第5話


 木の葉がひらりと舞い降りて、ミラの顔にかかった。

 目を開くと、天井が見える。

 自然のままの木を組み合わせた珍しい造作だった。この天井を見て朦朧もうろうと過ごす日々が何日過ぎたのか、ミラにはわからない。夜昼問わず、眠ったりさめたりの連続で、夢の中にいるようだった。

 木の葉はこの天井から落ちてきたのだろうか? そのようなことはありえないが、そう思ってしまったのは、まだ意識がはっきりとしていないせいかもしれない。

 誰かがその葉を指で摘み取る。そして、ミラの目の前でくるくると回して見せる。窓から差し込む光を映して、葉脈がキラキラと踊っている。

「よかった……。ずいぶん元気になったのね?」

 可憐な少女の声が響く。

 覗き込んできたのは、十歳ほどの子供だった。

 やはり、冷たい水の瞳。額に青水晶を埋め込んでいて、グリンティアをそのまま幼くしたような少女である。

 この容姿は一族に共通したものなのだろうか?

 一座に引き回され、あらゆるところを旅したミラだが、この種族を見たことはない。知識を総動員しても、思い当たらなかった。

「シルヴァーンがあなたを助けて、ここにつれてきた時には、もう死んでいたわ。シルヴァーンが蘇生したから、あなた、助かったのよ。運がいいわね」

 子供にしてはすこし大人っぽい口を聞いてくる。

 ミラは自分の胸に手を当ててみる。

 確かにあの時、一角獣の角が心臓を貫いて、背にまで達したと感じたのだ。

「あの方は……医者なの?」

 何日寝込んだのかわからないが、胸元の傷は手当てされている。ふれるとそれでも火傷のように痛む。この傷では助かるはずがない。死ぬはずだった。

 そして心臓はもっと痛んだ。まだ、青白き刃が突き刺さったままのように感じる。

「シルヴァーンは医者じゃないわ。あなたはずいぶんと知りたがりなのね? でも、この村は隠里なの。私たちは、外の種族たちの争いごとには巻き込まれたくないの。外の人たちには、あまり知られたくないの」

 少女の言葉は、まるでシルヴァーンと同じだった。

「だから、あなたはここのこと、あまり知らないほうがいい。そして、早くよくなって、早く帰ること。あなたを探している人たちが、この村を訪ねてくる前にね」

 ミラは再び目をつぶった。

 自分を探している人がいる。それは、一座の人たちだとすれば、いい意味での捜索ではないだろう。

「……早くよくなって、早く帰るわ……」

 おそらくここは、純血種がひっそりと住む、静かな村なのだろう。平和な、隠された楽園なのだ。

 ミラの生きる世界とは、全く違った。

 生きるために必死になって働く。善し悪し事も判断せずに、ただ自分たちの生活のために日々を送るのが、混血魔族のリューマ族だ。

 荒くれのリューマ族が土足で押し入るような場所ではない。ミラは、すこし悲しくなった。



 少女は見張りのようだった。

 用心深い村人たちは、まだ動けないとはいえ、よそ者を一人きりにすることは好んでいないようだ。

 少女は部屋の片隅で、小さな、しかし器用な指先でレースを編んだり、どこから持ってきたのかわからないような、古めかしい本を読んでいたりする。

 天井から透過する光と、窓から差し込む光が、少女の銀色の髪を淡く七色に染めあげる。時間とともに、色は移ろいゆく。

 子供らしいあどけなさと、子供らしくない時間つぶしに、ミラは違和感をもった。

 おそらく、男は仕事があるのだろう。年長の女も家事やその他で忙しく、このような見張りは子供の仕事なのだろう。

 子供とは思えぬ少女の瞳が、観察するようにミラを見つめることもあった。青い瞳と目が合ってしまうと、ミラは不安に囚われた。

 あまりにも現実的ではない。夢のようだ。


 ――私は死んで、今、黄泉の国にいるのではないだろうか?


