第2話
渡る風が森を揺らした。そして、草に波模様を描いて通り過ぎていった。
その者は草の海に微動だにせず、石像のようにただ立ち止まり、こちらを見据えている。
それは波のように踊って、朝の光に透けて白金の輝きを持っていた。耳は真直ぐに揃ってこちらを向き、風にも揺らぐことはなかった。
ミラは、瞬きもせずにその者を見つめた。
輝く鬣の海に揺らがないものは耳だけではない。
もっとはっきりとした動かぬもの。青白い光を閉じ込めたような、不思議な細剣。荒れ狂う波の間にあって、燈明にも見える角。
それはまさに、その者の存在、そのままだった。
「一角獣……?」
ミラは思わず呟いた。
その声に反応して、ぴくりと一角獣の片耳が動く。石像ではない証拠だ。
鬣と同じ毛色の頭に、前髪が揺れ、水色の目が見え隠れする。かすかに頭を下げたとき、角もつられて下を向く。前足の蹄で地面を少しかき、何か大地と話をしているようにも見える。
どうしていいのかわからなかった。
時間だけが流れていく中、ミラは立ち上がり後ずさりした。
しかし、その行為が一角獣の逆鱗に触れたようだった。
いきなり首を上げ、嘶くと、激しく地面をかきむしる。勢いで踊る鬣は、まるで白く燃え上がる炎のように揺らめいて見える。
明らかに感じるのは殺気。許しがたい嫌悪感。
ミラはあわてて来た道を引き返し、森へ逃げ込もうとした。
一角獣は鬣を振り乱し、ミラに向かって突進してきた。
大地を蹴る蹄の音が、ミラの心音と重なり、大きく響いてくる。
寸前のところで身をかわし、角の一突きを免れたものの、疲れ果てた足は、一ひねりして転んだとたん、どうにも動かなくなってしまった。
ミラが逃げ込もうとした森の前で、一角獣は身を翻した。
清くも美しい姿に、憎悪の念をみなぎらせている。ミラを一瞥すると、再び大地をかきむしり出す。
逃げることは……もうできない。
ミラは震えながらも這いつくばって逃げようとした。
今までかつて、一角獣など見たことがなかった。
ただ、話には聞いたことがある。魔の島の奥、西の果ての地に大きな森を作り、彼らは住んでいるのだと。別名【一角種】【森の守り人】【角あり人】とも呼ばれると。
一角の森は、別の種族が踏み込むことができないように、特殊な結界で守られているはずだった。時々、このようにして結界を越えて、人が紛れ込むこともあるらしい。だが、生きて帰って来た者はいないという。
迷い込んだ者は、角あり人の餌食になり、むごたらしく死ぬだけだ。
しかし、リューマ族の者たちはさすらい人の悲劇を悲しまない。むしろ、吉報としてあつかった。
一角の森には、水晶が豊富に眠っているともいわれているからである。
結界に隠された森は、踏み込むどころか見つけることすらできない。角で引き裂かれた屍は、そこがたとえ砂漠であっても、森であることを教えてくれる。
このような死人が見つかると、人々はこぞって屍骸の見つかった場所を掘り返し、水晶を掘り当てるのだった。
だから、一角の森を見いだした人の不幸は、他の者たちの幸運ともなる。
だが、間違いなくミラは不幸のくじを引いた。
「私は! 私は迷い込んだだけなの! 森を荒らすつもりなんかないの!」
冷え冷えとした獣の瞳に向かって叫んだが、一角獣には何も通じない。大地を蹴る音が近づく。
角あり人。森の守り人。
人の姿などではないのに、なぜ人々はそう呼ぶのだろう? あれはまさしく凶暴な獣の姿だ。
ミラがそう思った瞬間だった。背中に激痛が走った。
かすむ目に、銀の鬣が踊って見える。角の一突きで、ミラの体は宙に一瞬舞い、再び大地に叩きつけられた。
殺される……。
でも、死にたくない……。
角の恐怖に耐えながらも、ミラはどうにか正気を保った。
角ある魔族は、角を落とせば死に至る。そのような話も聞いたことがある。
青白い剣を構えて迫ってくる剣士のように、一角獣は突進してきた。走る姿は馬そのもの。優雅さで、美しくさえ見える。
ミラは最後の力を振り絞って、獣の動きに神経を集中させていた。
わずかな差で体をずらして角を避け、ミラは角に手を伸ばした。これを掴み、へし折る力が万が一あったら……。助かるかもしれない。
手は角を掴んだ。
しかし、へし折る力などあるはずもない。一角獣は激しい怒りの声をあげ、何度も首を振り上げた。
ミラの体はそのたびに振り回されたが、彼女は手を放さなかった。放せば死だけが待っていた。
「私は! 私は……帰りたいだけ……」
再び叫んだが途中で舌を噛み、言葉が途切れた。
うっと……言葉を飲み込む。
本当に?
本当に帰りたいのだろうか?
ミラは突然疑問に襲われた。
帰ってどうなるだろう? 座長が死んでいたら、殺人者としてリューあたりで裁判にかけられ、恩人を殺した罪により処刑されるであろう。
座長が生きていたら、やはりひどい目にあわされる。万が一、許しを得たところで、彼の手篭めにされることには間違いない。
一座を離れて生きてゆく? どうやって?
方法はないし、このままさ迷ってどこかの村にたどり着けるのかどうかもわからない。そこで何か生きる道が見つかるとも限らない。
結局、ミラは命を繋いだとしても、一座で踊り、時に座長の夜の相手をし、時に一夜限りの客をとり、または年長の者たちに叩かれて生きていくしかない。
現実が目の前をよぎった時、手がしびれて力が抜けてしまった。
ミラの体は角を離れたとたんに、地に落ち、走っている一角獣の四肢に巻き込まれて、ぼきりと音を立てた。
もう痛みは感じなかった。
草の葉陰に浮かぶ姿は、美しくも冷酷な獣の姿。
その角は、血を欲している。
細剣のような美しい角。青白く燃える炎が、これからミラを黄泉の国へといざなうだろう。
かすむ目に最後に映るものが、これなのだろうか?
ミラは自分の人生を振り返ってみた。あまりに淋しい人生の終わりだ。
自分のために生きたこともなければ、誰のためになったこともない。何一つ、価値の見出せない一生だった。
地面に転がった石のように、ミラは生きて死んでゆく。
だが、森の片隅に屍を残せば、自分と同様の貧乏なリューマ族が、水晶の山を見つけることができるかもしれない。指標になれるかもしれないのだ。
美しい水晶を手にした人は、きっと自分の娘をミラのように売り飛ばさない。幸運に感謝し、我が子を大事に育てるだろう。こうして、不幸なリューマの女の子を、一人くらいは救えるかもしれない。
屍になって、はじめてミラは輝ける石となる。人のためになることができる。
水晶のように透き通った涙が頬を伝わった。死を前にして浮かんだ甘美な夢に感謝した。
それだけで、今まで生きてきた意味がある……と思いたい。
ミラは最期の瞬間まで、目を開いていた。
自分の胸に深く深く、獣の角が突き刺さる時ですら、彼の美しい鬣を見ていた。
しびれる手を伸ばし、その鬣に触れてみる。思いのほか柔らかく感じたのは、柔らかいからなのか、感覚が麻痺してしまったからなのかはわからない。
白銀の鬣が血で赤く染まっていくころ、ミラの瞳も静かに閉じられた。
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