第十八投 シエラちゃんの恋愛事情

 猫が音もなく床に飛び降りる。カーテンがゆらりと揺れた。それだけで分かる。今から嫌なことが起こるって。

 棒付きキャンディーを口で転がす猫なんて聞いたことがない。肉球の付いた手で器用に棒を掴み、キャンディーをチュパッと口から出してぴちゃぴちゃ舐め回す。不気味に赤く光る眼で私を見上げながら。

 声も出せず生唾を飲むと、猫は口角を上げて「ひゃひゃひゃ」と笑った。


「ンナーゥ。おかしいなぁ、猫は女子高生に人気って聞いたのに。こいつ可愛いよねぇ?」


わざとらしい困り顔で、自分の体全体を捻じって確かめた。


――こ、この顔の感じ……。


「昨日はビックリしたね。オークがまさかの二匹!」


――あの時の!


 私が転移した時に見た少年! 猫になっても生理的に人の神経を逆なでするこの笑い方。怖さよりむかっ腹の方が先に立つ。


「だ、誰……、あなた」


「んー、僕その質問、飽きた」


 窓から吹き込む湿った生温い風に、ベッドに開かれたままのスケッチブックがペラペラめくられる。


「これかぁ、湿原で描いてたの。どれどれ」


――私のスケッチブックに触るなっ! ……。あれ? 体が反応しない……。


「ふぅん、なるほどね」


 猫は器用に次々とページをめくって眺める。日本にいるときに描いた絵から、ミーナちゃんにあげた絵の下書きまで。なんで? どうして? いつもなら記憶が飛んで相手に飛び蹴りを……。


「絵も頭も空っぽだな」


 ――は!?


「ひゃひゃひゃ。怒らないでよ、怖いにゃぁ。上手上手っておだてられて木に登ってたタイプ?」


 くわえたキャンディの棒を上下に振りながら、猫は続ける。


「いろんな意見をちゃんと聞きたまえよ? ゴホン。こう描けば上手に見えると思って描いてるでしょ。描いて~塗って~ほら、できた。綺麗でしょ? ってバカの一つ覚えみたい。大量生産コピー。絵が死んでます。以上」


 ……。


「特にミーナの絵ね、刻の宿の。花束でチョーカー隠したの? 安直だな~。発想がさぶっ」


 猫はどうでもいい物を扱うようにスケッチブックをベッドに放りなげた。そしてふわりと新しいページが開かれ、文字が刻まれた。


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 オークをスケッチしよう!

 最終目的地 アルカディア大湿原、エクスカリバーの大岩

  

 1の目. 九段の滝

 2の目. ストレイシープ牧場

 3の目. 魔女の森

 4の目. ハイネ湖

 5の目. ヨサコイ街

 6の目. アルカディア大湿原中継所

 

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「ちゃんと経験して描けば? 絵描きなら」


 猫の手がスナップをきかせる。上から何かが落ちてきてポコンと私の頭に当たって床に転がった。サイコロだ。


「意味、分かるよね?」


 ……私の、


「まぁ、振らなくても君にデメリットはないけど」


 ……スケッチブックに


「行けばいいことあるかもよ? ンナーゥ♪」


「気安く触るな!!」

 

 固まっていた足が怒りで動く! 黙って聞いてれば! 好き勝手言って! 捕まえようとしたけど猫は笑いながら私の背より高くジャンプ。宙で一回転して窓の縁に着地、……できてないね。顔から落ちて「ニ”ャムッ」と叫んだ。捕まえた!


「なんなのよぉぉぉ! アンタはぁぁぁ!」


 顔の皮をグィィグィィ引っ張ってやる! ムカつく、ムカつく! ほんっとうにムカつく!


 うっ、く、くぅぅ、うっ、うっ、うっ……。


 涙が止まらない。悔しくて、理不尽で。

 何でここまで言われなきゃいけないの? 突然こんなところに来ちゃって、オークに襲われて。助けてもらったのがあーちゃんだったから良かったけど、いっぱい怖いことだってあったんだよ?

 そんなときでも絵を手放さなかった。描くことで、描こうとすることで救われてた。それをお前はぁぁぁっ!


「ギニャァァ……ァァ……」


 !?


「えくたーん、今日はパパが早めに上がってお風呂案内しろって~って、わ! どしたの!?」


 早上がりしたシエラちゃんがビックリして駆け寄ってきた。そりゃそうだ。号泣しながら、ルームメイトが街の人気者カリバー君を引き伸ばしてるんだから。よく見ればカリバー君の目はいつも通りの澄んだブルーの涙目になっていたよ。



§



――空っぽ、バカの一つ覚え、絵が死んでる


 なによ! これでもFantasficで投げ錢たくさんもらってるのに! い~っぱいExcellent!いいね!されてるのに!

 石鹸を力いっぱいタオルにこすりつける。待って、これ貴重品じゃない? どこか冷静に石鹸の減り具合を計算する自分もいて、それがまた腹立たしくて。もう! 一体どこでこのイライラを消化すればいいのよ!

 パパ・エクセリアの女子寮は国内でも珍しく共同風呂付き。飲食店の従業員たるもの、清潔と身だしなみには気を使えというパパの意向らしい。


「お湯! 出るですっ!!」


 据置型魔術具のシャワーみたいなやつに怒鳴ったところでお湯の勢いは変わらない。ショワワ~ンと出てくる。ムキーッ! バッシャバシャ出てこーい! 仕方ないからザブンッ! と広くもない湯船に少し飛び込んでもぐった。ブクブクブク……。


「えくたん、どしたの……?」


 シエラちゃんは頭をあわあわにしながら若干引き気味。キツネ耳に泡は入らないのかな? 気になるよねぇ。正解はー……、“洗う時と流す時は折りたたまれてる”でしたー!