 そのような疑いが、一角獣の角によって裂かれた胸から、泉のように湧き出てくる。

 誰かに言ってほしかった。手を握りしめて……。

「あなたは生きている」

 たったそれだけで、ミラは胸に吹き抜ける冷たいものを我慢することができただろう。

 しかし、少女はミラを見つめるだけで、ミラの手を握ることすらなかった。



 扉の音が重々しく響いて、シルヴァーンの帰りを告げる。

 夜になっていた。天井から透過する光も、窓から差し込む光もすでになく、古めかしい燭台に灯がともるまで、恐ろしいほどの暗闇だった。

 どうやら、ここは彼の家らしく、それも一人で暮らしているらしい。

 彼は無口だったが、こまめに看護をしてくれた。滋養のある粥を作り、薬湯を入れてくれる。

 リューの街やイズーに住む金持ちの純血種に比べると、生活は質素だが、すべてが豊かだ。

 生まれ落ちてからすでに、品格を備えているとは、彼らのような人々のことを言うのだろう。無駄な動きをしない。

 それすらも、ミラを夢心地にさせる。かすかに触れる彼の手のぬくもりだけが、ミラを現実に戻させた。

 そして……。

 胸元の傷の具合を見ようとして、彼はミラの寝衣に手を伸ばした。

 おもわず胸元を抑えてしまって、ミラははっとした。

 一瞬、醜悪な座長の顔を思い出し、嫌悪感いっぱいの顔をしてしまったことを恥じて、ミラは動揺した。青い瞳が一瞬困惑に揺れる。

「あの……グリンティアさんは?」

 少女は、確かに『我がシルヴァーン』と、彼を呼んだ。

 あの時の少女の言葉が正しければ、少女と青年はともに暮らしていてもおかしくないはずの関係にちがいない。

「あの人は……あなたには触れませんから……」

 ミラの顔が、かっと熱くなった。

 今まで意識が混濁している場合が多く、自分の世話をしてくれた人に気がつかなかった。

 このけがを治療し、清潔な寝衣に着替えさせてくれたのは、すべてこの青年の手ということになる。

 何度、彼はミラの胸を開き、その肌に触れたことだろう?

 ミラの動揺を気にもせず、シルヴァーンは彼女の腕をよけて、服の前を開いた。そこに包帯が巻きつけてあった。

 これだけきれいに巻いたのには、そうとうの時間がかかったに違いない。しかも、おそらく何度も取り替えているのだろう。傷はほとんど乾いていて、血で固まってはがれにくいこともなかった。

 あらわになった胸を、相手はじっと見つめている。手当てのためとはいえ、ミラは目を合わせることができず、思わず横を向いて視線だけを感じていた。

 リューマ族にしては色白のミラの胸は、はりがあって形よく、踊りを踊らされる時の衣装は、わざと胸が見えかけたようなものが選ばれた。だからといって、男にむきだしの胸を見られることは初めてだった。

 傷口に軟膏のような薬を塗られたとき、ミラはかすかに声をあげた。

 一瞬、手が止まる。彼は無口だった。

 痛むのですか? などと聞いてはこない。声をあげるということは、痛いのだということを充分に知っているからだろう。

 やや時間をおき、さらにゆっくりと薬を塗り、傷口に布を当てる。新しい包帯で、布をずれないように抑える。

 実に器用だった。片腕でミラの体を支えながら、薄い唇で包帯の端をくわえ、片手できれいにミラの胸元を巻いてゆく。

 背中に包帯が回されるたびに、素肌に彼の息を感じるほどに体が重なる。銀糸の髪が、ミラの胸を隠すほどに身にふりかかる。

 包帯のせいか、息苦しく感じる。木の香がかすかに感じられた。

 すべてが終わると、シルヴァーンはやはり口もきかず、そっとベッドにミラを横たえた。

 心の中をすべて見てしまうような青い瞳に、ミラは恐怖すら感じた。胸に突き刺さった青い破片が、きりりと音を立ててきしむようだった。

 冷たいままの突き放すような瞳のままで、彼は部屋を出て行った。


 気がつけば、ミラは泣いていた。

 なぜ、涙が出てくるのかはわからない。触れられるのが嫌でたまらず、人の命を奪ったのかも知れない行為をしておきながら、人肌の温かさを感じていたかった。

 誰も、ミラに触れることはなく、生の肉体の存在を感じさせることは無かった。彼だけが、ミラの傷に触れ、痛みを呼び起こしたのだ。


 ――夢ではない。生きている。

 ――生きていたい。生きている。


 ミラは、息苦しくも切ないまでに、人のぬくもりを求めていた。

 その願いは、やはりグリンティアら少女たちと同じ、彼の青く冷たい目には届かず、ミラを死の夢の中に留めさせた。

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