第3話


 ――このような、悲しい死を迎えてはいけない、ミラ……。


 誰かの声がした。

 視線を感じる。じっと見つめられている。

 死んではならない。死んではならない。死んではならない。

 言葉が、ミラの死んだはずの耳に響いた。

 優しく心地のいい風――空気。

 うっすらと目を開けると、青空と木々が揺れ動くのが見えた。そして、銀の風が。木々の香りを運んでいる。

 死の闇から、呼び戻されたようだった。

 このように死するべき者が生き返るのは、よくないのでは? と、一瞬不安になった。

 かすかに痛みを感じ、胸に手を当ててみる。すると、そこに大きな穴があった。

 はっとして、目を見開く。

 自分の胸が赤く染まっている。心臓が血を噴き出している。

 突然気分が悪くなり、目の前が真っ暗になった。


 死んではならない……。

 ――死んだら元が取れないじゃないか!


 頭の中に声が響いた。

 夢か現か……?

 何も考えられない。

 体がだるい……。

 熱があるのだ。湿り気のある麻の敷布がひんやりとする。

 体にまとわりつくような気持ち悪さだが、体温だけは奪ってくれる。

 再び開いた目に映ったのは、見覚えのある麻色。一座が張った天幕の中のよう。そんな臭いがする。


 起きて、練習しなければ……。


 通し稽古で失敗し、強く叩かれた。体で覚えさせるというのが、一座のやり方だ。次回は失敗するわけにはいかない。

 そうは思うが、体の不調をいかんともしがたい。

 荒れた大地は夕刻を迎えている。今夜はここで野営することとなるだろう。

 枕元をばたばたと、新参の、やはり銅貨で買われた子供たちが走り回り、食事の準備に余念がない。誰かがミラの頭を飛び越えた。

 土の混じった風が、ミラの頬を撫でていく。強烈とはいわないが、かすかに異臭が混じる。

 小間使いの老人が、干していた馬糞を裏返す。夜は冷える。貴重な熱源となるから、無駄にはできないのだ。若い男にこずかれながら、にへらにへらと笑いながら、上手に馬糞を並べている。

 座の年長の女が、うんざり顔の座長に怒鳴りまくっている。きっと私のことを言っているのに違いないと、ミラは思って目を閉じる。

 ウーレン王国の皇女誕生記念に、ガラルの関所が開くというのに……。

 ミラが寝込んでしまって、旅の行程が遅れている。このままでは、一座の者たちが長年あこがれていた魔の島中央部に進出できない。

 誰かが乱暴に腕をひく。

 寝てなんていられないよ! と耳元に声が響く。

 ジェスカヤの街では、祝いのための演劇の演じ手を探しているのだ。多くの一座が集まることだろう。選ばれることはないだろうが、このままでは演じることすら間に合わなくなる。

 また別の誰かが怒鳴る。


 ――寝ているんじゃない! 厄介者めが。


 エーデムの姫役を演じるのに、あんたしかいないなんて、この世も末だよ。

 あんた、色が白いから……。それぐらいしか、役に立たないなんてねぇ……。


 やや赤みがかったミラの髪に、誰かが指を絡ませて、頭ごと持ち上げる。うつろに見るその手の色は、ミラの髪よりも赤茶けて見えた。


 ――顔を傷つけるな!


 座長の声だ。


 ――いいか、顔に痣を残すんじゃない。あとは死なない程度にな。


 決まって蹴られるのは、腹だ。一瞬、胸が悪くなり、吐きそうになる。

 ああ、まただ。

 また、蹴られる。殴られる。

 起きなくては。

 演技を……おぼえて、踊って……歌って。


 ――だめです。私。


 ただ飯食わせているわけではないよ! と女がぶうぶう文句をいう。

 ミラの目の前に、赤鬼のような女が立っている。その後ろで、座長は煙草をつまらなそうに吸っている。吐きそうな香りが漂う。


 ――無理なんです。だって……。


 体が硬直していて……あぁ、そうだ。

 一角獣に角で心臓を一突きされて……死んでしまったから。

 私は死んでしまったのだ。


 ――何を言っているんだよ! 死んだら元が取れないじゃないか!


 誰もミラごときの死を悼む者はいない。


 ――ごめんなさい。


 役にたたなくてごめんなさい。

 でも……水晶をあげるから、それで許して……。

 それで……。


 涙がこぼれた。

 当然だろうとばかりに、声は執拗にミラを責め立てる。

 ミラは動かない体で、開かない口を一生懸命動かして、一座の面々に詫びていた。





「……愚かなこと……」


 耳の奥に女の声が響く。まだ、少女のような声だ。

「……か起きたら、あなたはどうするおつもりか?」

 少女の声は、何かしら責めたてているように聞こえる。

 知らない人の声。一座の人たちではない。


 ――何?


 ミラは目を開けることもできず、暗がりの中で答えを見出そうとしていた。

「何も起きはしません。この人に悪意はない」

 答えは男の声だった。


 女の声が自分を責めているわけではないことを知り、ミラはかすかに目を開けた。

 森の中にいる? と、勘違いするような天井てんじょうだった。

 森から拾われてきたようなそのままの木が、複雑に組み合わされていた。

 あの不思議な木の枝や幹が使われていて、ほのかに光を透過しているらしい。かすかに明るい。

 丸天井になっている。どうやら小さな小屋のようだった。

 しかし、この天井だけを見ても、とても手のこんだ美しい造型で、人の手によるものとも思えない。

 やや太めの枝の間を、細めの枝が隙間を埋め、独特の編み模様を作り出している。森の精が木にお願いして、自らを折り合わせてもらったような感じなのだ。

 これは……夢だ。と、ミラは思った。

 さっきからぐるぐると、天と地と闇の間を回っているような気がする。もう一度、瞬きをしたら、きっと、一座の天幕の中で目を覚ますに違いないと。

 だが、今回の夢は、なかなか切り替わらなかった。

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