一角の森

わたなべ りえ

第1話


 ミラはひたすら走っていた。

 昨夜、座長が酔っぱらって絡んできたところを、近くの水差しで思い切り殴り、そのまま逃げ出したのだ。

 脂ぎった醜悪な男は、目をむき出したまま、その場に倒れた。頭が割れて、血が天幕の床に広がって行く様子を、ミラはしばらく呆然と見ていた。

 しかし、急に怖くなった。

 手は、粉々になった水差しの欠片で切ったのか、それとも座長の血のせいなのか、赤黒く汚れていた。座長は大きな図体を力なく床に臥したまま、ピクリともしない。

 ミラは這いずって天幕を出て、そのまま何も持たず、何も考えず、立たない腰で無理矢理立ち上がると、一目散に逃げ出した。

 親代わりだった座長が死んだのか? 生きているのか? 

 そのようなことはどうでもよかった。ただ、人を傷つけたという行為に動揺していた。

 完全に人の気配のなさそうなところまで逃げてきたとたん、ミラは悲鳴をあげた。涙で前が見えないほどに泣いていた。闇雲に、どこへ向かうかも考えずに、ひたすら走って、自分の過去から逃げ出した。



 生まれてから、ミラが一番最初に憶えていること。

 よくわからぬ誰かの手から、数枚の銅貨と交換で、旅一座の座長の手に渡ったことである。それも、もしかしたら旅一座の者たちが噂していることを聞き、自分の記憶として勘違いしているのかも知れないが。

 とにかく、物心がついた時には、旅一座の下働きをさせられていた。そして、蹴ったり叩かれたり、時に鞭で打たれながら、色々な歌や踊りを仕込まれた。

 さほど役にもたたない小さな少女を、座の者たちは厄介者に思っていた。歌や踊りはそこそこできるようにはなったが、体が弱いらしくよく寝込んだ。

 だが……。

「リューマ族にしては色が白い。そこがお前を買った理由らしいよ」

 旅の一座の女たちは、よくそう言って笑っていた。

 どういう意味なのか、幼いミラにはわからなかった。だがまさに、ミラはそれで見捨てられなかったのだ。


 リューマ族は、かつて人間と交わった混血魔族であり、古の魔力を秘めた純血種が住む魔の島中央部においては地位が低い。

 だが、魔の島にあって、人口の半数を占めている。繁殖力も強く、体も丈夫な彼らは、徐々に世界に広がっていった。

 滅びゆく古の純血魔族は、余計に彼らを低俗に扱い、搾取と差別を繰り返した。

 黄色く薄汚れた肌を持つリューマ族は、白く透き通る純血種の肌を憎みながらも好んだ。そんな女を抱けば、自らも純血の力を取り戻せると考える男もいる。また、純血の女を征服した妄想にひたって、日頃の憂さを晴らす男もいる。


 リューマ族の一座は、金になりそうな場所を求めて、この島のあらゆる国を訪ね歩いた。

 時には人間のあふれかえるオタール、時には商業の都市リュー、純血種の魔族が住むエーデムの首都イズーや、ウーレンのオアシス都市も回った。

 裕福な純血種の住まう土地は一番の稼ぎどころであるが、旅の行程はけして楽ではなく、突然の体調不良でミラが足を引っ張ることもよくあった。

 座長は、それでもミラを打ち捨てようとはしなかった。だが、彼女を見る目はけして優しいものではなく、どこか陰湿で不気味だった。

 座の者がいやらしく含み笑いをする。

「座長はさ……。おまえがもうちょっと成長するのを待っているのさ」

 待ちわびたその日が昨夜だったのだ。



 木の根に足をとられてミラは転んだ。

 ぬるりとした苔が、ミラの体を滑らせて、かすかな傾斜の下方へと運んだ。水溜りに顔を突っ込み、ミラは初めてあたりの様子を探るだけの正気に戻った。

 深い森の中だった。

 薄暗く、鳥の声も獣の咆哮も聞こえない。湿った土で体温を奪われて寒いが、風がないので震えるほどではなかった。ミラはふらりと立ち上がった。

 森の木々は広葉樹であり、枝が入り組んでいて比較的大き目の葉が茂っている。しかし、ミラはこの島の各地を旅したとはいえ、このような不思議な木々を見たことはない。

 なにやらほんのりと幹が発光し、青白い亡霊が立ち並んでこちらを見ているように見える。その光が、暗くて見えないはずの木の枝や葉の形を、影絵のように浮かび上がらせているのだ。

 闇の中、黒々としていて恐ろしい生き物のように見える。一瞬通った風に葉を揺らせ、枝が一斉にぎしぎしとうなると、ミラは怖くなって再び走り出した。

 木がまるで追ってくるような、不思議な感覚に襲われる。

 森の声はぎぃと叫び、ミラをさらに追い立てる。通せんぼするような枝葉をかきわけ、ミラはこの森をとにかく出ようと必死に走った。

 しかし、足はすでに限界だった。一晩中走りつづけ、今、まさに朝を迎えようとしている。

 枝葉の向こう、かすかに見える空が明るくなってきた。朝陽がよけいに木を際立たせ、陰を色濃く一つ二つと増やしてゆく。

 目の前が明るくなる。やや木々の途切れた場所に出た瞬間、ミラは朝陽の中の茂みに倒れこんでいた。

 緑の香りが濃く鼻をくすぐる。日に照らされて香りたつ。

 朝露が、ミラの頬をほんの少しだけ清めてくれた。

 恐ろしい闇の森を抜けたのだ。

 昨夜から初めてほっとした気持ちになれて、ミラは倒れこんだまま、大きく深呼吸をした。

 優しい風が渡ってゆく。

 大地の微動。かすかな音。

 蹄の気配を感じて、ミラは驚いて頭を上げた。

 うっそうと茂る森を背景に、銀色の影がそこにあった。

 それは、馬によく似た生き物だった。

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