「ごめんね。どうにもこうにもイライラすることがあって」


「誰かに何か言われた? 気にすることないよ。奴隷ってだけで差別する人もいるからさ。えくたんは奴隷じゃなさそうだけど」


「いやいや、私も捨てられた根なし草ですから」


 という捨て子設定で乗り切ろうと思う。実際、大変だねーってそれ以上聞いて来ない。異世界的に普通らしい。本当いろいろな事情の人いすぎ。


「そうだ……、シエラちゃんさっきはごめんね。変なこと聞いちゃって」


「ん? なんのこと?」


「仕事前に、どうしてそんなに食べられるの? って」


「あぁ、あれ。いいよ。気にしないで。ビクビクしてたら仲良くなれないじゃん?」


 仲良く……、私、異世界でお友達できたんだ。私の友達。異世界の。


 少し心が明るくなった。友達っていいな……、っていうか、さっきから気になってたんだけどシエラちゃん、すんごいあわあわにして体洗ってるのよね。気持ちよさそう。その石鹸どこのお店のかな。


「えくたんと同じところだよ?」


 おかしいなぁ。ケチらず多めに付ければ良かった……、じゃないな。違うな! シエラちゃん! そ、それまさか!?


「カリバー君だよ? すっごい泡立つ~♪」


 街の人気者は大食いガールにむんずと鷲掴みにされ、泡に溺れそうになっていた。絞っちゃダメ! グェェって聞こえない!? 私もさっきカリバー君にいろいろしてしまったけれども。


「私ね、どうしても大金必要でさ。カリバー君って金運の妖精でしょ? めっちゃEXCエクスコ貯まるんだって! だから、こうやって体にこすりつけてっと」


 ああぁぁ、カ、カリバー君の体があらぬ方向にぃ! トム〇ジェリーの実写版じゃないんだから! 私は妖精の生命力を信じ、震えながら金運を祈った。



§



 油が落ちすぎてカサカサぐったりカリバー君を、私のベッドに寝かしてあげた。その横でシエラちゃんと寝っ転がってガールズトーク中。楽しい! 修学旅行みたい! 髪にはこれを付けるといいとか、化粧品はこれが良いとか。後はブルーノさん、ブルーノさん、ブルーノさん。


「シエラちゃん、ブルーノさんのこと超好きだね」


「な! なんでそんなこと言うの!?」


 なぜバレないと思えるのか。


「……ブルーノさんは、私の王子様だもん。これ見て」


 チョーカー?


「それ、隷属の首輪……って言うんだっけ?」


「知らないの? そっか。えくたんは幸せなところにいたんだね。……基本的にはね、子供の奴隷なんて要らないの。労働力としては価値が無いからさ。だから私みたいな、女の子の奴隷が行く先は大体決まってる……、そういう事」


 カリバー君を撫でながら伏し目がちに話すシエラちゃん。あぁ、子供の人権なんてこの世界にはないんだ……。


「でもね、絶望して何もかも諦めてた私を王子様が助けてくれたの。ブルーノさん! あのクソ奴隷商からここに連れ出してきてくれたんだよ! あの時に食べたピザの味は今でも覚えてる。そのあと、最終的に私を買ってくれたのがパパなんだ」


 大食い女王の目がキラッキラしてる。なるほど、最初に餌付けしたのがブルーノさんだったか。納得。


「私を見つけてくれたブルーノさん、ピザ大会でも受け止めてくれたブルーノさん……ねぇ、ダメ? 奴隷が人を好きになったらいけない?」


 すがる様な目。誰かに「いいんだよ」って言ってほしいよね。それが友達なら……、シエラちゃん、私の気持ち受け取って。


「私のいたところでは、好きになっちゃいけないパターンあるよ?」


「え!? 例えば!?」


「もう結婚してる人。それ以外はオールオッケー♪」


「やったぁ! ブルーノさん、独身だからオッケーだ!」


 両手を上げて喜びを表すシエラちゃん。カリバー君がしっぽをペンペンした。




 その後シエラちゃんはすぐに寝ちゃった。起きてるとお腹空いて大変なんだって。灯りももったいないしね。高いんだよ、ローソク。

 静かな部屋で一人スケッチブックをめくる。さっきの文字は……、刻まれたままだった。


『ちゃんと経験して描けば? 絵描きなら』


 言われなくても描いてるよ。

 経験するって何を? もう一度オークに襲われろって? そんな馬鹿な話ない。大体なんでアイツはサイコロを?

 “アルカディア大湿原”なんて文字見たくもない。お給料もらったら新しいスケッチブックを買いに行くんだ。これはもうクローゼットに仕舞っておこう。


 ベッドに入るとシエラちゃんからまた魔物の唸り声が聞こえた。


「ぐぅぅぅ……。お腹空いたよぅ……。かぷっ」


「ギナァ……」


 早っ! 朝までもたないの?

 カリバー君。朝、骨になってたらどうしよう。どうかシエラちゃんにお金持ちになったいい夢を見させてあげてね。さて、私も寝よ。


「キアラ……、待ってて」


 夢に落ちる寸前、誰かの名前を呼ぶ微かな声と、すすり泣きが上から聞こえた気がした。

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