた。

『おまえの心臓が幻影でないと、なぜ言い切れる? おまえは死んだ。胸を刺された。俺と同じようにな』

 ギリっと握りしめられた肩に痛みが走る。確かに、亡霊は実体だ。実体でないのは、走り去ったグリンティアのほうだった。

 いや……。

 彼女のほうが実体で、ミラもすでに死に果てていて、実体ではないのかもしれない。

『おまえと俺は、同じ世界に属しているのだ。おまえは死んで夢を見ている。そうは思わないか? そうだろう? さあ、心臓を渡すのだ』

 男の手がミラの手にかかり、胸元から手を離そうと力がこもる。

 ミラは、自分が死んでいるのか生きているのか、心臓の鼓動を確認しながらもわからなくなっていた。手で必死に防いでいるにもかかわらず、ミラは心臓を握られるような痛みを覚えた。


 ――違う! もしもこの心臓が幻影ならば、なぜこの死人は心臓をほしがるの?


 この心臓は本物だ。

 たしかに傷を受けてはいるが、それは癒されたのだ。

「私は、生きているわ!」

 ミラは薬を塗る手の感覚を思い出していた。

 あの痛みは、自分が生きていることの証。シルヴァーンだけがミラの命の存在を知っている。彼だけがミラの胸の傷にふれた。


 ――私はたしかに命を助けてもらったわ。


 手当ての間、ミラは目を伏せていた。しかし、心臓に突き刺さっていた視線は、少ない言葉や冷たい瞳とは裏腹に、優しくはなかっただろうか?

 そう思うのは、そうあってほしいからだろうか? どうあれ、胸は切なく痛んだのだ。


 ――死ねない……。


 ミラは再び目を見開いた。

 ウーレン族の亡霊の、邪悪なまでの赤い瞳を、穴があくほどに睨み返した。


 亡霊との睨み合いは、向こうが目をそらしたことで終わった。

 こめかみにあてがわれた槍先に、ウーレン族の亡霊は横目で槍の主を見据えたのだ。

「その人を返してもらおうか」

 冷たい目のグリンティアは、ミラを好いてはいないようだったが、見捨てることはなかったらしい。「シルヴァーンを呼ぶ」という言葉は真実だった。

 冷たく青い瞳のシルヴァーンが、いつの間にかそこに立っていた。

 シルヴァーンが構えた槍は刃物ではなく、木を削っただけの簡単なもので、途中に葉が生えていた。しかし、尖った先端は充分鋭利で人を串刺しにできるであろう。ミラを押さえ込んでいた亡霊の手が緩んだ。

『返す? コイツは死人だ。俺のものだ』

 シルヴァーンには亡霊の声が聞こえ、姿が見えるらしい。冷たい声で、はっきりと答えた。

「この人は生きている。私が助けた」

 どくんと心臓が脈打った。

 凍り付いていた血が融け再び体内にめぐるような感覚に、ミラはほのかなぬくもりを感じた。


 ――この人は生きている……。

 たとえ死んでいたとしても、この一言で生き返るだろう……。


 ミラの目頭は熱くなった。

 長い間……この森に迷い込んでから、誰かに言ってほしかった言葉だった。それを言ってくれた人が、やはり彼だった。うれしかった。

 潤む目に浮かぶシルヴァーンの姿は、いつもの温和で優美な癒し手ではなく、瞳の色同様に冷酷すら漂う戦士の姿だった。

 青白く光る木製の槍を構え、風に銀の髪をなびかせて、緊張を漂わせている。


 どこかで……。

 彼を見たことがある。

 どこで? 

 それはまったく思い出せない。


 ミラの記憶をたどる作業は、けたたましい亡霊の笑い声で途切れた。

『助けた? 助けただと? おまえが?』

 亡霊はミラをつき放し、高らかに笑った。声に木々の葉がざわりと鳴り、シルヴァーンの顔が白く冷たく固まった。

『所詮は狭い世界に釘づけにされたつまらぬ種族であるおまえらが、よそ者を助けるとは聞いたことがないぞ。最後は水晶の山でも贈られるおつもりかな? さては血迷ったな……一角の……』

 声は途切れた。

 シルヴァーンの槍が亡霊のこめかみを貫いて、声を出せないようにしたからだった。亡霊はひきつった笑い声のまま、煙のように姿を消した。

 落ち葉が風に舞った。

 風に乗って、高らかな笑い声だけが残った。

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